第2巻 第三話 消えたユナ
リオは、妹の結び方を覚えていた。
青い案内紐を左肩へ回し、胸元で一度、背中側で二度結ぶ。客が後ろからでも色を見失わないためだ。
ユナは結び目を強くしすぎる癖があった。
解くときは爪が痛い、と毎朝文句を言う。それでも次の日には同じ強さで結ぶ。
朝、リオが紐を渡したときもそうだった。
「今日は王都から子どもが来るんだって」
「荷の間を走らせるなよ」
「私が走るんじゃない。子どもを走らせないの」
妹は笑っていた。
その顔を最後に見たのが、何時だったのか。考えるたびに少しずつ変わる。朝鐘の前だった気もする。荷車一台目の車輪を締めたあとだった気もする。
時刻を聞かれ、リオは答えられなかった。
「鐘は鳴っていましたか」
蓮人が尋ねた。
「毎日鳴る」
「覚えていないなら、覚えていないで構いません」
「ユナは朝鐘のあとに出た」
「見ましたか」
「いつもそうだ」
「今日も?」
リオは答えなかった。
荷役所の詰め所には、朝の仕事が途中のまま残っている。巻きかけの縄。半分だけ飲まれた薄い茶。壁の釘には、青い案内紐の予備が二本掛かっていた。
セラは入口に立ち、蓮人は木箱へ腰を下ろしている。
調査する者の座り方ではない。
急かさず、目の高さを合わせるための座り方だった。
リオには、それが腹立たしかった。
妹が消えている。
座って話している間にも、どこかで怪我をしているかもしれない。食べる物がないかもしれない。助けを呼んでいるかもしれない。
「青い紐を、ほかの人が使うことは?」
「案内役だけだ」
「今日は何人?」
「ユナと、東門宿のマルタ」
「マルタさんは?」
「ここにいる」
詰め所の奥で、年配の女が手を上げた。王都から来る別便を待っていたが、全門停止で仕事がなくなった。
「私の紐はこれ」
左肩の青紐を見せる。色は同じだが、端へ白糸が一本縫い込まれている。
「宿の案内は白入り。ユナのは青だけ」
蓮人は予備紐を見た。
「一本ずつ違いがある?」
「誰のものかわかるように、端を変える。ユナは結び目を一つ作ってある」
マルタが予備の一本を取る。
端から指二本分の場所に、小さな玉結びがある。
「迷った子に握らせるためだよ。布だけだと手から抜けるから」
リオは知らなかった。
毎朝渡していた。色と長さは見ていた。端の結び目まで見たことはない。
ユナの仕事を、客を宿へ連れていくだけだと思っていた。
荷役の方が重い物を持つ。危険な車輪へ手を入れる。だから自分の方が、妹の仕事をよく知っているつもりだった。
迷った子が紐を離さない工夫も、名前を覚えさせる順番も知らない。
今朝、何時に出たかさえ見ていない。
兄であることと、妹の一日を知っていることを、同じだと思っていた。
「今朝の紐にも、ありましたか」
蓮人が聞く。
「ある」
リオは答えた。
見ていない。
だが、ユナなら作っている。
「確認したのか」
セラの声は厳しかった。
「いつもある」
「今日のことを聞いている」
「あった」
言い切ったあと、喉が痛くなった。
蓮人は否定しなかった。
「いつものことと、今日見たことを分けましょう」
床へ二枚の板を置く。
一枚には「いつも」。
もう一枚には「今日」。
「子ども用の結び目を作る」
いつもの板。
「リオさんが青い紐を渡した」
今日の板。
「朝鐘のあとに出る」
リオは口を開き、閉じた。
「いつもだ」
「今日は?」
「覚えてない」
蓮人はそのまま書いた。
覚えていない。
責める言葉を添えなかった。
リオは視線を落とす。
「荷車の一台目を締めてた。車軸が歪んで、縄を二度やり直した。ユナが来たとき、朝鐘が鳴ってたかもしれない。鳴り終わってたかもしれない」
「何か話しましたか」
「子どもが来るって」
「どこから?」
「王都」
「誰から聞いたと?」
「宿の帳面だと思う」
