第2巻 第十六話 商人組合長の帳簿
ディーンの帳簿は、組合会館ではなく、炊き出しの釜の横にあった。
レントが見つけたとき、組合長は袖をまくり、豆の煮え具合を木杓子で確かめていた。会館の机へ座っているときより、ずっと疲れて見える。釜の周りには、門が止まって日当を失った荷役、宿屋からあふれた旅客、南街道へ薬を運ぶ御者の家族が列を作っていた。
「帳簿を見せてほしい」
レントが言うと、ディーンは杓子を置いた。
「損失額なら、昨日出した」
「額ではなく、誰へ払う予定の金かを」
ディーンはすぐに渡さなかった。帳簿を閉じ、釜の火を見る。
「見れば、門を開けろと言った理由が分かると思うか」
「分かるとは言いません。分からないまま、再開の条件を決めたくない」
しばらくして、彼は革紐をほどいた。
頁には荷の名でなく、人の名が多かった。荷車持ちの前金。荷役の一日賃。宿屋へ渡す米。治癒院の薬を受けるまでの氷代。冬種を待つ農家の馬車代。門が動けば一括で入るはずだった金が止まり、その端に、誰へ何日まで渡すかが細かく記されている。
「組合が抱えている」
ディーンが言った。
「払わなければ、次に門が開いても、車も人もいない」
レントは頁を繰った。一番上に、薬荷。次に冬種。三番目に、赤い封蝋のある荷札が挟まれていた。
王都使節私物。到着指定、明朝。
「これは」
「使節の私物だ」
ディーンは先に言った。
「薬の次に優先させろと、王都から伝文が来た」
「組合長として、受けましたか」
「受けた。断れば、次の冬に入れる荷枠を減らすと言われた」
言い訳ではない声だった。断れなかったことを、断れなかったまま抱えてきた声だ。
「私物を先に通したら、宿の米や御者の日当は」
「また後ろへずれる」
「薬は」
「薬だけは先に出す」
ディーンは帳簿の薬荷の行を押さえた。指の節が白い。
「だが門が人を消すかもしれない状態で、薬箱を流せと言われたら、私は返事ができない」
初めて、彼は「開けろ」と言わなかった。
釜の前で、荷役の男が椀を受け取る。隣の女は、子へ半分を渡した。ディーンは帳簿から顔を上げ、その列を見た。
「止める損失を、守備隊が知る必要はある。だが俺たちも、止めない損失を知る必要がある」
レントは頷いた。
「その二つを、同じ紙へ書けますか」
「紙は書ける。次に、誰が順番を決める」
その問いは残った。
ディーンは椀を一つ取って、列の最後にいた荷役の少女へ渡した。少女は受け取らず、後ろの母親を見る。母親が頷いてから、ようやく両手で持った。
「この列の名も、帳簿にあるのか」
レントは尋ねた。
「ある者と、ない者がいる」
ディーンは答えた。
「日雇いは、荷が来てから名を取る。来なければ、働いていないことになる」
その言葉で、リオが第八話に見た名簿外の顔が、また浮かんだ。金の計算から外れた人ほど、門が止まった日の夕食を先に失う。
レントは帳簿の余白へ、新しい欄を作る許可を求めた。名ではなく、今夜までに食事が必要な人数。ディーンは一度だけ顔をしかめ、それから帳簿を寄せた。
「数字だけでは、また人を消す」
「名を聞ける者だけ、名も書きます」
釜の湯気が、赤い封蝋を曇らせた。
夕食が終わると、ディーンは釜を洗う者を二人雇った。帳簿に名のない日雇いへ、今夜だけの銅貨を渡す。明日の荷が来なければ続けられない額だったが、列の片付けを無償の手伝いにしなかった。
「組合長が払うのか」
男の一人が問う。
「組合の金だ。だから次に何を通すかへ、お前たちも口を出せ」
ディーンはぶっきらぼうに言った。レントはその言葉を、責任を分けるための約束にはまだしなかった。明日の箱試験が失敗すれば、払える金も減る。けれど、損失を知っている者だけが再開を迫る形からは、一歩離れた。
使節私物の封蝋は、帳簿の頁を閉じても消えない。ディーンは伝文へ返事を書かず、薬荷、冬種、宿の米を別の紙に写す。王都へ急ぐ物と、今日の町で止められない物を、一つの順番に押し込まないために。
