第三十七話 一つずつ戻す
青い壁が戻ったあとも、誰も歓声を上げなかった。
結界は町を覆っている。
ただし、南塔と蓄魔炉だけで支える最低出力だった。半球の表面は祭りの煙が残る空を透かし、薄いところでは雲の影が見えた。つい先ほどまで魔獣を直接防いでいた守備隊は、城壁から下りずに槍を構えている。
「南塔出力、六割」
エドの声が伝声石から届く。
「蓄魔炉、残量二割一分。現状維持なら五十分」
ミナが復唱し、ノアが記録する。北塔の炉室には、夜の匂いが残っていた。
焼けた絶縁布。切断した結晶線。濡れた石。そして、冷え始めた銀の冷却核から漂う金属の甘い匂い。
床には、再起動の順序を書いた紙が並べられている。
第一段階。警報系統。
第二段階。冷却環。
第三段階。北塔の結界律式。
第四段階。生活流路。
すべての段階で、二人が現物を確認する。一つでも合わなければ、次へ進まない。
「警報鐘、手動試験」
ミナが言った。
鐘楼にいるセラが、短く答える。
『実施する』
大鐘が一度だけ鳴った。
眠っていない町の屋根を、低い音が渡っていく。北門では赤い旗が上がり、南門では守備隊員が確認用の鏡を掲げた。
『北門、受信』
『南門、受信』
『市場、聞こえた!』
『治癒院、受信しました』
異常を知らせなかった鐘が、今は試験の一打を町じゅうへ届けた。
「警報系統、完了」
ミナは自分で記録板へ印をつけた。主任が立っていた操作台の端へは目を向けない。現場から返った四つの声を復唱し、手元の基準へ指を置いてから、完了印を押した。
「次、冷却環」
旧水輪は、昨夜交換した接合具につながっている。新型冷却核は切り離され、銀色の表面へ封印布が巻かれていた。ガルドが水輪の軸へ金属棒を当てる。
反対側にはリクが立った。
「入口弁、四分の一」
ミナが指示する。
ハンスが弁を開く。
水が流れ込んだ。
止まっていた輪が、ゆっくり回り始める。
ごう。
一度だけ、低い音。
そのあとに、水をすくう羽根の音が続いた。
ざぶん。
ざぶん。
ガルドは目を閉じて聞いている。リクも、自分の棒へ耳を当てていた。
「軸、引っかかりなし」
リクが先に言う。
「入口側もねえ」
ガルドが答えた。
「ハンス」
「接合部、漏れなし。点検口の内側も乾いてる」
「入口圧、十八。出口、十七。冷却灯、青」
壁の青い灯が点いた。
炉室の全員が、それを見た。
誰も、青いから安全だとは言わなかった。ガルドは音を聞き続け、ハンスは布を接合部へ当て、ミナは入口と出口の数値を読み続ける。
三十数えた。
「冷却環、低出力で安定」
第二段階が終わった。
塔の外では、生活流路の再開を待つ人々がいた。市場の魚屋は溶けかけた板氷を桶へ集め、共同厨房では発酵しすぎたパン生地を焼く順番でもめている。井戸前には空の水瓶が並び、治癒院の裏口では蓄魔石を運び終えた荷車が泥に車輪を取られていた。
結界が戻れば、町の暮らしが一度に戻るわけではない。
『治癒院から確認』
伝声石が鳴った。
『生命維持床の蓄魔が残り一割。再供給の見込みを知りたい』
蓮人は答えようとした。
声を出す前に、ミナが記録板を確認する。
「北塔起動後、最初に治癒院流路を戻します。見込みは半刻後。ただし北塔が起動しなければ、南塔からの臨時供給を継続します」
『了解。半刻分の手動補助を準備する』
必要な情報だけが行き来した。
蓮人は口を閉じた。
頭の奥に、線は見えない。見ようともしていなかった。
「第三段階へ移ります」
ミナが言った。
北塔の結界律式を、全体へつなぐ前に単独で起動する。北塔が受け持つ北壁の区画は、現在も南塔から迂回供給されている。切り替えの瞬間も壁を消さないよう、二つを短時間だけ重ねる手順だった。
「北壁、重複供給準備」
セラが城壁上で兵を下げる。
『住民、北壁から退避済み。守備隊は二十歩後退。開始していい』
「南塔、迂回維持」
『維持する』
「北塔、起動紋を受理させます」
ミナが手を置いた。
赤い確認灯が点く。
操作を受け付けた色。
次に、青い冷却灯。
そこまでは手順どおりだった。
「北塔律式、第一環を起動」
石柱に刻まれた紋へ光が入った。
下から上へ、一つ。
二つ。
三つ。
途中で止まった。
北壁へ伸びるはずの光は、炉室の天井まで届かない。
「第一環、出力は」
蓮人が尋ねた。
「入力、三十二」
ミナが確認石を見る。
「出口、ゼロ」
「警報は」
「なし。赤の警報灯、消灯。確認灯は点灯したままです」
操作は受理された。
冷却も動いている。
だが、結界律式へ出力が届かない。
「いったん停止」
ミナが言った。
誰も反対しなかった。
確認灯が消える。
北塔の紋も暗くなった。
「もう一度やれば」
結界庁の術師が言いかける。
「再実行はしません」
ミナは答えた。
「最初と条件が変わっていない。繰り返しても、同じ場所へ負荷をかけます」
術師は黙った。
「南塔、迂回継続できますか」
『一刻なら』
エドの声に疲れが混じっている。
『それ以上は、南塔側の冷却が上限へ近づく』
「治癒院への供給は」
『臨時線を使えば戻せる。ただし市場と井戸は同時に無理だ』
伝声石の向こうから、別の声が割り込んだ。
『井戸は待てる!』
水番だった。
『飲み水は昨日くんだ分がある。洗濯と浴場を止めれば、昼まで持つ』
『市場も冷蔵箱を一列だけでいい』
商人組合長が続く。
『魚は塩に回す。パンは今日中に焼けば売れる』
町の側で、待つ順番が作られていく。以前なら、それを代官庁が命令していた。今は、自分の現場を知る者が、何を止められるかを答えている。
「治癒院を先に戻してください」
ミナが決めた。
「井戸は昼までの残量を一刻ごとに報告。市場は冷蔵箱一列。増設は北塔復旧後に判断します」
返事が重なった。
蓮人は北塔の石柱を見上げた。さっきまで光が三つ点いていた場所。黒い石の表面に、何の痕跡も残っていない。
「入口までは来ている」
ガルドが水輪の音を聞きながら言った。
「だが、上へ抜けてねえ」
「壁内流路でしょうか」
リクが問う。
「決めつけるな」
「じゃあ、どこから見ます」
ガルドはすぐに答えなかった。工具袋から三本の金属棒を出す。
一本をリクへ。
一本をハンスへ。
最後の一本を自分で持った。
「音が消えた場所を探す」
ミナは北塔の古い図面と、新しい運転記録を床へ広げた。
蓮人の方を見ない。
線を見せてほしいとも言わない。
「第一環の入口から、区画ごとに確認します」
彼女は言った。
「わかったことだけ、ここへ置いてください」
北塔の外で、朝市の開始を告げる小鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度目は、鳴らなかった。
鐘番が、再開延期の札を軒先へ下げた。町の南半分に灯が戻っていく。北塔だけが、朝の中で黒いまま残った。




