第三話 一列では逃げられない
結界が戻って最初に始まったのは、原因調査ではなかった。
後片づけだった。
倒れた籠から果物を拾う者。泣いている子どもの名を聞く者。門前に置いた荷車を動かす者。負傷者の腕へ白い布を巻く者。
危機が去った瞬間、町には無数の仕事が生まれた。そのほとんどは、剣も魔法も使わない仕事だった。
「座れ」
女兵士が蓮人へ言った。
城門の詰め所前に、長い木のベンチがある。蓮人が従うと、彼女は向かいに立ったまま質問した。
「名は」
「久瀬蓮人です。久瀬が家名で、蓮人が名」
「クゼ・レント。出身は」
「説明が難しいです」
「簡単にしろ」
「たぶん、とても遠いところです」
女兵士の眉間にしわが寄った。
「所属は」
「いまはありません」
「街道で倒れていた理由は」
「わかりません」
「所持金は」
蓮人はポケットを探った。財布はあった。中には紙幣と硬貨、社員証、何枚かのカード。ここで使えるものには見えない。
「この国で使えるものは、ないと思います」
「武器は」
「ありません」
「魔力は」
「それも、わかりません」
自分でも怪しすぎると思う。
女兵士は腰へ手を当て、長く息を吐いた。
「私はセラ・ヴィンゼル。ラグナ辺境守備隊の副隊長だ。お前を拘束する理由は三つある。身元不明。結界消失と同時に出現。そして、守備隊の指揮へ口を出した」
「最後のものについては、謝ります」
「悪かったと思っているのか」
「権限がないのに指示しました。ただ、同じ状況なら、たぶんまた言います」
セラは一瞬、きょとんとした。それから、声を上げて笑った。
「正直なのか、馬鹿なのか判断に困るな」
「よく言われました」
「誰に」
「前の職場で」
笑いが止まった。
セラはへこんだ盾を壁へ立てかけると、ようやく蓮人の隣へ座った。負傷した左腕を膝に置く。
白布の下で、腕が細かく震えている。獣を受け止めた瞬間の音を思い出したのか、門前で馬がいななくたびに肩が強張った。
「怖くなかったんですか」
「質問するな」
「では、独り言です」
セラは右手で左手首を押さえた。
「盾が割れると思った。次に立てなければ、畑の親子より先に自分が食われるともな。それでも、部下の前では命令を止められん」
助かった母親は、焦げた薬草を布へ包み直していた。城外に置いてきた籠には冬まで使う乾燥薬と粉袋が入っていたという。子どもたちは戻ったが、今日の暮らしまで元どおりになったわけではない。
セラは母親から籠の置き場所を聞き、巡回隊が安全を確かめたあとで回収すると約束した。負傷した腕で自分が行くとは言わなかった。
「お前の言った通り、流れを分けてから圧迫は起きていない。門前の負傷者は十七人。重傷は私を含めて二人。死者はいない」
「あなたは重傷なんですか」
「治癒術師が来たら決める」
「先に診てもらってください」
「質問しているのは私だ」
「負傷した状態で尋問を続ける規則なんですか」
「規則に詳しいふりをするな」
「詳しくないから聞きました」
セラが横目でにらむ。
そこへ、灰色の外套を着た少女が駆けてきた。蓮人より少し低い背丈。蜂蜜色の髪を短く切り、胸元に青い石の徽章を下げている。
「副隊長!」
「ミナ。塔はどうした」
「復帰しました。北塔、南塔とも出力は規定値です。流路圧も安定しています」
少女――ミナは、抱えていた木板へ視線を落とした。
「記録上は」
最後の一言だけが小さかった。
蓮人は聞き逃さなかった。
「記録と、実際が違うんですか」
「あなたは?」
「街道にいた身元不明者だ」
セラが答えた。
「門前整理の案を出した。いま拘束するか迷っている」
「迷っているなら、先に副隊長の腕を診てもらってください」
ミナは即座に言った。
「ほら」
蓮人が言うと、セラは露骨に嫌な顔をした。治癒術師が来るまでの間、ミナは木板を胸へ抱えたまま立っていた。何かを言いたそうにしている。