レントとディーンは、薬師の倉へも行った。氷室の扉を開けると、薬師は青い瓶を一つずつ布で包んでいた。門が止まった日のための蓄冷具は、あと二日。だが瓶を急いで車へ積めば、石道で割れる。
「薬は何を待てない」
レントが聞く。
「届くことより、冷えたまま届くこと」
薬師は瓶の底を見せた。底には白い膜があり、温まれば薬効が落ちる。遅れた荷を取り戻すため、馬を替えすぎれば振動で沈殿が崩れる。薬にも、門の再開とは別の期限がある。
ディーンは帳簿の薬荷の横へ、初めて「氷二日」と書いた。彼の帳簿では、薬はこれまで優先順位の一行だった。いまは、いつまで、どの状態で届くかを持つ荷になった。
倉の外には、治癒院の使いが待っている。彼女は名を言わず、瓶を受け取る患者が三人いるとだけ告げた。病名を書く必要はない。だが、誰かが待っていることは、荷の札より重い。
ディーンは使者へ、無人試験が終わるまで薬を門へ寄せないと告げた。使者は顔を曇らせたが、代わりの陸送へ氷を足すため、組合の銅貨を受け取った。
ディーンは夜の会館で、帳簿を開いたまま席を立たなかった。頁の左には名、右には支払日がある。荷車持ちのアベル、明日朝。宿のエダ、明日夕。氷屋のシェム、二日後。日雇いの欄には、丸が二つだけで名がない。彼はその丸の横へ、炊き出しに並んだ母子の名前を書き足した。
「払う相手が増えた」
ノアが言う。
「前からいた。見えてなかっただけだ」
ディーンは筆を置いた。
王都使節私物の荷札は、支払日も違う。到着指定は明朝、違約金は一日ごと。薬の氷代より高い数字が、赤い封蝋の下に並ぶ。ディーンはその数字を紙で隠さず、隣に薬師の「氷二日」と書いた。
「私物を先にして、明日の宿代を払えば、あさっての薬が温まる」
レントは言った。
「使節の荷を後ろへ回せば、冬の荷枠を減らされる」
「どちらを選んでも、誰かの生活が減る」
ディーンは頷き、初めてその紙を会館の机へ置いた。商人の損失ではなく、町の支払日として見せるために。だが私物をどうするかは決めない。門が安全でない以上、優先を決めても通せないからだ。
外で炊き出しの釜が冷え、洗い終えた椀が逆さに並んでいた。
ディーンは使節私物の欄へ、荷の中身を書かなかった。自分にも見せられていない。だが箱数、重さ、護衛の人数、明朝という指定は書いた。それだけで、薬を載せる車の半分を塞ぐと分かる。
「知らない荷を、患者の薬より先にする理由がない」
ノアは言った。
「理由はある。王都の命令だ」
ディーンはすぐに返したあと、筆先を止めた。
「だが、理由を説明できない命令を、町の順番に置くなら、俺が説明する側になる」
彼は赤い封蝋の横へ「中身未確認」と書いた。命令を破ったわけではない。けれど、分からないものを優先の根拠にしないと決めた最初の印だった。
会館を出ると、ディーンは炊き出し場の椀を数えた。洗い終えた数と、配った数が合わない。子どもが一つ割ったらしい。彼は叱らず、明日の帳簿へ椀一枚と書く。小さな不足も、誰かの好意で埋めたことにしない。
レントはその横で、薬師の氷箱へ新しい布を掛けた。門が開くまでの時間を、ただ待つ時間にしないためだった。
ディーンは赤い封蝋を懐へしまわず、会館の鍵箱へ入れた。朝、彼一人が先に判断しないように。
鍵箱の蓋へ、ディーンは「朝、薬師と開ける」と書いた。自分の組合だけの帳簿に、患者を待たせる順番を閉じないためだ。
レントはその字を見て、誰が開けたかの欄を足した。命令の封を切る手にも、生活へ届く責任が残る。
夜風で鍵箱の紙が鳴った。ディーンは火を消し、薬の氷箱をもう一度見た。数字の多い私物より、温度の落ちる瓶を先に覚えておくために。
レントは、帳簿の余白へ薬師の到着時刻を書く欄を引いた。使節の命令と薬の温度を、同じ紙で比べるためだった。
ディーンは筆を洗い、明朝まで帳簿を閉じた。決めないためでなく、眠った目で優先を決めないためだった。
鍵箱の横には、朝に集まる者の椀が三つ伏せて置かれた。薬師、組合長、守備隊。誰か一人が食べ終える前に、封を開けないための目印だった。
帳簿の赤い封蝋だけが、薬荷の次に置かれていた。




