第三十六話 壁のない十三分
北の空から、青い壁が消えた。
砕ける音はしなかった。
光が薄くなり、向こう側の森が見えただけだ。結界があるときも見えていた森なのに、セラには木々が急に近づいたように感じられた。
「北塔停止を確認!」
城壁の見張りが叫ぶ。
「第一線、弓構え! 第二線は術者を守れ! 北門は閉鎖、東小門を避難専用とする!」
セラは城壁の中央に立った。
北側結界がない時間は、十三分。塔の交換作業が予定どおり終われば、だ。
伝声石を耳へ当てる。
『物理弁、閉鎖確認』
ミナの声。
『残留魔力、白灯二。まだ接合を外せねえ』
ガルドの声。
「城壁、結界消失。北林に動きあり。作業開始時刻を記録」
『記録した』
ノアが答える。
『一分ごとに全回線へ知らせます』
森の縁で、黒い影が動いた。
一頭。
二頭。
低い体に長い前脚。最初の結界消失時にも現れた鉤爪狼だ。
「弓、まだ撃つな」
弓兵たちの弦が鳴る。
結界がないだけで、距離の感覚が狂う。早く撃てば森の手前で矢を使い切る。
「第一標まで引きつける。赤杭を越えた個体だけ狙え」
城外の街道には、昼のうちに色付きの杭を打ってあった。危険を確定してから準備したのではない。止める可能性があると決めた時点で、射程と退路を測った。
『一分経過』
ノアの声。
北塔の排熱窓では、白い残留灯が二つ光っている。
『白灯、一』
ガルドの声が続く。
『冷却環の中に水と魔力が残ってる。白灯が消えても、音が止まるまで外さねえ』
「了解。次の見込みは」
『二分以内。保証はしねえ』
「二分後に再報告」
セラは理由を問い直さなかった。いま必要なのは、遅れのすべてを理解することではない。城壁が何分持てばよいかだ。
赤杭を、最初の鉤爪狼が越えた。
「放て!」
十本の矢が飛ぶ。
三本が外れ、四本が胴へ刺さり、残りは地面へ落ちた。獣は倒れず、そのまま城壁へ走る。
「二射目!」
別の狼が森から出る。
さらに三頭。
見張りが北東を指した。
「大牙猪、二! 後方に角持ち!」
角持ち。
魔力の流れへ反応して群れを導く個体だ。結界停止そのものより、停止直前に放たれた歓迎紋の強い魔力を追ってきた可能性がある。
「城外誘導班は戻ったか」
「最後の二名、北畑を通過!」
「戻り次第、小門を閉じろ。外に人が残っていないことを二人で確認!」
『二分経過』
ノアの声と同時に、治癒院から回線が入る。
『生命維持床、独立蓄魔へ切替完了。ただし第三床の出力が安定しません』
治癒院の術師が早口で報告する。
「患者の状態は」
『呼吸補助が断続的です。南塔から迂回供給を戻せば安定します』
「北塔再起動前の接続は禁止だ。手動補助は」
『二人必要です。いま一人しか空いていません』
セラは城壁の配置を見る。
術者を一人抜けば、北東区画の局所防御が薄くなる。
「第三班のリーネを治癒院へ。北東は私が入る」
「副隊長、指揮は」
「伝令長が全体配置を継続。角持ちが赤杭へ到達、または負傷者五名で第二線後退だ」
命令を渡し、セラは北東階段へ走る。
腰の剣を抜いた。
刀身へ赤い光が細くまとわりつく。都市結界は止まっている。だが、剣に刻まれた律式は、柄の蓄魔片を起点に、セラ自身の魔力を刃の周囲だけで熱へ変える。
大きな壁は作れない。
遠くへ炎を飛ばし続けることもできない。それでも、目の前の一頭を止める火は残る。
「北東班、私の剣へ合わせろ! 術者は一回ごとに状態報告!」
最初の鉤爪狼が城壁下へ届いた。
爪が石をかく。
セラは胸壁から身を乗り出し、剣を振る。炎の筋が獣の前脚を打ち、石壁から引き離した。
刀身の赤が弱くなる。
一度で、柄の蓄魔片を四分の一使った。
「副隊長、右!」
別の狼が排水口へ跳ぶ。
槍兵が突き落とす。弓兵の矢が首へ刺さった。
『三分経過。北塔、白灯消失』
『残留音も停止。接合を外す!』
ガルドの声の後ろで、金属を打つ音が続く。
『固定具三本目、台座ごとねじれてる』
リクの声。
