第四話 被害軽微
ラグナの代官庁は、町でいちばん高い場所に建っていた。
白い石壁。磨かれた床。大きな窓からは、北門と麦畑を見下ろせる。
窓辺に立てば、倒れた籠も、へこんだ盾も、焦げた子どもの服も小さく見えた。
「被害軽微」
広い執務室の中央で、太った男が言った。バルガス・エンデル。ラグナ代官。
整えられた口ひげと、指を飾る三つの宝石が、蓮人の目に最初に入った。
「死者なし。重傷者二名。北門周辺の露店に一部損壊。結界はすでに復旧。以上をもって、本件は一時的な魔力変動によるものとする」
机の前には、守備隊、結界庁、商人組合の代表が並んでいた。蓮人は部屋の後ろで、二人の兵士に挟まれている。セラの左腕には、治癒術を施した白布が巻かれていた。
「原因調査は」
彼女が尋ねる。
「結界庁が通常業務として行う」
「通常ではありません。警報鐘が作動せず、城外に住民が取り残されました」
「結界は戻った」
「戻るまでの十三分間、町は無防備でした」
「十三分で死者は出なかった」
バルガスは、まるで成果を報告するように言った。
セラの顎が固くなる。
蓮人は、前世の会議室を思い出していた。
障害時間、十三分。
影響件数、軽微。
復旧済み。
数字は事実だ。
だが、数字の選び方で、事実の形は変えられる。
「市場は昼鐘から再開する」
バルガスが続けた。
「収穫祭を六日後に控え、商いを止めるわけにはいかん。王都からの客も来る。いたずらに不安を広げる発言は慎むように」
商人組合の代表が、胸元から折り畳んだ紙を出した。
「市場を閉じた朝の損失だけ、申し上げてもよろしいでしょうか」
魚屋は氷を追加で買えず、荷の三分の一を捨てた。共同かまどの日雇い八人は、働かなければ夕食の配給印を受け取れない。城外の農家は荷車を置いたまま避難し、納入が遅れれば祭り用の買い取り価格から外される。
「安全を軽く見るつもりはありません。しかし『調査が終わるまで』がいつまでか決まらなければ、今日のパンを買えない者が出ます」
市場再開は、祭りの体面だけを守る話ではなかった。止めることにも、人の暮らしを削る具体的な時間がある。バルガスは紙を受け取らず、内容だけを聞いた。
「昼鐘から再開する。ただし北門列は通路を広く取り、荷車の停車を禁ずる。失職扱いになった日雇いには、代官庁の倉庫整理を振り替えろ」
何も見ていない男の答えではなかった。だからこそ蓮人には、そのあとに続く言葉が理解できなかった。
「次に消えた場合の避難基準だけでも――」
「副隊長」
低い声が、セラの言葉を切った。
「守備隊の任務は、決定に従って住民を守ることだ。町の運営方針を決めることではない」
正面から反対すれば、命令違反になる。セラはそれ以上言わなかった。
「二年前、私は北街道の魔力低下を王都へ報告した」
バルガスは机の端に置かれた銀枠の書状へ指を置いた。
「兆候を隠さず、調査のため市場を三日閉じた。結局、結界障害は起きなかった。王都の査定官は『不必要な混乱を招いた』と記録し、翌年の冬季予算を一割削った」
室内の誰も口を挟まない。
「削られた一割で、南区の共同暖房所を二つ閉じた。凍傷者が出た。正直に報告すれば褒められると思った若い代官は、住民から、起きなかった事故のために冬を奪ったと罵られた」
バルガスは窓の外を見なかった。
「以来、報告には結果を添えることにした。壊れたなら報告する。壊れていないものを危険かもしれないというだけで止めれば、別の場所で必ず人が払う」
理屈には経験があった。
だが今回、結界はすでに一度消えている。
「今回は、起きなかった事故ではありません」
蓮人が言うと、バルガスの指が銀枠を強く押した。
「十三分で戻り、死者は出なかった」
過去の失敗を繰り返さないための基準が、別の失敗を数えない基準へ変わっていた。
「冬季予算を失ったとき、原因の報告は撤回したんですか」
「しなかった。街道の測定石を増やし、翌年には低下を早く見つけた」
「では正直な報告が無駄だったわけではない」
「凍傷になった者へ、翌年の成果を見せても指は戻らん」
バルガスは銀枠の書状を裏返した。王都の査定印が机へ伏せられる。
「私は、今日の住民と明日の危険を同じ秤へ載せねばならん。お前は明日だけを重くできる。支払う立場にないからだ」
蓮人は反論できなかった。
代わりに、条件を分けた。
「市場を開けることと、原因調査を止めることは同じですか」
「何?」
「市場は開ける。避難路は残す。北塔は調べる。全部を止めるか、全部を平常に戻すかの二択ではありません」
バルガスはすぐには答えなかった。
「調査を認めれば、危険だという噂が出る」
「隠してまた鐘が鳴らなければ、噂では済みません」
男の視線が、初めて蓮人ではなく北塔へ向いた。それでも出した命令は、市場再開と発言の抑制だった。別々にできると理解したうえで、体面を守る方へ二つを結び直した。
