第2巻 第五話 薬は道を待たない
治癒院の薬棚には、空いた場所が三つあった。
棚板には四角い跡が残っている。ほかの薬瓶が積もった埃を止めた中で、そこだけ木の色が明るい。
「朝までは、ここにありました」
夜勤薬師が言った。
空いた三つのうち、二つは予備を別の病棟へ移した跡だった。
残る一つ。
王都から届くはずの乾燥薬《白根》を置く場所である。
「何に使う薬ですか」
蓮人が尋ねた。
「熱を下げるだけなら、別の薬があります。白根が必要なのは、治癒術を受けつけない患者です」
薬師は廊下の奥を見る。
個人の話をどこまでしてよいか迷ったのだろう。
サナが病室の扉から顔を出した。
北塔停止の夜を患者として経験したサナは、治癒院で何かを決めるとき、医師より先に患者の困り事を聞く人になりつつあった。
「本人に聞けばいいです」
サナが言う。
「話せます。起きていられるうちなら」
病室には、トーマという十二歳の少年が寝ていた。
頬が赤い。額へ冷却紋を当てているが、青い光は弱かった。母親が濡れ布を絞り、首元へ置く。
「白根がないと、どうなりますか」
蓮人は医師ではなく、母親と少年の両方が聞ける位置で尋ねた。
薬師が答える。
「いま使っている代替薬は、あと二回。三刻ごとです。次の夜半までに白根がなければ、冷却術を強くする必要があります」
「強くできるなら」
母親が顔を上げる。
「なぜ最初から、そうしないんですか」
「この子は治癒術への反応が弱い。出力を上げれば、心臓へ負担がかかります」
「強い光は、いやだ」
眠っていると思ったトーマが、目を閉じたまま言った。
「前にやったとき、胸がずっと速くなった。走ってないのに、坂を走ったみたいになった」
母親が息子の手を包む。
「白根なら、それは起きない?」
「これまで二度は起きていません」
薬師は、確実とは言わなかった。
「西の治癒院にも、白根を待ってる人がいるんでしょう」
トーマが聞く。
「います」
「ぼくが使ったら、その人のがなくなる?」
部屋にいる大人たちは、すぐに答えられなかった。
一箱届けば救われる、という話ではない。
どこから持ってくるかによって、別の棚が空く。
「十回分のうち、何回分を借りるか。西領で必要になる見込みも確認します」
ノアが答えた。
「全部を持ってくるわけではありません」
トーマは小さくうなずいた。
「確実に悪くなる?」
「わかりません」
「わからないのに、薬を待つんですか」
「薬なら負担が少ないと、これまでの記録でわかっています」
母親は濡れ布を絞り直した。
水が桶へ落ちる。
ぽた。
六刻という期限は、管理所の巻紙では赤い砂時計だった。
この部屋では、次の服薬二回と、トーマの熱だった。
「近隣の白根は」
ノアが持ってきた在庫票を開く。
「ラグナ南の薬舗に一回分。西領の治癒院に十回分。ただし西領は自院の寒熱患者用として貸出を拒否しています」
「南の一回分は」
「いま使いを出しています。徒歩で往復一刻半」
「それで期限は三刻延びる?」
「薬が同じ品質なら」
薬師は条件をつけた。
「西領から陸路では?」
「早馬を交代して八刻です」
薬の期限は六刻。
道は八刻。
紙の上では、二刻足りない。
「途中まで双方から運べば」
ノアが地図へ指を置く。
「西領から東へ、ラグナから西へ迎えを出す。中間の石橋で受け渡せば、五刻半」
「橋は夜に使えますか」
「門番が必要です」
「橋なのに門番が?」
「領境です。日没後は通行証の照合が必要になります」
「照合にどれくらい」
「通常は半刻。緊急許可があれば短縮できます」
「誰の許可ですか」
「西領代官とラグナ代官」
ラグナ代官の席は空いている。
バルガス罷免後、監察官イザークが暫定の承認権を持つ。だがイザークは王都へ報告を送るため、今朝から城外の伝令所にいた。
「承認を取りに行けば一刻」
ノアが言った。
五刻半に一刻を足せば、六刻半。
また間に合わない。
「先に走らせて、許可は後から」
サナが言う。
「それは通行規則に反します」
「熱は規則を待ちますか」
ノアは黙った。
ノアは代官庁書記官の任用を停止され、いまは辺境連環局の代行調整官として、記録と権限照合だけを監察官から限定委任されている。条文を探し、草案を作ることはできる。しかし、通行を許可する権限はない。
「緊急持出しの条文があります」
紙束をめくる。
「火災、襲撃、結界停止時。薬不足は書かれていません」
「書いてないなら使えない?」