『切れば新しい環を固定できません』
「必要なものは」
『工具を使える補助一人。旧環の経験があればなおいい』
セラは塔前の待機名簿を見る。
「ハンスの兄弟子を入れろ。経験は旧環三回。入塔時刻を記録。わからない箇所はガルドへ聞け」
『了解』
『四分経過』
祭り広場から、避難担当の報告が入る。
『北半分、残り百二十。酒場主が樽を運び出そうとして西路を塞いでいます』
「荷車へ積ませろ。ただし子どもの通路を塞いだら置かせる。商人組合長を判断者に」
『了解』
全員が納得して避難しているわけではない。不満も、損失も、怒りも一緒に東へ動いている。北門前では、避難を拒む老人が城壁を見上げていた。
「ここで生まれた。魔獣くらいで逃げられるか」
守備隊員が困っている。
近所の少女が老人の袖を引いた。
「おじいちゃん、私が怖いから来て」
老人は少女を見る。
「仕方ない」
二人で歩き始める。
『五分経過。祭り広場北半分、避難完了』
北東の赤杭を、角持ちが越えた。鹿に似た胴へ、枝分かれした黒い角。周囲の鉤爪狼が、散らずに一つの群れとして進んでくる。
「第二線、前へ!」
セラは伝声石を取る。
「角持ちが第一標を通過。予定どおり北東へ戦力追加。北塔、作業状況」
『旧環、取り外し中。台座のずれを修正してる』
「再起動見込みは」
『まだ出せん』
保証を迫っても、時間は縮まらない。
「次の報告を一分後。城壁は維持する」
角持ちが頭を下げた。
黒い角の間に、紫の光が集まる。
「伏せろ!」
光が城壁へ走った。
石が弾ける。
兵士二人が倒れた。セラの耳から音が消え、遅れて高い耳鳴りが来る。
「負傷者!」
「二名! 一人は立てます!」
「立てる者も後送! 人数をごまかすな!」
セラは剣の柄を握る。
残りは半分。
局所律式を広くすれば、角持ちまで届く。だが一度で蓄魔片を使い切り、自分の魔力も削る。次の群れに対応できなくなる。
「弓兵、角ではなく前脚を狙え! 倒す必要はない。進路を曲げろ!」
矢が飛ぶ。
角持ちの肩と脚へ刺さる。獣は止まらず、わずかに西へ向きを変えた。
「西班、油壺!」
地面へ油が投げられる。
セラは剣先を下げ、足元だけへ火を走らせた。
油が燃える。
城壁前に、三十歩ほどの赤い線ができる。鉤爪狼が火を避け、群れの形が崩れた。
「いま撃て!」
弓と槍が、一頭ずつを止める。
『六分経過』
治癒院の報告が入る。
『第三床、手動補助へ移行。独立蓄魔、残り六割。二十数えごとに交代します』
「患者本人の呼吸も見ろ。灯だけを見るな」
『確認しています。十三分は維持できます』
『七分経過。北塔、旧環取り外し完了』
伝声石から、金属環を木枠へ下ろす音が響いた。
『旧規格の補修環を載せる。接合面、傷なし』
「確認者は」
『リクとハンス。流路幅一致。右下に補修跡あり、流路外』
「作業続行」
『八分経過。北東城壁、負傷者四。治癒院、独立運転継続。避難対象、残り北通り二十七名』
ノアの声がすべてを同じ重さで読む。
英雄の報告ではない。
町の別々の場所で、別々の人間が持ち場を守っている記録だった。
塔側の回線で金属が揺れた。
『止めろ。左が浮いてる』
『板をかませますか』
『熱で縮む』
若い職人の声が割り込む。
『旧環の焼けていない外縁を切って、座金にできます』
『元へ戻せなくなるぞ』
短い沈黙。
ガルドが答えた。
『戻すために残したんじゃねえ。次を動かすために外した。やれ』
『九分経過』
角持ちが二度目の光を集めた。セラの剣は、あと一度なら燃える。
「全員、胸壁から離れろ!」
今度は門扉の蝶番を狙っている。
撃たせれば、北門が開く。
セラは階段を下り、門の外側へ通じる狭い射出口へ走った。
「副隊長、どこへ!」
「近い方が、少ない魔力で届く」
射出口の鉄板を開く。
角持ちの目が見えた。
怖くないわけではない。
確実に倒せる距離でもない。
中止条件は一つ。剣の火が刀身を越えて腕へ戻ったら、術を切る。セラは自分の魔力を柄へ流した。
