第一話 納期は命より重いのか
午前二時十三分。
久瀬蓮人は、会議室の壁に映された赤い数字を見ていた。重大障害発生から、二時間四十七分。影響を受けている利用者、推定十二万人。
原因、不明。
復旧見込み、未定。
そこまでが、わかっていることだった。わかっていないことは、もっと多い。
障害が始まる直前に実施された作業は三件。アプリケーションの更新、通信機器の設定変更、データベースの定期保守。三つの担当部署は、それぞれ自分たちの作業に問題はなかったと報告している。
問題がないものを三つ組み合わせた結果、十二万人がサービスを使えなくなっていた。
「久瀬さん。顧客へは三時復旧予定で伝えます」
営業部長が言った。
蓮人は、ノートパソコンから顔を上げた。
「根拠は何ですか」
「いつまでも未定では先方が納得しない」
「納得する時刻ではなく、復旧できる時刻を聞いています」
会議室の空調は止められていた。経費削減のため、午後十時を過ぎると自動で切れる。
窓は開かない。
十二人分の体温と、使い捨て容器に残ったコーヒーの匂いが、狭い部屋の中にこもっていた。
「だから、それを出すのが君の仕事だろう」
営業部長は苛立った声を出した。
「プロジェクトマネージャーなんだから」
そうですね、と蓮人は言いかけた。
口にしなかった。
代わりに、画面へ目を戻す。
チャットには、いくつもの報告が流れ続けていた。
『アプリ側、ログ上の異常なし』
『ネットワーク疎通、問題ありません』
『DB負荷、許容範囲です』
どれも嘘ではないのだろう。
そして、どれも役に立たなかった。
「今から三十分、変更を加えないでください」
蓮人は言った。
「何もしないのか?」
「観測条件をそろえます。いまは各チームが別々に再起動と設定変更をしている。症状が変わり続けていて、比較ができません」
「そんな悠長なことをしている場合か」
「このまま全員が触り続ける方が、復旧は遅れます」
営業部長が机を指でたたいた。蓮人は三つの担当部署へ、変更停止を依頼した。一分もたたずに、アプリ担当から返事が来た。
『了解です。ただ、さっき営業から再起動を急げと言われました。どちらを優先しますか』
蓮人は目を閉じた。
深く息を吸おうとして、胸の奥がつかえた。
「営業からの作業指示は、すべて私へ集めてください」
「君に?」
「現場へ直接、別々の命令を出さないでください」
「だが、急がせないと――」
「急ぐことと、急がせることは違います」
少し強い声になった。
会議室が静かになる。
蓮人は謝らなかった。
謝れば、その分だけ話が長くなる。彼は三つの作業時刻を一枚の表に並べた。次に、最初の異常が記録された時刻を重ねる。
時刻が合わない。
障害の検知は午後十一時二十六分。三件の作業は、どれも午後十一時三十分以降に始まっている。
「最初の通報は」
蓮人は誰にともなく尋ねた。
「監視ではなく、利用者からだったはずです」
若い運用担当者が、会議室の隅から答えた。入社二年目の社員だった。名前は――疲労で、すぐに出てこなかった。
午後九時、蓮人はその若手へ「今日は帰っていい」と言いかけていた。彼の机には、明日が誕生日だという娘からの絵が立ててあった。だが、引継ぎ相手がいないことを思い出し、代わりに「あと一時間だけ頼む」と言った。
一時間は五時間になった。
障害が始まってから、若手は休憩へ立っていない。蓮人は気づいていた。それでも、問い合わせ記録を知っているのが彼だけだったから、帰れとは言えなかった。
自分が残るのと、部下を残すのは違う。わかっていたのに、必要という言葉で同じにした。
森川の端末には、妻からの着信が三件残っていた。蓮人は代わりに出ることも、帰してやることもせず、調査に必要な問い合わせ番号だけを聞いた。
「娘さんへ、連絡してください」
いまさら言うと、森川は「復旧したらで大丈夫です」と答えた。部下が遠慮して差し出した時間を、同意だと思って受け取った。障害が終われば埋め合わせられると考えたが、終わったあとに自分がいる保証まで疑ったことはなかった。
「時刻は?」
「十一時十分です。でも、監視上は正常だったので、問い合わせ担当が様子見にしています」
「その記録を見せてください」
営業部長が割り込んだ。
「待て。障害の開始は十一時二十六分と報告済みだぞ」
「それは、監視が異常を検知した時刻です」
「同じだろう」
「同じではありません」
蓮人は答えた。
「壊れた時刻と、壊れたことに私たちが気づいた時刻は、別です」
問い合わせ記録が転送されてきた。
最初の利用者は十一時十分に、画面表示が遅いと報告している。十一時十四分、別の利用者が接続切れを報告。十一時十九分には、複数地域から同じ問い合わせが入っていた。
それでも監視画面は、十一時二十六分まで正常を示していた。蓮人は監視設定の変更履歴を求めた。
返事が来ない。
「監視担当は?」
「先月から外部委託です」
「連絡先は」
「契約管理部が持っています」
「契約管理部の夜間連絡先」
「ありません」
「設定変更の承認者は?」
「前任の運用課長です」
「その人は」
「先月、退職しました」
一つ質問するたびに、次の不在が見つかった。