「結界が消える前、何が起きましたか」
蓮人は尋ねた。
「尋問されているのはお前だぞ」
「わかっています。でも、次も自然に戻る保証はありません」
ミナの指が木板の端を強く握った。
「北塔の出力が、一瞬だけ下がりました」
「どのくらい」
「一割未満です。許容範囲でした」
「その前後で、ほかに変化は」
「ありません」
答えが速すぎた。
蓮人は問いを変えた。
「数値ではなくて、見たことや聞いたことは?」
ミナの目が上がった。
「聞いたこと?」
「音、匂い、振動。普段あるのに、なかったものでも」
「そんなものは正式な記録になりません」
「正式でなくていい。いまは、あなたが気づいたことを知りたい」
ミナはセラを見た。
許可を求める視線だった。
セラがうなずく。
「言え」
「……冷却輪の音が、止まりました」
ミナは答えた。
「北塔の地下には、魔力炉を冷やす水輪があります。いつもなら、詰め所まで低い唸りが聞こえるんです。出力が下がる少し前に、その音が消えました」
「どれくらい前ですか」
「わかりません。一分より短かったと思います」
「記録には?」
「音は数値ではありません」
「だから、書かなかった?」
「書きました」
ミナは胸に抱えていた木板を差し出した。
薄い紙が何枚も留められている。蓮人には文字が読めなかった。話し言葉は理解できるのに、書かれた記号は見たことのない形をしている。
「日々の覚え書きです。正式な運転簿とは別に、気づいたことを残しています」
セラが紙をのぞき込む。
「今日だけか」
「毎日です」
「なぜ提出しなかった」
「以前、音や匂いを書いたら、感想文ではないと主任に消されました」
ミナは恥じるように目を伏せた。
蓮人は違うと思った。
恥じるべきなのは、彼女ではない。
「読んでもらえますか。今日の分を、書いた順に」
「でも、結界はもう戻っています」
「戻ったことと、安全なことは別です」
その言葉に、セラが反応した。
「どう違う」
「原因がわからなければ、同じ条件でまた消えます。次は門前に守備隊がいるとは限らない。畑の親子に気づけるとも限らない」
セラは北畑を見た。
助けられた母親が、三人の子どもを抱いている。
「ミナ。読め」
「はい」
ミナは紙をめくった。
「日の出二刻後、北塔始動。水輪音、平常。入口温度、二十二。流路圧、七十三。鐘楼の確認灯、赤――」
「待ってください」
蓮人は止めた。
「炉心の正常色は、青なんですよね」
「はい」
「では、鐘楼の赤い確認灯は、何を受け取って光るんですか」
ミナは口を開き、閉じた。
「結界が、正常だという運転信号を」
「その信号は、結界の何を測って作られるんですか」
答えは返ってこなかった。
誰も知らない。
運転信号の受理を示す灯はある。
だが、その信号が何を確かめて作られるのかを、使う側が知らない。
北の鐘楼では、兵士が鳴らなかった大鐘を調べ始めていた。槌で金具をたたき、縄を引く。鐘そのものは低い音を返した。
壊れてはいない。
鳴らす命令だけが、届かなかった。そのとき、城壁の上から声が上がった。
「北の街道に人影!」
セラが立ち上がる。痛みに顔をしかめたが、止まらない。
「何人だ」
「二人! 子どもです!」
門前の少女が、母親の腕の中で叫んだ。
「まだいる! 牧草地に、友達が二人いるの!」
結界は戻っている。
町は守られている。
その代わり、戻った青い壁の外側に、二人の子どもが取り残されていた。
「門を開けます」
ミナが言った。
「待て」
セラが止める。
「北門を開けば、さっきの魔獣も入る。小門は使えるか」
「結界復帰直後です。認証が安定するまで、小門の開閉は禁止されています」
「何分だ」
「規定では半刻です」
