第2巻 第十一話 縄の色
荷役場の朝は、門より先に縄が鳴る。
濡れた麻が杭へ擦れる低い音、車輪の輪鉄が石を跳ねる音、眠り足りない男たちの短い呼び声。その間を、リオは青い縄を抱えて走った。昨夜から止まった荷車は広場の端へ寄せられ、普段なら空いている荷下ろし場まで、樫箱と布俵で埋まっている。
「そこ、白縄と替えろ。青は棚の下へ」
親方の声に、リオは手を止めた。
「なんでだ。縄なら同じだろ」
若い荷役が言った。
「同じに見えるなら、荷を落とせ」
親方は答えず、荷車の脇へしゃがんだ。荷の角に掛けた縄を指で弾く。白縄は新しい麻で、まっすぐ張っている。青縄は染めが褪せ、途中のよりが少しだけ太い。
「青は青麦回り。昔の積み方だ。門へ出す荷に使うな」
その一言で、周りの手が遅くなった。
リオは青縄の端を見た。荷札には何も書かれていない。荷主、箱数、重さ、封印の有無。それだけだ。それでも荷役は、縄を見れば、どの荷車がどの番屋を経由してきたかを知っていた。
「公式の札より、縄を見てるのか」
セラの部下として来ていた兵が尋ねた。
「見てるんじゃない。間違えると痛い目を見る」
親方は青縄の結び目をほどく。
「青麦回りは山を越えない。谷の倉を二つ通る。雨でぬかるむと、荷車は軽くして、縄を二重にする。札に倉の名まで書くと、急ぎ荷の字が増えて読めなくなるからな」
リオは口を挟まなかった。昨夜、記録石から聞こえた「黒黄。青なし」という声が、耳の裏に残っている。あのときは、ただの補助情報だと思った。だが青という言葉は、荷役場では色ではなかった。古い道を使う者だけが交わす、短い合図だった。
彼は棚の下の青縄を一本ずつ広げた。端から指でたどる。青麦回りの縄は、荷を滑らせないよう、端に小さな瘤を七つ作る。荷役見習いだったころ、父に教わった。
一、二、三。
四つ目の瘤で、指が止まる。
これは七つではない。六つしかない。
「親方。これ、どこの縄だ」
青縄の端には、青麦印と同じ麦穂の刻印があった。ただし、瘤は六つ。そして刻印の裏へ、黒い油で小さな輪が描かれている。
親方は眉を寄せた。
「戦時荷の返し縄か」
「返し縄?」
「戦のころ、谷の倉を軍が使った。戻る荷は別の番屋へ回す。青麦回りでも、門へ寄せず、旧門の脇の荷溜めへ行く。六瘤はその印だ」
リオは青縄を持ったまま、息を詰めた。
旧門の脇。
北の旧巡礼門は、いまは森の手前に残るだけの石枠だ。だが荷役の手には、そこを通らない荷の縄がまだ残っている。
「この縄、昨夜の試験荷にはなかった」
兵が言う。
「試験荷には黒黄を使った。青なしと読んだ」
リオは答えた。
「でも、青なしと読むとき、青麦回りを知らない人はいない。聞いた側が、青麦を外すための道を選ぶこともある」
自分で言って、妙に腹が立った。門は、札にないことまで拾っているのか。なら、仕事の癖まで人を運ぶ先へ混ぜていることになる。
荷役場の端で、薬箱を載せた小車が動き出した。門が使えないため、二頭立てで南街道へ出す。御者の女が、青い縄を見て顔をしかめる。
「それを近くへ置くな。薬箱の縄と間違える」
リオはすぐに青縄を抱え直した。
「これは使わない」
「使う使わないじゃない。残すなら、どこから来たか分かるようにしな」
女は急いでいるのに、荷車を止めて言った。リオは返事の代わりに、青縄の端を一本だけ切った。残りの縄と混ざらないよう、木札へ結びつける。木札に、親方から聞いた言葉を書く。
戦時返し縄。六瘤。旧門脇荷溜め。
それを見ていた門役長が、青くなった。
「旧門脇の荷溜めは、台帳では廃止済みだ」
「荷役場では廃止してない」
リオは青縄を持ち上げた。
「使わないだけで、印は残ってる」
門役長は木札を取り、そこへ古い経路印の写しを重ねた。麦穂の下にある輪が、ぴたりと合う。
公式札にはなかった印だった。
リオは、切った縄端を懐へしまわなかった。ここで自分だけが持てば、次に必要になったとき、また誰かの記憶に頼ることになる。空になった釘箱を借り、蓋へ白墨で「触る前に、六瘤を数える」と書いた。青縄の残り、木札、経路印の写しをそこへ入れる。
