第2巻 第十五話 宿屋の空室
宿屋《白椀亭》の廊下には、旅人の靴が並びすぎていた。
セラは戸口の前で数を数えた。大人十一人。子ども三人。誤着したあと徒歩で戻った者、門の再開を待っている者、帰る先が北側で、いまは行き先を言えない者。部屋は九つしかない。厨房の隅には、昨夜から眠れていない案内人が毛布にくるまっていた。
「朝粥は全員に出した」
宿の女主人、エダが言う。
「昼の分は、組合から米が来れば出せる。来なければ薄くする」
その口調に恨みはなかった。だからセラは、余計に聞きにくかった。
「無料で受け入れる約束は、いつまでですか」
エダは帳場の木札を裏返した。今日の日付の横に、太い線が引かれている。
「今夜まで。最初は一晩だけと決めた」
「延ばせない?」
「延ばせるなら、聞かれなくても延ばすよ」
エダは帳場の下から、小さな革袋を出した。中には銅貨が数枚しかない。
「明日、南から荷車が来る。あの客たちに部屋を渡す約束をして、前金も預かってる。断れば返す。返せば、薪屋に払えない。薪を止められたら、ここの子どもまで寒い」
廊下の向こうで、男が咳をした。誤着旅客の一人が、濡れた靴を暖炉の前へ出そうとしている。宿の見習い娘が駆け寄り、火から離すよう頼む。靴が焦げれば臭いが残り、次の客が来ない。
セラは守備隊の隊服を脱がずに、空いた食堂を見回した。机を寄せれば、八人は寝られる。だが窓が一つしかなく、夜番を置かなければ子どもが外へ出る。ここは避難所ではない。宿は、寝床を売って、薪と食材を買う場所だ。
「守備隊の詰所は」
副官が言いかける。
「だめだ」
セラはすぐに止めた。詰所の空き部屋は、拘束者と負傷兵の隔離に使う。そこへ旅客を入れれば、別の不安を移すだけになる。
代わりに彼女は、食堂の壁際へ兵を二人立たせた。金を払わせるためではない。今夜、子どもを含む旅客が寝るなら、見張りと水運びを守備隊が持つ。
「寝床代は払えない」
老いた旅客が言った。
「払わせに来たんじゃない」
セラは答えた。
「今夜までに、ここに誰が残るかを決める。門が開くと約束はしない。代わりの車が出る者、親類へ預けられる者、守備隊が護送する者を分ける」
「分けられない者は」
エダが問う。
「私が、別の寝床を探す」
言いながら、軽く言ったつもりはなかった。寝床を探すとは、誰かの倉を借り、掃除をさせ、火を焚き、夜番を置くことだ。安全を確保する側が、宿の経営を支えられるわけではない。
食堂の隅で、七歳の男児が青い紐を握っていた。ユナが抱えていたという子だ。少年は毛布の端を噛み、扉の音ごとに顔を上げる。
「あの姉ちゃんは、帰るって言った」
セラは膝を折った。
「どこへ?」
「名前をいっぱい書いたら」
少年は紐を握り直す。
「名前があれば、迎えに来るって」
セラはその言葉を、約束としては受け取らなかった。ユナが何を見て、どこで何を書いているかは分からない。
ただ、今夜までという宿屋の期限は、待ってくれない。
夕方、セラは宿の裏にある空き桶置き場を見た。屋根はあるが、壁が半分しかない。兵なら寝られる。旅客を寝かせるには、板を足し、火鉢を置き、雨よけを張らなければならない。
「明日までに、できるか」
副官はすぐに人数を数えた。
「板は倉にあります。だが運ぶ車が要る」
「荷役へ頼む。代わりに見張りを出す」
エダはそのやり取りを聞き、帳場の木札をそっと伏せた。
「予約客を断るのではなく、食堂を空けるのか」
「全員を移すとは決めません。今夜、誰がどこなら眠れるかを本人と確認します」
セラは、決めるのは自分だけではないと言った。だが、聞くだけで寝床が増えるわけでもない。彼女は兵へ、水桶と藁を運ぶ命令を出す。宿屋の無料宿泊を、善意だけで明日へ延ばさせないために。
夜、食堂の机を動かしていると、赤い帽子の男児が木の皿を抱えて来た。粥を半分残している。
「食べられないか」
セラが尋ねると、少年は首を振った。
「あの姉ちゃんの分」
セラは皿を受け取らなかった。ユナの居場所が分からないのに、戻るまで取っておくと約束するのは違う。