マルタが首を振った。
「今日の便に子どもがいるとわかったのは、朝の名簿が届いてからだよ。ユナがここを出たあとだ」
詰め所が静かになる。
「では、ユナさんは別のところで知った」
蓮人が今日の板へ書く。
「王都から来る子どもの存在を知っていた」
「それが何だ」
「出発名簿を先に見た人と話した可能性があります」
「門番だ」
リオは立ち上がった。
「東門の門番なら、朝の名簿を受け取る」
「聞きに行きます」
「俺も行く」
セラが先に扉を塞いだ。
「門前は封鎖中だ」
「ユナの仕事場だ」
「だから安全になるわけではない」
「妹を捜すのに、ここで縄の話をしてろって?」
「お前が知っていることが、捜索範囲を狭めている」
「狭まってない。ユナはまだ見つかってない」
セラは退かなかった。
リオも引かなかった。
蓮人が床の板を裏返す。
「東の廃集積場へは、荷車三台が誤着しました」
「知ってる」
「荷役の人が必要です。縄の色と積み方を見て、出発時から変わったものを判断できる人が」
「連れていく理由を作ってるのか」
「安全が確認できた範囲までです。妹さんの捜索と、荷の確認を分けません。ただし、セラさんの指示には従ってください」
リオはセラを見る。
「勝手に門へ触れたら戻す」
「触らない」
「封鎖線を越えたら戻す」
「わかった」
「走ったら」
「子どもじゃない」
「返事は」
「走らない」
東の廃集積場は、町外れの石壁沿いにあった。
使われなくなった荷受け門を中心に、低い倉庫が三棟並ぶ。屋根は一部が落ち、石畳の隙間から草が伸びていた。
誤着した荷車は、門の正面で折り重なっている。
一台目は前輪が外れ、二台目は横倒し。三台目の車軸が石の門枠へ半分だけ埋まっていた。転移が終わる前に門が閉じたのだと、ミナが説明した。
近くには行けない。
門枠の白い残留灯が、まだ消えていなかった。
「白が残っている間は、接合を外せません」
ミナが封鎖線の内側から言う。
「荷車の積み方だけ見てください」
リオは歩いた。
走らなかった。
一台目。乾燥薬草。青黒黄の縄。
二台目。冬蒔きの種。青黒黄。
三台目。王都使節の衣装箱。青黒赤。
「三台目だけ、途中確認ありだ」
「黄と赤の違い?」
「黄は途中で開けない。赤は中継庫で封印を見せる」
「どこの中継庫ですか」
「青麦の旧庫」
リオは横倒しになった二台目へ目を凝らした。
種袋が裂け、床へ麦が散っている。その上に、細い青が見えた。
「待って」
足が前へ出る。
セラの腕が胸を止めた。
「走らないって言ったな」
「紐だ」
荷車の下。
折れた車輪と石畳の間に、青い布が挟まっている。
ミナが長い木鉤を使い、封鎖線の内側から引き寄せた。
案内紐だった。
泥で黒ずんでいるが、荷縄より明るい青。片方の端は裂け、もう片方には小さな玉結びがある。
リオは受け取らなかった。
触れば、妹がここにいたことを認める気がした。
「今朝、渡した紐ですか」
蓮人が聞く。
「そうだ」
今度は、見たことだけを答えた。
「ユナのだ」
紐には血がついていない。
荷車の下敷きになった跡もない。裂けた側には、細かな石粉が付着していた。
セラが周囲を見回す。
「人の足跡は?」
兵士が首を振る。
「誤着直後に御者二人を救出しています。それ以外は荷車へ近づけていません」
「紐はどこから来た」
「最初から荷車に挟まっていたか、門から一緒に出たかです」
リオは三台の荷車を見る。
ユナは人の列にいた。
紐は荷の到着先にある。
「荷へ乗ったんじゃない」
誰に言うでもなく、口にした。
「ユナは、客を置いて荷へ行かない」
白い残留灯が一度だけ明滅した。
門は停止している。
術式も閉じられている。
それでも石枠の奥から、冷たい風が細く吹いた。
草が町の外側ではなく、使われていない門の中へ向かって倒れた。




