第三十九話 朝市の鐘
翌朝、市場で最初に売れたのは魚ではなかった。
氷だった。
「薄いの三枚で銅貨一枚!」
「北通りはまだ冷蔵箱が半分だ! 持って帰って桶へ入れな!」
氷屋が板氷を布で包み、列へ渡していく。魚屋は昨日売れなかった川魚を塩へ漬けていた。隣のパン屋では、発酵しすぎた生地を薄く伸ばし、硬焼きパンとして並べている。
「祭り用より安いよ!」
店主が声を張る。
「形は悪いが、スープには入る!」
子どもが一枚買い、その場で割った。
乾いた音がする。
朝市は、いつもの品揃えではなかった。それでも人は歩き、値段を尋ね、銅貨を渡していた。学校の教師が、十人ほどの子どもを二列にして市場を横切る。
校舎の北棟は結界停止中に窓を割られ、まだ使えない。午前は南棟と組合会館へ分かれ、午後は休校にして家の片づけを手伝うことになったという。
「赤い縄から出ない。帰りの合流場所は井戸前。家族が迎えに来ても、名簿へ印がつくまで列を離れない」
教師が言うと、先頭の少女が後ろへ同じ言葉を伝えた。
授業は戻った。
元の時間割ではなく、次に迷子を出さない手順ごと戻ってきた。
北塔の上で、小鐘が鳴る。
市場再開の合図。
今度は三度とも鳴った。
蓮人は通りの端に立っていた。昨日まで町を覆っていた歓迎紋はない。王都使節団の旗も、祭り広場の大照明も撤去されている。
代わりに、各店の軒先へ小さな札が下がっていた。
『北流路・半分』
『冷蔵箱・一列のみ』
『井戸水・飲用優先』
何が使えるか。
何をまだ使わないか。
誰にでも読める言葉で書かれている。
「読めないのは、お前だけだな」
セラが隣で言った。
「数字は少しわかるようになりました」
「札を逆さに持っていたぞ」
「あれは店の人が渡した向きです」
「言い訳が増えたな」
セラの左腕には、また白い布が巻かれていた。十三分の戦闘で、治りかけた傷を開いた。
剣は鞘に収まっている。
刃へ火をまとわせた術者魔力は使い切り、今日は小さな火花も出せないという。
「腕は」
「昨日より上がる」
「治癒院へ」
「行った」
「本当に?」
「確認したければ医師へ聞け」
蓮人は口を閉じた。
セラが横目で見る。
「聞きに行かないのか」
「担当者の報告を信じます」
「少し気味が悪いな」
治癒院の前では、五つの寝台に使っていた蓄魔石が日光に干されていた。一つずつ、残量と使用時刻を書いた札がついている。窓際の寝台にいた老女は目を覚まし、娘に支えられて湯を飲んでいた。
供給が戻ったから、すぐ元気になったわけではない。それでも呼吸のたびに床の光が弱くなることは、もうなかった。北塔の点検口では、リクとハンスが仮固定具を正式な部材へ替える寸法を取っている。
ガルドは二人の後ろに座っていた。
口は出す。
工具は持たない。
「そこは三分残せ」
「二分で足りる」
「熱が入ったら詰まる」
「革を厚くします」
「厚くすりゃ水を吸う」
言い合いながら、最終寸法はリクが紙へ書いた。
ガルドは消さなかった。
代官庁前には、昼前から人が集まっていた。王立監察官イザーク・ヴァレインが、調査結果を読み上げるためだ。
玄関前に机が置かれている。
その上には、三部の封印文書。切断した結晶線。警報閾値の変更命令書。そして、ガルドの革張りの手帳。
ノアが一つずつ封印を照合した。
「三部、同文です」
声は少しかすれていた。
命令原本を公開したことで、代官庁書記官としての任用は停止されている。監察が終わるまで、給与も出ない。それでも彼は机の前から退かなかった。
イザークが文書を閉じる。
「ラグナ代官バルガス・エンデルを、本日付で罷免する」
広場がざわめいた。
歓声を上げた者がいた。
黙っている者もいた。
市場の一部からは、不安そうな声が上がった。
「冬の配給は誰が決める」
「祭りの損失補償は」
「次の代官が来るまで税はどうなる」
代官一人がいなくなっても、町の仕事は消えない。バルガスは玄関の脇に立っていた。
宝石の指輪は外されている。
昨日まで彼の後ろにいた庁員は、一人もそばにいなかった。
「異議は」
イザークが問う。
「ない」
バルガスは答えた。
