第二話 鳴らない鐘
町へ向かって走ったのは、蓮人だけではなかった。街道の両側にいた農夫たちが荷車を捨て、開いた城門へ殺到する。門の内側からは、反対に逃げ出そうとする人々が押し寄せていた。
入る者と出る者が、狭い門でぶつかる。
「止まれ! 押すな!」
女の声が響いた。
銀色の胸当てを着けた兵士が、門の中央へ飛び出した。赤褐色の髪を後ろで束ねた若い女だ。片手の盾で荷車を止め、もう片方の手で人の流れを左右へ分けようとしている。
だが、誰も彼女を見ていなかった。
「魔獣だ!」
「外壁の北にいる!」
「子どもが畑に残ってるの!」
それぞれが別の危険を叫ぶ。情報が多いのではない。全員が自分の知っている一片だけを、いちばん大きな声で投げていた。
「北の排水溝からも一頭来る!」
土まみれの農夫が叫んだ。女兵士は北を見たが、麦の穂と逃げる人影しか見えない。
「見張りから報告はない。確認できない情報で流れを変えるな!」
「俺は見た!」
「数と距離は」
「そんなもの、走りながら数えられるか!」
女兵士は門を開けたまま、見張りの返答を待った。確証のない噂で門を閉じれば、外から戻る住民を締め出す。筋の通った判断だった。
その間に排水溝から黒い背が現れた。獣は城門へは来ず、捨てられた荷車の馬へ飛びついた。馬が暴れ、横倒しになった荷台が露店へ突っ込む。乾燥豆の袋が裂け、石畳へ散った。
店主が拾おうとして群衆に押し倒される。女兵士は二人の兵を救助へ回した。そのぶん、門前を整理する人数が減った。
「報告を待ちすぎた」
彼女は自分へ言うように吐き捨てた。蓮人は門の手前で立ち止まった。
まず状況を見ろ。
体に染みついた習慣だった。
町の外へ出ようとする人は、手ぶらの者が多い。逆に町へ戻ろうとする者は、農具や籠を持っている。避難先が同じなのではない。外にいた人々は家族を迎えに戻り、中にいた人々は城壁から離れようとしている。
二つの流れを一つの門へ押し込めている。石壁の北側で、黒い影が跳ねた。
犬ほどの大きさに見えたが、距離がある。実際はもっと大きい。四本脚の獣が三頭、街道脇の麦畑を裂くように走ってくる。
「北から来るぞ!」
誰かが叫んだ。
群衆が一斉に南へ寄った。
門柱のそばで、小さな女の子が転んだ。後ろの男は気づいていない。そのまま足を出せば、少女の腕を踏む。
蓮人は人の間へ体をねじ込んだ。少女の服をつかみ、石畳の端へ引く。男の靴が、蓮人の手の甲をかすめた。
「痛っ……」
「お兄ちゃん、誰?」
「それはあとで」
少女を立たせたが、泣き出さなかった。泣くより先に、周囲を探している。
「お母さんは?」
「畑。弟も」
蓮人は北を見た。
麦畑の中に、人影が二つあった。大人が幼い子どもの手を引いて走っている。だが城門までの直線上に、黒い獣が一頭回り込んでいた。
女兵士も気づいた。
「第三班、北畑へ!」
返事をした兵士は二人だけだった。他は門の群衆を押し返すので手いっぱいだ。女兵士は舌打ちし、自分が走ろうとした。
「あなたが抜けたら、ここが潰れます!」
蓮人は叫んだ。
女兵士が振り返る。
「誰だ、お前は!」
「いまは説明できません。門を入る人と出る人で分けてください。右を町へ戻る人、左を外へ逃げる人に!」
「外へ出せば魔獣に近づく!」
「南へ逃がすんです。北へ戻る人と交差させないで」
女兵士の目が細くなった。
信用されていない。それでいい。信用ではなく、確認できる材料を渡す。
「荷車を横に置けば流れを分けられます。御者に借りてください」
後ろから来た荷馬車を指さした。先ほど蓮人に声をかけた御者が、門前で立ち往生している。女兵士は一瞬だけ門と畑を見比べた。
決断は早かった。
「バルド! 荷車を借りろ! 右は帰還者、左は南門へ抜ける避難者! 槍を振るな、声と盾で分けろ!」
命令を受けた兵士が走る。
女兵士は蓮人を指さした。
「お前はその子を連れて壁際へ! 勝手に動くな!」
「北畑の親子は」
「私が行く」
今度は止めなかった。
門の流れは、動き始めていた。
御者と兵士たちが荷車を斜めに置く。完璧な仕切りではない。それでも、入る人と出る人の肩がぶつからなくなった。
最初の数人は、荷車の左右に書かれた札を読まず、近い方へ入ろうとした。兵士が押し戻すと、後ろの人間が詰まる。
「言葉だけでは届きません!」
蓮人は御者の荷台から、白い穀物袋と茶色い麻袋を一枚ずつ借りた。町へ戻る側には白。城壁沿いに南へ抜ける側には茶。兵士が同じ色の布を頭上へ掲げる。
「家へ戻る者は白! 避難する者は茶!」