バルガスは主任へ、点検結果を夕鐘までに自分だけへ報告するよう命じた。調査は止めない。ただ住民と守備隊へ届く経路を、自分の執務室へ絞る。
正直な報告で罰を受けた経験から、報告しないのではなく、報告する相手を選ぶようになった。その選択が警報の沈黙と似ていることを、本人は認めなかった。
夕鐘までという期限も、安全を確かめるためではない。市場が最も賑わう時刻より前に、外へ出す言葉を自分で選ぶためだった。
代わりにミナが一歩出た。
「代官閣下。結界消失前に、北塔冷却輪の音が停止しています」
「記録は」
「私の覚え書きに」
「正式な運転簿には?」
「出力と流路圧は許容範囲でした」
「ならば異常ではない」
「ですが」
「君は結界庁の責任者か」
「……補助術師です」
「責任者の判断を聞こう」
列の先頭にいた痩せた男が頭を下げた。
「北塔、南塔とも現在は規定出力です。安全上の問題はありません」
ミナの指が木板を握り締めた。責任者は、彼女を見なかった。
「決まりだな」
バルガスが満足そうにうなずく。
会議を終える空気が流れた。
蓮人は口を開いた。
「一つ、確認してもいいですか」
全員の視線が集まる。
「身元不明者に発言を許した覚えはない」
「では、独り言として聞き流してください」
兵士の一人が、笑いをこらえるように咳をした。
バルガスの頬が引きつる。
「結界は、なぜ戻ったんでしょう」
「魔力変動が収まったからだ」
「それは確認された原因ですか。それとも推測ですか」
「何?」
「冷却輪が止まり、結界が消え、警報は鳴らず、十三分後に自然復旧した。いま確実なのはそこまでです。魔力変動が原因なら、どこで何が変動し、なぜ警報が作動せず、なぜ元へ戻ったのかを説明できるはずです」
「余所者が、魔導技術を語るつもりか」
「いいえ。俺には魔法が使えません」
室内がざわついた。
ミナまで驚いた顔をしている。
蓮人は続けた。
「だから、教えてほしいんです。次に同じことが起きないと、何を根拠に言えるんですか」
誰も答えなかった。
窓の外から、鐘の音が聞こえた。
昼を告げる、明るい音。
今度の鐘は、正しく鳴った。
市場の再開を知らせる鐘だった。異常を知らせなかった鐘が、異常は終わったと町じゅうへ告げていた。商人組合の代表が、まだ下がらなかった。
「北門の露店主マルタの荷は、避難誘導で失われました。再開しても売る物がありません」
バルガスは机の引き出しから小さな帳面を出した。
「門前整理に使った荷車と籠は守備費。散った豆は、避難協力に伴う損失として半額を補填する」
「半額では仕入れ直せません」
「全額にすれば、混乱で壊れた品がすべて避難協力だったと申告される」
「では、本人に冬まで借金を負えと?」
バルガスは指輪を机へ打ちつけた。怒りではなく、計算するときの癖らしい。
「倉庫整理を七日、日当は通常の倍。仕入れ組合には、代官庁の保証で支払期限を延ばさせる。現金を渡すだけが補償ではない」
蓮人は意外に思った。
バルガスは住民の暮らしを知らないのではない。市場を止めた損失も、補償を広げたときの不正も知っている。その知識を、原因調査ではなく、早く平常へ戻すためだけに使っていた。
「そこまで具体的に損失を考えるのに、次の十三分は考えないんですか」
蓮人の問いに、バルガスは帳面を閉じた。
「次があると公に認めた時点で、王都は祭りの使節を止める。商人の冬支度も、日雇いの仕事も消える。お前は、その損失を払えるのか」
「払えません」
「ならば、払えぬ正しさで町を止めるな」
正しい報告で冬予算を失った男は、危険を小さく呼ぶことで今冬を守ろうとしていた。その選択が次の障害を大きくする可能性を、見ないことにして。
バルガスは机へ手をついた。
「この者を連れていけ」
兵士が蓮人の腕を取る。
「町から出すのですか」
「拘置室へ入れておけ。収穫祭が終わるまでだ」
セラが動こうとした。
蓮人は小さく首を振った。
ここで彼女が命令に逆らっても、状況はよくならない。部屋を出る直前、焦げた匂いがした。
微かだった。
蓮人は足を止め、振り返る。
「何だ」
バルガスが苛立って言う。
「この部屋ではありません」
窓は開いている。
風は北から吹いていた。
北塔の方角から、焦げた金属と湿った石の匂いが運ばれてくる。
正常稼働中のはずの塔から。
「ミナさん」
蓮人は尋ねた。
「冷却輪が止まる前にも、この匂いはしましたか」
ミナの顔から血の気が引いた。
「……昨日の夜に」
執務室が静まり返る。
「覚え書きを確認してください。匂いがした時刻と、冷却音が止まった時刻。それから、出力が下がった時刻を分けて」
兵士に押され、蓮人は廊下へ出た。背後で、バルガスが何かを命じていた。
市場は再開される。
住民は、もう安全だと知らされる。その間にも北塔では、見えない何かが焼け続けていた。