「命令書へ署名した。報告件数を減らせと命じた。新型冷却核の接続も、私が急がせた」
住民から罵声が飛んだ。
バルガスは顔を上げなかった。
「ただし、監察官殿」
「何だ」
「障害を正直に九件報告した年、王都は北辺予算を二割削った。故障が多い町へ新しい設備を与えても無駄だ、と」
広場が静かになる。
「翌冬、保守職人を二人減らした。蓄魔石の交換を延ばした。私は同じ査定を受けないため、報告を三件へ抑えた」
「それが住民を危険にさらした責任を消すと思うか」
「思わない」
バルガスは初めて顔を上げた。
「だが私だけを替え、査定表を残せば、次の代官も同じ数を作る」
イザークはしばらく彼を見た。
「その点も調査対象に入っている」
監察結果の続きが読み上げられる。障害報告件数を予算査定へ直接使用していた王都規則。異常を申告した職員を守る制度がなかったこと。
夜間三設備を一人で巡回させた人員配置。王都規格と辺境規格の接続試験を定めていなかったこと。停止責任者を置かず、事故後にだけ責任を求める契約。
結界庁主任は停職。
北塔の新型冷却核は、王都技師を含む再試験が終わるまで使用禁止。ラグナには、半年間の臨時監察班が置かれる。
「最後に」
イザークが蓮人を見た。
「クゼ・レント」
「はい」
「貴殿を、ラグナ辺境連環局の仮設調整官に任ずる」
聞いたことのない組織名だった。
「いま作った役職ですか」
「いま作った組織だ」
「権限は」
「設備を直接操作する権限はない。結界庁、守備隊、保守職人、代官庁の記録を横断して確認し、担当が抜けている問題を会議へ上げられる」
「停止判断は」
「ミナ・アルフェンが保持する」
「任期は」
「半年」
「勤務時間は」
イザークの眉が動いた。
「最初に確認するのが、それか」
「重要です」
「朝鐘から夕鐘。夜間呼出しは週二回まで。休暇は六日に一日」
「呼出しを断る人は」
「当番外なら断れる」
「俺も?」
「特に貴殿だ」
広場のどこかで、セラが笑った。
「条件がもう一つあります」
蓮人は言った。
「俺がいない日に、記録と判断が止まったら、任期終了前でも仕組みを見直してください」
「自分を不要にする契約を求めるのか」
「不要にはなりません」
蓮人は北塔を見る。
開いた点検口。
壁の外まで聞こえる仮固定具の音。その前で、ガルドではなくリクが作業票を書いている。
「俺にしかできない状態を、仕事の完成にしないだけです」
イザークはノアへ命じた。
「追記しろ」
ノアは新しい紙を出した。
仮設調整官。半年。勤務時間。夜間当番。休暇。代行者。終了条件。
ノアが契約文を最初から読み上げ、セラが自分の写しと一文ずつ照合する。ミナは勤務表と終了条件の数字を指で示した。蓮人は、契約書の末尾へこの国で使う署名を置き、その横へ日本語で「久瀬蓮人」と書いた。
第八話で封じた二種類の署名と、ノアが照合する。
「同一人物の署名と確認しました」
ミナは、まだ証人欄へ筆を下ろさなかった。
「契約の内容には同意します。でも、塔を接収された日に、外の確認を全部自分へ集めようとしたことは別です」
「はい」
「あなたが倒れたあとも、私たちは判断しました。その結果を見たあとで、また取り上げようとした」
広場の声が二人の間を通り過ぎる。
「すみません」
蓮人は理由を足さなかった。不安だった、間違いが怖かった、守りたかった。どれも、ミナの仕事を奪ってよい理由にはならない。
「謝ったから、すぐ許すとは言いません」
「はい」
「でも、あなたのいない日に止める権限は、私が持ちます」
「お願いします」
ミナはそこで初めて証人欄へ名を書いた。セラも隣へ署名し、筆を蓮人ではなくノアへ返した。
仲直りの印ではない。同じ仕事を続けるために、まだ残っている亀裂の位置を二人で確かめた印だった。
最後に、小さな木札が渡された。
片面に連環局の仮印。
反対側に、蓮人の名。
読めない文字を指でなぞる。
朝市の鐘が鳴った。
魚屋が塩漬けの桶を開ける。
パン屋が硬焼きパンを籠へ積む。井戸番が「洗濯用も一桶まで」と札を書き替える。鐘の四打目に重なって、北塔の点検口から、留め金の音が返ってきた。
かち。
町が動いている音だった。