声と色がそろうと、人の流れが目に見えて速くなった。だが、横倒しになった露店の店主が、散った豆を拾うため白の流れへ逆らった。
「今日売れなきゃ、仕入れ代を返せないんだ!」
兵士が腕を取っても、店主は石畳へ手を伸ばす。
「籠ごと壁際へ運びます。いまは人を先に」
蓮人が言うと、御者が空の籠を二つ出した。近くの農夫も豆を掃き集める。売り物へ戻せるかはわからない。それでも、店主がその場を離れる条件にはなった。
避難の指示は、危険を叫ぶだけでは動かない。離れられない理由を一つずつ減らす必要があった。女兵士は盾を背へ回し、北畑へ駆けた。
黒い獣が跳ぶ。
彼女は走りながら腰の剣を抜いた。刀身へ赤い光がまとわりつく。
魔法。
その言葉が、蓮人の頭へ遅れて浮かんだ。女兵士が剣を横へ振る。炎の筋が麦の穂すれすれを走り、獣の前脚を払った。
倒しきれない。
獣は土を削って向きを変え、親子ではなく女兵士へ牙をむく。
「お姉ちゃん!」
蓮人のそばにいる少女が叫んだ。
女兵士ではない。
畑を走る母親へ向けた声だった。母親がこちらを見る。その足が止まりかけた。
「走って!」
蓮人も叫んだ。
言葉が届いたかはわからない。
女兵士が獣の突進を盾で受けた。金属がひしゃげる音がする。彼女の体が土の上を滑った。
残り二頭も近づいていた。
城壁の上から矢が飛ぶ。一頭の背に刺さったが、勢いは止まらない。
青い光が視界を横切った。
空ではない。
門の脇に立つ石柱から、細い光の帯が伸びている。光は黒い獣の胴へ巻きつき、その動きを空中で止めた。二頭目、三頭目にも同じ帯が絡む。
「結界が戻ったぞ!」
歓声が上がった。
半球状の青い膜が、再び町を覆っていた。外側に取り残された獣は、見えない壁へ爪を立てる。女兵士は立ち上がり、親子を門へ走らせた。
少女が母親へ飛びついた。
周囲の人々は笑い、泣き、互いの無事を確かめている。
笑っていない者もいた。
裂けた豆袋の前で、露店主が膝をついている。石と泥の間から拾った豆を、売り物と捨てる物へ分ける余裕もなく籠へ戻していた。
畑から逃げた農夫は、踏み荒らされた麦を見て立ち尽くす。助かった母親の手には子どもが二人いたが、背負っていた薬草の束は途中で落としていた。末の子の熱を下げるため、朝から摘んだものだという。
死者がいないことと、何も失わなかったことは違った。
女兵士は負傷者を数えながら、損失を口頭で部下へ渡した。荷馬車一台、豆袋四つ、薬草籠一つ、北畑の麦およそ二畝。正確な額はあとで調べるとしても、何が失われたかだけはその場で残す。
「魔獣の数は三。排水溝から来た一頭を含む」
見張りの報告だけなら二頭だった。農夫の未確認情報を足した数が、事後には正しかった。
「次から、未確認は捨てずに未確認と呼べ」
女兵士は部下へ命じた。
確定した事実と同じには扱わない。だからといって、確定していないという理由で消さない。蓮人には、それが鳴らなかった鐘を調べる最初の手順に思えた。
女兵士は農夫にも謝った。
「報告を退けた。次は場所だけでも先に見張りへ回す」
農夫は納得した顔をしなかった。それでも、自分の言葉が記録板へ残るのを見届けてから、踏み荒らされた畑へ戻った。
謝罪で麦は起き上がらない。だが次の報告者が、どうせ信じられないと黙ることは防げるかもしれない。セラは未確認情報の欄を新しく作らせた。
欄の最初には、排水溝、黒い獣一頭、農夫の目撃と書かれた。確定後も、最初に誰が知らせたかを消さなかった。
終わった。
誰もが、そう思っていた。
蓮人は北の鐘楼を見上げた。
大鐘は、まだ一度も鳴っていない。その下の赤い灯だけが、変わらず静かに点いていた。
「どういう意味ですか、あの赤は」
戻ってきた女兵士に尋ねた。
彼女の盾は中央から大きくへこんでいた。左腕も震えている。それでも声は乱れていなかった。
「正常稼働。結界に異常なしだ」
「消えている間も?」
女兵士は答えなかった。
二人で赤い灯を見上げた。
「排水溝の報告を退けましたね」
蓮人が言うと、女兵士はへこんだ盾を見た。
「見張りの確証を待った。噂で門を閉じれば、畑の者を外へ残す」
「間違った判断ではなかったと思います」
「結果として、店を一つ潰した」
「次は?」
「見張りの確認を待つ間、流れだけ先に分ける。確定と準備を同じ時刻に始める必要はない」
女兵士は、救助された店主の名と被害を書き取るよう部下へ命じた。失敗を認めるだけで豆は戻らない。少なくとも、誰の損失だったかを消さないためだった。
町を守る壁は戻った。
異常なしという表示も戻る必要がない。最初から、そこにあったのだから。




