第四十話 次に気づく人
事故から六日目の朝。
北塔の壁から、白い紙が一枚ずつ外された。
停止基準。再起動手順。生活流路の優先順位。新型冷却核の試験結果。
臨時の紙を剥がし、正式な板へ写すためだ。
「捨てるな」
ガルドが言った。
「わかっています」
リクが答える。
「変更前の記録として束ねます」
「濡れた紙は別だ。重ねると腐る」
「わかっています」
「返事が早い」
「遅くても怒るだろ」
ガルドは鼻を鳴らした。
北塔の中央には、長い机が置かれている。その周りに、結界庁、保守工房、守備隊、代官庁、商人組合、治癒院の担当者が一人ずつ座っていた。
事故後の振り返り。
ただし、誰が悪かったかを決める会議ではない。次に同じ兆候が出たとき、誰が気づき、誰が止め、誰へ渡すかを決める。
ミナが最初の板を立てた。
『当番』
「北塔、南塔、鐘楼を一人で巡回する夜勤を廃止します」
夜勤術師のエドが大きくうなずいた。
「北塔一人、南塔一人。鐘楼は守備隊当番と共同確認。交代時は、前の当番と次の当番が一度ずつ同じ数値を読みます」
「病欠が出た場合は」
ノアが問う。
「予備当番へ連絡。それでも足りなければ、負荷設備を先に止めます」
「人が足りないまま通常運転を続けない、ということですね」
「はい」
ノアが正式な文章へ直す。
二枚目。
『報告』
異音。焦げた匂い。警報灯。住民からの申し立て。数値が基準内でも記録する。
月の障害件数へ上限を設けない。報告した者を、その報告だけを理由に処分しない。
「匿名箱も置け」
ハンスが言った。
「名前を書けば、また握り潰されると思う者がいる」
「匿名では確認できない場合があります」
ノアが答える。
「なら、追加で聞きたいと掲示すればいい。最初から名前がない報告を捨てるよりましだ」
匿名箱を、北塔と市場の二か所へ置くことになった。
三枚目。
『停止』
流路圧。出口温度。冷却音。焦げ臭。結露。複数設備の同時変動。
数値だけでなく、現場で確認できる兆候も並べる。
「判断者が不在なら」
セラが問う。
「当番の上位者へ」
結界庁の術師が答えた。
ミナが首を振る。
「上位者ではありません。次の停止判断者です」
「同じでは?」
「違います。身分が高くても、現場値を受け取っていない人には渡しません」
停止判断者は三人。
第一がミナ。
第二がエド。
第三が、再任された別の夜勤術師。主任や代官の承認を待たない。止めたあとに、判断が妥当だったかを確認する。
止めたこと自体を処罰の理由にしない。
四枚目。
『引継ぎ』
ガルドが革張りの手帳を机へ置いた。十六件の兆候を書いていた手帳。角は丸くなり、油と水で表紙の色が変わっている。
「これは俺が持つ」
ガルドは言った。
ミナの顔に、一瞬だけ落胆が見えた。ガルドは工具袋から、もう一冊取り出した。
新しい革表紙。
中には、古い手帳の内容が同じ順序で書き写されている。
文字は不揃いだった。
ところどころ、別の筆跡が混じっている。
「こっちは塔へ置け」
ミナが両手で受け取る。
「写したんですか」
「俺だけじゃねえ。リクが設備名を足した。ハンスが水車小屋との違いを書いた」
「親方の文字、読みにくいからな」
リクが言った。
「お前の図も下手だ」
「でも他人が読める」
「それは認める」
ガルドは古い手帳を胸元へ戻した。写しは、北塔の記録棚へ入れられた。
鍵はミナ一人が持たない。
当番用。保守工房用。監察用。
三本作られた。
「次」
セラが五枚目を立てる。
『避難』
北門で人がぶつかった日の図が広げられた。
入る者。出る者。畑へ戻る者。治癒院へ向かう者。
前回は荷車を斜めに置いて流れを分けた。今度は、門前の石畳へ最初から二色の線を引く。
「色だけでは夜に見えません」
蓮人が言う。
「縄を張る」
セラが答えた。
「触ればわかる。避難箱へ入れて各門に置く。旗、縄、蓄魔灯、負傷者札、城外者の名簿」
「子どもは」
市場代表が問う。
「学校と畑で別に数える。家族を迎えに逆流させない。合流場所を先に決める」
北門で救出された少女の母親が、畑側の連絡役を引き受けていた。あの日に焦げた服の袖が、避難箱の上へ結ばれている。
青い火花で開いた小さな穴。
何のための箱か、文字が読めない者にもわかる印だった。会議が終わるころ、当番表が壁へ掛けられた。
七日分。
朝、昼、夜。
名前の横に、担当設備と代行者が書かれている。
蓮人は自分の名を探した。
一日目。
ある。
二日目。
ある。
三日目。
夜間呼出し。
四日目。
ある。
五日目。
ある。
六日目。
空白だった。
「抜けています」
蓮人は言った。
「抜いている」
セラが答える。
「休暇日です」
ミナが付け加えた。
「連環局の調整官がいなくても、通常判断は各担当で行います」
