第五話 記録係の七行
拘置室には、机がなかった。
石壁と木の寝台。鉄格子。水差し。文章を整理できそうな平らな場所は、床しかない。
蓮人は壁を背に座り、目を閉じていた。
焦げた匂い。冷却輪の停止。出力低下。結界消失。警報不発。十三分後の復帰。
順番はわかる。
だが、因果はわからない。
前世ならログを集める。変更履歴を確認する。機器の状態を取得し、再現条件を探す。
この世界では、文字すら読めない。鉄格子の下から、木皿が差し入れられた。
黒いパンと、豆を煮たもの。見覚えのない香草が強く匂う。蓮人が礼を言うと、運んできた兵士は首をかしげた。話し言葉は通じるのに、皿の横へ添えられた札は読めない。
何時の食事か。代金が必要か。食べてよいのか。
簡単なことまで、誰かに尋ねなければ決められない。パンをちぎると、乾いた屑が社員証へ落ちた。蓮人は慌てて払い、役に立たない札をまた胸元へしまう。
味は薄かった。それでも温かい豆が喉を通ると、自分が死んだのではなく、ここで空腹になっていることだけはわかった。
若い運用担当者の机にも、障害対応用のパンが置かれていた。袋を開ける時間もなく、朝には固くなっていた。
彼の名を、ようやく思い出す。森川。
倒れる直前まで同じ会議室にいたのに、蓮人は呼びかけるとき「運用さん」としか言わなかった。帰れと言えず、名前さえすぐに出なかった。
北塔の記録係も、同じ扱いを受けているのかもしれない。役割だけで呼ばれ、交代できない理由として使われる。
蓮人は木皿の豆を一粒残らず食べた。ここで倒れれば、また別の誰かが仕事を増やす。それだけは、前の世界から持ち込まずに済む習慣だった。
自分には何ができる。
そう考えた瞬間、胸の奥が冷たくなった。
また始まっている。
仕事が自分の前へ来た途端、誰にも頼まれていないのに、最後まで背負う準備をしている。
ここは知らない世界だ。蓮人は拘束されている。結界を守る責任などない。
それでも、北門で転んだ少女の顔が浮かんだ。
「考えるのをやめるのは、無理か」
自分に向けた言葉が石壁へ吸われた。
廊下から鍵の音がした。
鉄格子の前に、ミナが立っていた。後ろにはセラもいる。
「出ろ」
セラが扉を開けた。
「釈放ですか」
「代官命令では拘置だ。守備隊判断では、北塔調査への同行が必要になった」
「両立するんですか」
「逃亡防止の監視を兼ねればな」
規則を破らず、目的を満たす解釈を見つけたらしい。ミナは大量の紙を抱えていた。
「覚え書きを全部持ってきました」
「どれくらいあります?」
「配属されてから百八十七日分です」
蓮人は紙束を見た。
「毎日?」
「はい」
「なぜ、消されても続けたんですか」
ミナは紙束の角をそろえた。
「最初は、主任に認めてもらうためでした。配属された日に、若い者の感覚は記録にならないと言われたので、毎日同じ順番で書けば比較できると思って」
「認められましたか」
「三日目に、運転簿の余白を汚すなと叱られました」
「それでも百八十七日」
「五十日目くらいから、誰かに見せるためではなくなりました」
ミナは一枚を抜いた。紙の端に、小さな丸が並んでいる。
「前の日の自分が気づいたことを、次の日の自分へ渡すためです。匂いも音も、慣れると気づけなくなるから」
それは正式な報告ではない。
交代相手のいない者が、自分自身へ続けた引継ぎだった。
「丸は何ですか」
「同じ異変があった日です。音なら一つ、匂いなら二つ、振動なら三つ」
文字が読めない蓮人にも、丸の数は読めた。
「正式な分類ではありません」
「だからいい。正式な欄に入らなかったものを、失わずに済んだ」
ミナは紙を裏返した。裏面には、勤務後に買う物や、返す本の名まで書かれているという。
「仕事の記録と一緒なんですね」
「紙を別にすると、どちらかをなくすので」
百八十七日分の運転と、一人の少女の生活が同じ束に綴じられていた。主任が余白と呼んだ場所に、記録を続けた人間の時間が残っている。七行を並べ直したあと、蓮人はミナにもう一度、元の順番で読んでもらった。
「さっきと同じ内容です」
「同じかを確かめたいんです」
セラの写しと照らすと、入口温度の時刻だけが一つずれていた。ミナが地下へ降りた時間を、セラは測定した時間として書いていた。
「私が間違えた」
セラが線を引き、訂正前の数字も読める形で残す。
「消さないんですか」
「消せば、なぜ直したかわからなくなる」
蓮人は社員証を机へ置き、文字の形を一つずつ覚えることにした。北塔、時刻、温度、音。今日必要な四語だけをミナに書いてもらう。
すべて読めるようになるのを待っていては、三日は終わる。読めないまま署名するのでもない。いま検証に使う言葉から、少しずつ自分で確かめられる範囲を増やす。
「あなたの名前も教えてください」