「今夜食べよう。明日、また作る」
少年は泣きそうな顔で、匙を口へ運んだ。隣にいた宿の見習い娘が、自分の皿を同じ速度で食べ始める。誰も急かさない。
副官は裏の桶置き場へ板を運び、兵が藁を敷いた。明日の予約客を追い出さず、旅客全員を移すわけでもない。食堂で眠れる者を、本人の希望と体調で分ける。エダは毛布の数を数え、足りない二枚を近所から借りた。
宿屋の空室は、ただの部屋ではなかった。薪を買う約束と、旅人の眠りと、今夜だけの避難を、同じ鍵で支えている。
明け方、セラは桶置き場の仮寝床を見に行った。兵が運んだ板はまだ冷たく、藁の下から土の湿りが上がる。旅客の中で若い男二人が、自分たちはここでいいと言った。
「子どもと熱のある人は中へ」
それだけでは決まらない。中の食堂には、翌朝の朝食を取る客が来る。エダは予約客へ事情を話し、食堂の半分だけを開けることにした。前金を返す代わりに、街道の別宿へ紹介状を書く。紹介先が満室なら、客は怒るだろう。それでも、誤着旅客を夜の道へ出すよりはましだ。
セラは紹介状へ守備隊の印を押した。宿屋の失った客を、ただの商売の損にしないためだ。南からの客が別宿で払う宿代の一部を、守備隊の非常費から補う。副官は予算の欄を見て黙ったが、印を押す手を止めなかった。
赤い帽子の男児は、藁の上へ置かれた青紐を見ていた。セラは紐を取り上げず、寝る前に彼へ聞いた。
「鈴は何回だった」
「一回。返事も一回」
少年は正しく答えた。セラは彼の記憶を証言にする前に、まず眠らせた。
エダは寝具を一枚ずつ広げ、染みを確かめた。客へ出せない古い毛布を、仮寝床の下へ敷く。厚い毛布は子どもと熱のある旅客へ回す。薄い毛布を受け取った若い男は文句を言わず、代わりに薪を割った。
厨房では米を量る音がした。朝粥の米は、十四人なら足りる。明日の予約客まで入れれば足りない。エダは豆を潰し、粥を薄くする代わり、塩魚の欠片を刻んだ。食費は帳場の革袋から出る。組合の米が遅れれば、明朝の皿が消える。
「今夜まで、って言ったのは、客を追い出すためじゃない」
エダはセラへ言った。
「明日の朝に、何が足りないかを決めるためだよ」
セラは仮寝床の人数を、兵へ書かせた。名だけでなく、熱のある者、歩ける者、子どものいる者。守備隊が寝床を借りるなら、宿の台所へ勝手に入らないことも決める。兵の一人が水を運ぶ桶を倒し、エダに叱られた。水はただではない。
夜の鐘が鳴る前、紹介先の宿から返事が来た。南の客二人だけなら受けられるという。エダは予約客の一人へ伝声石を繋ぎ、謝り、前金の半分を返すと約束した。声の向こうで怒鳴られても、石を置かなかった。
今夜の期限は、毛布の端、米の升、水桶の底にまで来ていた。
寝る前、エダは帳場の革袋から銅貨を三枚出し、薪屋へ渡す封筒へ入れた。明日払えなければ、次の束は来ない。宿は客を泊める前に、火を買わなければならない。
セラは兵へ、仮寝床の見張りを二刻ごとに替えるよう命じた。夜番が長すぎれば、子どもの咳も、水の減りも聞き逃す。兵の食事は宿の米から取らず、詰所から運ばせた。
赤い帽子の男児は眠りながら、青紐を握っていた。見習い娘がそっと毛布をかけ、紐は手から外さなかった。セラはそれを見て、明朝の聞き取りを急がないと決めた。証言を急ぐより、まず子どもを客として眠らせる。
エダは最後の灯を消す前、米櫃の蓋へ明日の人数を書いた。旅客、兵、予約客。足りないと分かっている数字を隠さず、朝の仕入れ役へ渡すためだ。
その木札の裏には、今夜眠る者の名も、薄い墨で増えていた。
エダは木札を胸の高さへ掛け直した。誰でも読める場所に置き、朝の勘定を一人で抱えないためだった。
厨房の釜には、水を足した印の木杓子が立てかけられていた。明日の者が、残りを見誤らないためだった。
外の藁が風で鳴り、仮寝床の兵が一度、戸を確かめた。
エダは眠る前、火鉢の灰をならした。朝まで火が残るかを、宿の者として確かめた。
夜番の靴音が、廊下をゆっくり往復した。
帳場の木札には、明日の予約客の名前が並んでいた。