「大きな問題が起きたら」
「代行調整官はノアさんです」
ノアが眼鏡を押し上げる。
「私も翌週に休暇を取ります」
「北塔の問題なら」
「私が判断します」
ミナ。
「避難なら私だ」
セラ。
「設備なら、あいつらが見る」
ガルドがリクとハンスを指す。
「俺が戻るまで待つなと言ってある」
自分の名前がない日。
胸の奥が落ち着かない。
同時に、肩から何かが下りる感覚があった。蓮人は当番表の空欄を指でなぞった。
「休暇日に、町を出ても?」
「拘置は解かれた」
セラが言った。
「どこへ行く気だ」
「まだ決めていません」
「なら寝ろ」
「休暇のたびに寝るとは限りません」
「最初の三回は寝ろ」
塔の外へ出る。
収穫祭の飾りは半分だけ残っていた。濡れた布旗を子どもたちが外し、使えるものと破れたものへ分けている。共同厨房では、大鍋に塩漬け魚と硬焼きパンが入れられていた。
祭りの料理ではない。
余った食材を捨てないためのスープだった。湯気の向こうで、魚屋とパン屋が味の濃さを言い争っている。治癒院の老女が、娘に腕を支えられて日向へ出ていた。
北門では二色の線を引くため、石工が墨縄を弾く。
ぱちん。
青い粉が石畳へ一直線に残る。
町は元どおりではなかった。
元どおりに戻さないための跡が、あちこちに増えていた。
伝声石が鳴った。
蓮人は反射的に手を伸ばした。
自分のものではない。
ミナが腰の石を取る。
「北塔、ミナです」
『転移門管理所から、緊急報告』
若い男の声だった。
息が切れている。
『王都から来るはずの荷車三台が、東の廃集積場へ転移しました。負傷者二名。荷車一台が門枠へ挟まれています』
「転移先の指定は」
『ラグナ東門前です。認証札にも、そう書いてあります』
「廃集積場の門は使われていないはずです」
ノアがミナの横へ来た。
「認証札を読んでください」
管理所の男が、札の文字を一つずつ読む。
現在の地名。
ラグナ東門前。
その下に、小さな古い文字。
旧ラグナ下東継場。
ノアの表情が変わった。
「古い地名台帳に残っている名称です」
『もう一つあります』
伝声石の向こうで、紙をめくる音。
『荷主が、王都側で非公式の近道指定を追加しています。《青麦回り》』
「青麦回り?」
「昔の商人が使った経路名です」
ノアが答えた。
「正式台帳では廃止済み。でも、民間の運送札には残っている」
新しい行き先。
古い地名。
非公式の近道。
三つが一枚の認証札に書かれている。
どれを転移門が選んだのか。
なぜ、廃止された門が応答したのか。
まだわからない。
蓮人の視界に線は出なかった。現物も、台帳も、転移門も見ていない。
「負傷者の状態を先に」
ミナが管理所へ言った。
『一人は脚の骨折。もう一人は切り傷。意識あり。守備隊へ救助要請済みです』
「門の再使用は止めてください。認証札、正式台帳、民間経路票を別々に保管。書き込みや修正をしないで」
『了解』
セラはすでに伝令を北門へ走らせていた。ノアは古い地名台帳の保管場所を確認する。
ミナが蓮人を見る。
「今日は休暇日です」
当番表が、開いた塔の扉から見えていた。
今日の欄。
蓮人の名前がない欄。
「必要なら呼んでください」
「まず私たちで、わかっていることを集めます」
「期限は」
「負傷者救出を最優先。転移門は停止済み。次の報告は一刻後です」
十分な答えだった。
蓮人はうなずいた。
「では、一刻後に」
「休暇日の次の当番は、明日の朝です」
「……明日の朝に」
言い直す。
管理所から運ばれてきた認証札が、ノアの手へ渡った。
真鍮の札。
表には新しい地名。
裏には削りきれなかった古い地名。端へ、商人が青い麦の印を書き足している。三つの行き先を刻まれた札が、机の上で小さく揺れた。
かた。
北塔の留め金とは違う音だった。ノアが、監察で接収された旧台帳の束を開く。
表紙に押された廃止印の下から、《青麦回り》の文字が見つかった。旧ラグナ下東継場だけではない。北の巡礼門、西の河港門、王都地下の荷役門へ、同じ経路名から枝分かれする線が引かれている。
「非公式の近道ではありません」
ノアの指が、線の起点で止まった。
「昔の正式経路です。廃止されたあとも、別の台帳だけが参照し続けている」
別の伝声石が鳴った。
『北の旧巡礼門から報告。王都行きの旅客十二名が、こちらへ到着しました。指定先はラグナ中央門です』
東の廃集積場には荷車。
北の旧巡礼門には人。
どちらの札にも、現在の正しい行き先が書かれている。蓮人は認証札へ手を伸ばしかけ、止めた。
「現物を分けて保管。人を先に安全な場所へ。台帳の線は消さないでください」
今度は、ミナが先にうなずいた。落ちた結界の向こうで、使われていないはずの門が二つ、同時に開いていた。