「目的は、承認者へ連絡できないときに人命を守ることです」
「では、今回も同じでは」
蓮人が尋ねる。
ノアは条文を読み直した。
「目的は合います。緊急持出しの適用草案を作ります。ただし、私には発行権限がありません。セラ副隊長を現地責任者、治癒院長を必要性の確認者、西領の薬師を持出し責任者として、三者の判断を分けます」
「あなたの署名は」
「条文照合と草案作成者として残します。通行を認めた署名とは分けます」
自分にない権限を借りず、誰が何を判断したかを残す署名だった。
サナはうなずき、病室を出た。廊下にいる院長を呼びに行く。
「これで薬は間に合いますか」
トーマの母親が尋ねる。
「西領が貸してくれれば、五刻半です」
蓮人が答えた。
「貸してくれなければ?」
「南の一回分で三刻延ばし、その間に別の薬と治癒術の条件を医師が判断します」
「門を開ければ、もっと早いんでしょう」
母親の声は責める調子ではなかった。
その方が答えにくい。
「正しく届けば、一刻かかりません」
「正しく届かないかもしれない」
「はい」
「あの子を乗せるわけではない。薬箱だけなら、試せませんか」
空いた棚を見る。
必要な物は箱一つ。
誤着したとしても、追跡できる印をつけ、無人で送ることはできるかもしれない。
だが、薬箱だから失ってよいわけではない。残りが一箱なら、誤着した瞬間に別の患者の期限を奪う。
「いま、門のどこまでが危険かを分けています」
蓮人は言った。
「間に合う方法が一つなら、それを選ぶしかない。でも、陸路と門、両方の準備を進めます」
「両方?」
「陸路を止めて門が失敗したら、戻れません。門を止めたまま陸路が遅れた場合も同じです」
母親はトーマの額から濡れ布を取った。
「私が決めることではないんですね」
「いいえ」
蓮人は首を振る。
「この子が何を失うかを知っているのは、あなたです。判断する席に、その情報が必要です」
「なら、書いてください」
母親は空いた薬棚を指した。
「薬一箱、ではなく、この子の次の二回だと」
ノアが緊急持出し票の余白へ書く。
残り二回。
三刻ごと。
次の夜半まで。
管理所へ戻る途中、南の薬舗から使いが来た。
白根は一回分ある。
ただし、保管瓶の封印が二年前に切れていた。
品質確認に一刻。
薬師はすぐに、空いた棚の下から細長い革箱を出した。中には青い冷却石が四つ、布に包まれている。
「西領から来る分は、これで橋まで保たせます。石を瓶へ触れさせない。凍らせれば薬の粉が割れます」
薬瓶を運ぶための木枠へ、冷却石を二つずつ向かい合わせに置く。薬師が瓶の底へ薄い羊毛を敷き、蓋の隙間へ蜜蝋布を押し込んだ。レントは横から手を出さず、必要な物を尋ねた。
「馬は速い方がいいですか」
「速さだけなら、瓶が揺れる。前後へ二人、途中で馬を替える。揺れを見られる御者が要る」
ノアは持出し票の裏へ、受取先を書き足した。石橋の中央で誰へ渡すか。ラグナ側は北街の御者オルダ、西領側は治癒院の薬師補。どちらかが来なければ、箱を橋の上へ置かない。受け取る者の名と印を先に決めないと、早馬だけが先に着き、薬が夜気へ晒される。
廊下の向こうで、厩の少年が馬具を引く音がした。馬を替える場所へ、乾いた藁と湯の革袋を運ぶ。人が急ぐほど、馬は水を飲まず、次の坂で脚を止める。薬を待つ子のための道は、瓶だけでなく、馬の息まで冷やさず保つ必要があった。
トーマの母親はその準備を見て、濡れ布を新しい水へ替えた。
「橋で受け取る人が来なかったら」
「箱は西領へ戻します」
薬師は答えた。
「失くした薬を待たせるより、戻せる薬を残します」
レントは、その言葉を持出し票へ写さなかった。代わりに、橋で止める条件として、受取人不在、冷却石のひび、馬の脚の異常、と三つ書いた。薬を急ぐために、何を急がないかを決める必要があった。
南の薬舗から来た使いは、革袋から小瓶を取り出さなかった。封印が切れていた瓶を廊下の灯りへかざし、濁りがないことだけを薬師へ見せる。
「見た目では決められない」
薬師は小さな試薬紙を水へ浸した。色が変わるまでの間、母親はトーマの手を握り、レントは窓の外の厩を見た。西領へ走る馬、橋で待つ受取人、ここで確かめる一回分。どれか一つだけ急げば、ほかの準備が空白になる。
試薬紙の端が、ゆっくり薄青く染まった。薬師はすぐに頷かず、砂時計を返した。瓶の中身を確かめる一刻も、トーマの残り二回の中へ入っている。
期限は、また一つ短くなった。