赤い光が刃を包む。
都市結界からの支援はない。術者一人分の、小さく短い火。
剣を突き出す。
炎が角持ちの顔ではなく、角の間に集まった紫光へ触れた。
熱と魔力がぶつかる。
赤い光が腕へ逆流した。
中止条件。
セラは即座に柄から手を離す。
紫光が外側へ破裂した。
角持ちがよろめく。
「放て!」
城壁上から矢が降った。
獣は倒れない。
それでも森側へ向きを変えた。群れの半分が、その後を追う。
残りは城壁下にいる。
『十分経過。北塔、即席座金を固定』
『接合、入口よし』
『出口よし』
『補助流路、閉』
ガルドの声がミナを呼ぶ。
『水を入れる。最初は一割だ』
『漏れがあれば即時閉鎖。出口温度差二で中断。音の確認者はガルドさんとリクさん。開始してください』
物理弁が開く音。
水が新しい環へ入る。
伝声石から低い音がした。
誰も正常とは言わない。
『漏れなし』
『出口、水あり』
『泡音なし』
『十一分経過』
北通り最後の住民が東小門を通過した。直後、城壁下の鉤爪狼が排水口へ前脚をかける。
「槍!」
届かない。
セラは剣を拾う。
柄の蓄魔片は暗い。自分の魔力も、もう大きな火にはできない。刀身へ残った熱だけを、刃の縁へ集める。
炎ではなく、赤い線が一筋。
排水口から入った爪を切る。
獣が後退したところへ、槍が届いた。
セラは壁へ肩をついた。
「負傷者数」
「四名のまま!」
「門の損傷」
「蝶番上部に亀裂。開閉可能!」
「北塔」
『冷却水、一割で安定』
ミナの声。
『二割へ上げます』
「急ぐな」
セラは言った。
「十三分を越えても、城壁は持たせる。確認を飛ばすな」
『了解』
『十二分経過』
冷却環、二割。
入口圧、上昇。
出口温度、変化なし。
『音は朝と同じだ』
ガルド。
『リクさん』
『同じです。引っかかりなし』
『三割へ』
北塔の炉心に、細い青が戻った。
まだ結界はない。
律式へ魔力を流す前に、冷却環だけを安定させなければならない。
『三割、維持。北塔より全区画。冷却環交換完了。冷却運転三割、漏れ・異音なし。結界再起動はまだ行いません。次の確認まで三十』
城壁に歓声は起きなかった。
森にはまだ魔獣がいる。
治癒院の蓄魔も減っている。
負傷者も、壊れた門も、失われた祭りの商品もある。直ったとは、まだ誰も言えない。
『十三分経過』
ノアの声が町へ届いた。
北の空には、壁がない。
その向こうで、退いた角持ちが森の縁からこちらを見ていた。セラは熱を失った剣を構える。
「十三分だ」
隣の兵士が言う。
「ああ」
「結界は」
「まだだ」
北塔の青い光が、一度だけ強くなった。そして再起動紋へ届く直前で、止まった。
『十三分二十。南塔から提案』
エドの声が割り込んだ。
『北塔を切り離したまま、南塔と中央蓄魔炉を仮接続できます。北側は四割。角持ちの直撃を一度止める程度です』
「代償は」
『蓄魔炉を三分の一使います。現状なら一刻半もつところが、五十分まで落ちる。北塔の復旧が遅れれば、治癒院の独立蓄魔を再充填できません』
壁を戻すほど、次に残す時間が減る。セラは城壁下の負傷者と、森へ退ききらない角持ちを見た。
「治癒院の現在残量」
『生命維持床、あと四十五分。手動補助を続ければ一刻』
「南塔の操作確認者は」
『私と副塔術師。蓄魔炉側は炉番二名』
「仮接続を実施。北塔は再起動しない。南塔六割、北側四割を上限。治癒院の独立蓄魔が三割を切るか、南塔出口差が二を超えたら切り離す」
『了解。仮接続、開始』
『十三分四十二』
ノアが時刻を読んだ。
南の塔から伸びた青い光が、中央炉を経て北の空へ回り込む。
薄い壁が戻った。
角持ちが角を振り上げる。紫光は壁へ当たり、表面を大きくへこませた。青い膜は破れず、波打ちながら元へ戻る。
歓声は上がらない。
この壁が五十分しかもたないことを、全回線が同時に聞いていた。北塔の再起動紋は暗いままだった。