親方が箱を見た。
「保管係の仕事まで取るのか」
「取らない。どこへ置けば、次の番も見つけられる」
「荷場の北棚。返し荷の道具と一緒だ」
親方はそう言ってから、北棚の鍵を若い荷役へ投げた。男は戸惑ったが、青縄を一束ずつ受け取り、白縄の棚から離して積んだ。縄を分けるだけで、荷役場の通路が少し広くなる。薬の小車が、その横を止まらずに抜けていった。
リオは小車の後ろ姿を見送った。妹を探すための印が、薬を遅らせる物にはならない。そうしなければならないと、自分へ言い聞かせた。
門役長は木札の裏へ、もう一つ書き足した。
七号接続の可能性。門へ近づけない。
荷役場の昼番が来るころ、親方は全員の縄を一度、地面へ並べさせた。青、白、黒黄、油染みのついた古縄。仕事を止めるほどの確認に、待たされていた荷主が怒鳴る。
「縄のせいで、魚が傷む」
「なら白縄で積み直せ。青を使って、どこへ着くか分からなくするよりましだ」
親方の返事に、荷主は荷箱を蹴りかけ、そこで手を止めた。箱の中の塩魚を、門の向こうで待つ宿屋がある。積み直せば昼を越す。積み直さなければ、北へ出たとき戻らないかもしれない。結局、荷主自身が白縄を引いた。
リオはその手伝いをした。縄を替えるたびに荷車の順番が遅れる。けれど青縄を隔てた棚へ移すたび、次の荷役が「これは使わない」と声にした。言葉にして渡さなければ、色はまたただの色に戻る。
彼は六瘤の縄を見て、ユナの青い案内紐を思い出した。同じ青でも、妹の紐は迷った子の手を離さないためのものだ。こちらは、古い道を荷へ教えるものだった。自分が急いでいるからといって、二つを同じ働きにしてはいけない。
薬の小車は、南街道へ出る前に一度だけ止まった。御者が振り返り、白縄の結び目を確かめる。リオは親指を上げた。小車はようやく走り出し、荷役場に残ったのは、使わないと決められた青だった。
午後、リオは北棚の鍵を持つ若い荷役、カイと一緒に、縄の出入りを調べた。縄は消耗品だから、古いものを捨てるたび帳簿からも消える。けれど返し縄だけは、荷主が預けたものとして別の棚に積まれていた。
「これ、去年も来てる」
カイが木札を拾った。荷主名は読めるが、送り先は墨が滲んでいる。リオは荷車の軋みの癖を覚えていた。車輪の油が片側だけ黒い、北の山の小さな車だ。門を使わず、月に一度だけ薬草と織布を持って来る車。
「北山共同荷場の車だ」
カイはその名を知らない。リオも、荷場しか知らなかった。だが六瘤の縄が使われていたなら、荷場の先へ人のいる場所がある。縄を捨てれば、そこへ戻る手掛かりまで捨てる。
リオは古縄の木札を新しい紙へ写した。日付、荷主の印、六瘤、北山共同荷場。カイには、次に同じ印が来たら荷役長を呼ぶよう頼んだ。自分がここを離れて妹を探しても、見つけたことが棚の奥で終わらないように。
夕方、親方は青縄を一本だけ、白縄へ替えた荷の車輪へ結んだ。門へ出すためでなく、車が北山の荷主へ戻ったとき、こちらで印を確かめたと知らせるためだ。
「返し縄に返す印だ」
親方は照れたように言った。
リオは帰り際、北棚の前で一度だけ荷役の手を止めた。青縄を使わない荷には、白い木札を結ぶ。古縄を積み直す荷には、六瘤を数えた者の印を残す。誰が見ても次の手が決まるほど簡単な決まりにした。
カイが木札を持ち上げる。
「字を読めない御者は」
「白札は使っていい。輪印は使わない。そこだけ覚えてくれ」
御者の女もそれを聞き、白札を荷車の前へ結んだ。門の異常が、荷役の口伝だけに戻らないように、色と形で渡す最初の印だった。
白札を結んだ荷だけが、夕方の仕分け台を越えた。リオは最後の一台が街道へ消えるまで、北棚の前を離れなかった。
親方は帳場へ戻る前、白札を一枚、自分の手帳にも挟んだ。明日の朝番が来たとき、棚の決まりを言い直すためだ。
荷場の北棚は、その日から、誰も急ぎ荷を置かない棚になった。
リオはその棚の前で、最後に鍵を掛けた。
鍵の冷たさが、手のひらに残った。
青縄だけが、旧経路印と一致していた。