この世界の一刻がどれほどか、蓮人にはわからない。だが、城壁の上で兵士が叫んだ。
「魔獣二頭、子どもたちへ向きを変えました!」
半刻を待てないことだけは明らかだった。セラはへこんだ盾を取ろうとした。左腕が上がらず、盾の縁が石畳をこする。
「あなたは行けません」
「では見ていろと言うのか」
「違います。ほかの手段を探します」
蓮人は城壁と青い膜を見た。
子どもたちは、城壁沿いの浅い溝へ身を伏せている。魔獣は畑側から近づく。門を全開にすれば危険だ。小門は規則上使えない。
規則上。
「禁止されている理由は何ですか」
「え?」
「結界復帰直後に、小門を開けてはいけない理由です」
ミナは戸惑いながら答えた。
「認証紋が不安定だと、通過する人を敵と誤認することがあります」
「具体的には?」
「弾かれます。ひどければ火傷を」
「全員が?」
「わかりません。だから禁止なんです」
わからないから、安全側へ倒す。その規則自体は正しい。だが、規則が想定した危険と、目の前の危険を比べなければならない。
「小門を、外から中へ入れない状態で開けることはできますか」
「開けるのに入れない?」
「人を通すためではありません。そこから兵士が魔法を撃つ。子どもたちは溝に伏せたまま、魔獣だけを遠ざける」
セラが城壁を見上げた。
「弓より射角が取れるか」
「取れます」
ミナの返事に迷いが消えた。
「小門の内側からなら、結界の外へ術式を通せます。ただし認証が乱れれば、術者へ反流するかもしれません」
「確実ではないんだな」
「はい」
セラは一度だけ目を閉じた。
答えのない状況で、誰かが決めなければならない。
「小門を開ける。通過は禁止。術者は一人ずつ撃て。異常があれば即時中止」
彼女は立ち上がり、守備隊へ命令を飛ばした。北門の脇にある、人一人が通れるほどの扉が開く。青い光が扉の形に歪み、細かな火花を散らした。
兵士が杖を構える。
一射目の氷槍は、魔獣の手前へ刺さった。驚いた一頭が足を止める。
二射目。風の塊が土を巻き上げ、もう一頭の顔を打った。
「いまです!」
城壁の上から、兵士が子どもたちへ叫ぶ。
二人は溝から飛び出した。
小門へ走る。
「通すな! 扉の脇へ寄せろ!」
セラの命令が飛ぶ。
子どもたちは青い膜の直前で立ち止まり、石壁へ背をつけた。
魔獣が追ってくる。
三射目の炎が、その足元を焼いた。
魔獣たちが畑側へ退く。
認証灯が赤から黄色へ変わった。
「安定しました!」
ミナが叫ぶ。
「二人を通せ!」
兵士が扉から腕を伸ばし、子どもを一人ずつ引き入れた。青い火花が服の端を焦がしたが、二人とも自分の足で立っている。
門前から歓声が上がった。
セラはそれを制した。
「小門閉鎖! 使用者と術者の状態確認! 成功したからといって手順を飛ばすな!」
兵士たちが動く。
ミナは、その命令を木板の紙へ書き留めていた。
蓮人はようやく息を吐いた。
自分は一つの案を出しただけだ。
小門の仕組みを説明したのはミナ。危険を引き受けて決めたのはセラ。術を撃ったのは兵士。子どもの位置を伝え続けたのは城壁の見張りだった。
誰か一人が救ったのではない。それが、蓮人にはひどくまぶしく見えた。
セラが彼の横へ戻ってきた。
「お前の処遇を決めた」
「拘束ですか」
「監視付きの保護だ。少なくとも、事情を聞き終えるまではな」
「呼び方以外に違いは?」
「食事が出る」
「それは助かります」
腹が減っていることに、そのとき初めて気づいた。
セラは口元だけで笑った。
「それと、ミナ」
「はい」
「その覚え書きを持ってこい。正式でない方も全部だ」
ミナは目を見開いた。
「全部、ですか」
「今日の異常が初めてだったか、確かめる」
蓮人は北塔を見た。
結界は青空の下で静かに輝いている。その正常さが、今はかえって不気味だった。