担当がいない。
連絡先がない。
記録がない。
決めた人がいない。
それなのに、サービスだけは二十四時間動き続けることになっていた。蓮人は、ひどく冷静になっていく自分を感じていた。絶望する段階を越えると、人は静かになる。
監視画面が正常だったのではない。異常を拾わないよう、どこかで基準が変えられている。そして十一時二十六分、基準を変えても隠しきれないところまで悪化した。
「アプリとネットワークとデータベースの変更を、全部戻そう」
営業部長が言った。
「三時に間に合わせるには、それしかない」
「戻しません」
蓮人は即答した。
「なぜだ」
「三件とも、障害発生後の作業です。戻しても最初の原因は消えない。変更を増やせば、切り分けが難しくなります」
「では、何をする」
「監視が見落とした十五分間を調べます」
「利用者は待っているんだぞ」
「だからです」
蓮人は、問い合わせ担当者の記録を開いた。
十一時十分。最初の一行。
その短い文章だけが、誰より早く異常を捉えていた。
「現場で最初に起きたことを、なかったことにしないでください」
そのとき、胸の奥に鋭い痛みが走った。
息が止まった。
視界の端が暗くなる。
まずい、と蓮人は思った。
けれど口から出たのは、別の言葉だった。
「監視設定の、変更履歴を――」
「久瀬さん?」
誰かが椅子を引いた。
蓮人は机へ手をつこうとした。指先が天板に届かない。
床が近づいてくる。
倒れながら、彼は壁の赤い数字を見ていた。
午前二時二十九分。
重大障害発生から、三時間三分。
復旧見込み、未定。
担当者、久瀬蓮人。
最後まで自分の名前だけが残った。
◇
風の匂いがした。
土と、草と、どこか遠くで燃える薪の匂い。
蓮人は目を開けた。
青空があった。
会議室の白い天井ではない。雲が流れる、本物の空だった。
背中には硬い土の感触がある。頬の横で、名も知らない草が揺れていた。
「……救急車」
声がかすれた。
返事はない。
代わりに、遠くから車輪の音が聞こえた。蓮人はゆっくりと上体を起こした。
服装は変わっていない。白いシャツ。黒いスラックス。首から下げた社員証。ポケットにはスマートフォンがあったが、画面は真っ暗で、電源ボタンを押しても反応しなかった。
電源を長押しする。三度。充電切れなら、会社へ戻ればケーブルがある。壊れたのなら、店へ持ち込めばいい。
どちらも、ここにはなかった。
最後に見た通知は、母からの短い連絡だった。週末に帰れるのか。既読をつけると返事を求められる気がして、画面を閉じた。弟から届いていた写真も開いていない。障害が終わったら返すつもりだった。
蓮人は通話履歴から母の名を押した。呼び出し音は鳴らない。圏外の表示さえ出なかった。
「帰れないのか」
口にした途端、意味が現実になった。
財布の紙幣も、定期券も、社員証も、この道では何の約束にもならない。社員証の写真の下には会社名と自分の名だけが残っていた。午前二時二十九分まで所属していた場所を証明しても、そこへ戻る道は示さない。
若手を帰さなかったことも、母へ返事をしなかったことも、謝る相手ごと遠くなった。
蓮人は社員証をシャツの内側へしまった。捨てられなかった。役に立たないからこそ、それしか残っていなかった。
街道らしい。
踏み固められた土の道が、丘の向こうへ延びている。道の先には、高い石壁に囲まれた町が見えた。壁の上で、青白い光が揺らいでいる。
巨大な半球状の膜が町を覆っていた。常識では説明できない光景だった。夢だと決めつけるには、風が冷たすぎた。
蓮人は立ち上がろうとして、膝をついた。胸の痛みは消えているが、体に力が入らない。街道を走ってきた荷馬車が速度を落とした。
御者台の男が、奇妙な服装の蓮人を見て目を見開く。
「おい、あんた! そこで何をしてる!」
言葉がわかった。
なぜわかるのかを考える前に、地面が低く震えた。町を覆っていた青い膜が、一度だけ強く輝く。
次の瞬間。
空から、壁が消えた。
御者の男が息をのんだ。
町の方角から、何かが割れる音が遅れて届いた。蓮人は青空を見上げたまま、耳を澄ませた。
光の壁が消えた。
町では人が走り始めている。
石壁の上の兵士が叫んでいる。
けれど。
警報の音だけが、どこからも聞こえなかった。
蓮人は立ち上がった。
「鐘は」
「何だって?」
「異常を知らせる鐘は、どこですか」
御者の男が、町の北側に立つ細い塔を指さした。塔の頂上には、大きな青銅の鐘が下がっていた。
揺れていない。
鐘の下で、小さな赤い確認灯だけが、何事もなかったように灯っている。それが運転信号を受けた印であって、炉心の正常を示す青とは別だということを、蓮人はまだ知らなかった。
蓮人は走り出した。
知らない世界だった。
何が町を覆っていたのかも、なぜ消えたのかも知らない。それでも、一つだけ知っている。壊れたことより、壊れたことに気づけない方が危険だ。
石壁の向こうから、獣の咆哮が響いた。今度こそ、町じゅうの人々が悲鳴を上げた。
【投稿主より】
本作は全10巻で完結する構成で執筆を進めており、1時間ごとに投稿予約をしています。07/20 22:00時点で、第5巻分まで予約済みです。