ミナが自分の名を書き、その下へセラの名も並べた。記録を読むのは数値だけではない。誰が見て、誰が写し、誰が直したかを読めなければ、同じ紙へ戻れない。
蓮人は形を指でなぞった。最初に覚える異世界の文字が設備名ではなく、人の名になったことに少し安心した。
ミナも社員証の日本語を写した。互いに読めない名前を一枚ずつ持つ。読めないことを隠さず、それでも同じ人物へ戻れる印にした。
「休みは」
ミナは答えなかった。
セラが険しい顔になる。
「結界庁は、補助術師を交代させていないのか」
「朝の始動確認だけは、私の担当なので」
「百八十七日間?」
「体調を崩した日は、主任が確認しました」
「何日だ」
「二日です」
前世で何度も聞いた説明だった。
自分しかできないから。
自分がやった方が早いから。
休むための引継ぎを作る時間がないから。その結果、百八十五日分の違和感が、公式記録ではなく一人の少女の腕の中にある。
三人は守備隊の小会議室へ移った。そこには机があった。蓮人は紙を読む代わりに、ミナへ内容を読んでもらう。
セラが過去の巡回記録を取りに席を外すと、部屋には二人だけになった。
「文字を読めないことは、黙っていた方がいいです」
ミナが小声で言う。
「やはり、かなり不利ですか」
「契約へ自分で署名できません。告知も道標も読めない。誰かが違う内容を読んでも、確かめられません」
「あなたが違う内容を読む可能性もありますね」
ミナは傷ついた顔をした。
「すみません。疑っているのではなく、疑う手段がないのが怖いんです」
「わかります。私の覚え書きも、主任が読まなければ存在しないのと同じでした」
蓮人は七枚の紙を見た。自分には模様にしか見えない。
「では、一行ずつ指で追ってください。読んだ場所を俺が覚えます。別の人にも同じ紙を読んでもらう」
「私を信用しない方法を、一緒に作るんですか」
「お互いに、それで困らない方法です」
ミナは少し考え、最初の行へ指を置いた。
「まず今日の七行だけ、書いた順でお願いします」
ミナは一枚目を開いた。
「一、日の出二刻後、北塔始動。水輪音、平常」
セラが別の紙へ書き写す。
「二、入口温度二十二、流路圧七十三。前日差なし」
「その二つは同じ時刻?」
「少し違います。温度を見てから、地下へ降りて圧力計を読みます」
「一行にまとめず、分けましょう。間で何か起きた可能性があります」
ミナがうなずく。
「三、鐘楼確認灯、赤。警報紋、損傷なし。四、北東流路から二度、細い振動」
「振動はいつから?」
「三日前からです。最初は一度だけでした」
「強さは」
「今日は、机の水が揺れました」
「正式記録には?」
「許容圧内だったので、記載項目がありません」
蓮人は息を吐いた。
記録に項目がないから、現象がなかったことになる。
「五、冷却輪音、短く停止。六、炉室方向から焦げた金属臭。七、北塔出力、九低下」
「そのあと結界が消えた」
セラが言う。
「はい。でも、私が外へ出たときには消えていたので、正確な間隔はわかりません」
蓮人は七行を、時間の流れに並べ直した。
振動。
音の停止。
匂い。
出力低下。
結界消失。
「昨日の匂いは?」
ミナが前日の紙を探す。
「夕鐘のあと。冷却輪の清掃が終わって、再始動した直後です」
「清掃したのは誰ですか」
「保守工房のガルドさんです」
「今日の始動前に、清掃後の確認は?」
「主任の署名があります」
「何を確認した署名ですか」
「清掃完了です」
「完了とは?」
「え?」
「輪を洗ったこと。再始動したこと。正常温度まで下がったこと。異音がないこと。その署名は、どこまでを確認したものですか」
ミナは紙を見つめた。
「わかりません」
「署名した主任に聞きましょう」
「主任は、もう帰宅しました」
まだ昼を過ぎたばかりだった。
セラが立ち上がる。
「呼び戻す」
ミナが小さく首を振った。
「たぶん、来ません。代官庁の会議のあと、北塔は安全だと結界庁名義で告知を出しました。これ以上の調査は、混乱を招くから認めないと」
「ではガルドさんは?」
「保守工房にいると思います。でも、あの人は……」
「話しにくい人?」
「結界庁の術師を嫌っています」
「理由は」
「魔力のない者に、魔導設備は理解できないと言われたからです。ガルドさん自身には、ほとんど魔力がありません」
蓮人は立ち上がった。
「会いに行きましょう」
「話してくれないと思います」
「それなら、話さなくていいと伝えます」
「どうやって調べるんですか」
「まず、仕事を見せてもらいます」
現場を知らずに、質問だけを投げても答えは出ない。ミナの七行は、原因を示してはいなかった。だが、どこへ行き、誰の仕事を見るべきかを教えてくれた。
それは立派な記録だった。




