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俺に魔法は使えない。でも、なぜ王国の結界が落ちたのかは説明できる  作者: pj.masta


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第三十五話 原本を読む声

三度の鐘を、祭りの演出だと思った者がいた。


 空にはまだ王家の紋章が残っている。露店では肉が焼かれ、楽隊は曲の途中だった。子どもたちは鐘の数より、光の獅子が空を歩く姿を見ていた。


「北区画の方は、東通りへ移動してください!」


 守備隊員が叫ぶ。


「走らないでください! 祭り広場の中央を空けます!」


 最初に動いたのは、事前説明を聞いていた商人たちだった。屋台の火を落とし、荷車を壁際へ寄せる。だが、すべての店が従ったわけではない。


「また試験だろう!」


「昨日も鐘を鳴らしたじゃないか!」


「魚を外へ出したら腐る。損を誰が払う!」


 北へ向かおうとする者と、露店の商品を守ろうとする者がぶつかる。守備隊が道を空けても、理由が伝わらなければ人は動かない。代官庁の張り出し台へ、衛兵が上がった。


「代官閣下より告知する! 北塔は正常に稼働している。現在の鐘は、権限を持たない補助術師による誤報である。住民は混乱せず、祭礼を継続せよ!」


 ざわめきが広がる。


 避難しろという守備隊。


 異常なしという代官庁。


 両方に公の印がある。


 ノアは広場の端で、三つの封印筒を抱えていた。


 一部は代官庁保管。


 一部は守備隊保管。


 一部は王立監察官へ直接提出。同じ原本から作り、同じ封蝋を施した。どれか一つだけを書き換えれば、残り二つと一致しなくなる。


 その仕組みを作ったとき、ノアは書記官の職務だと言った。職務には、公開する権限まで含まれていない。


「ノア・リューデン」


 代官庁の上席書記官が前へ立った。ノアを採用し、仕事を教えた男だった。


「その筒を渡せ」


「王立監察官への提出物です」


「提出前の文書は代官庁の管理下にある。いま開封すれば、封印文書の不正開示になる」


「代官庁の告知と、記録された事実が一致していません」


「それを判断するのはお前ではない」


 上席書記官は声を落とした。


「ここで退け。まだ間に合う。筒を渡せば、鐘に驚いて命令を誤解したことにできる」


「渡したあとは」


「正式な報告手順へ戻す」


「北塔が戻るまで、封印したままですか」


「必要ならな」


 必要かどうかを決めるのは、記録される側だ。


 ノアは台上の衛兵を見る。主任の命令で筆を止めた日のことを思い出した。書くなと言われ、書き終えた行だけは消さなかった。


 あのときは、命令にも記録にも、完全には背かなかった。


 今日は同じ場所に立てない。


「開封すれば、臨時書記官の任を解く」


 上席書記官が言う。


「官吏登用試験の推薦も取り消す。代官文書の不正持ち出しとして告発されれば、今後どの領でも公職には就けん」


 ノアの指が封印筒へ食い込んだ。


 十九歳。


 身分も後ろ盾もない。書記官の席を失えば、代わりはいくらでもいる。正しい記録を残すために学んだ文字で、二度と仕事ができなくなるかもしれない。


「中立でいろ」


 上席書記官が言った。


「どちらにも加担するな」


 広場の向こうで、母親が二人の子どもの手を引いていた。一人は避難路へ進み、もう一人は空の紋章を見て立ち止まる。


「北塔は正常だそうだ」


「でも鐘が三回鳴った」


「代官が大丈夫だと言っている」


「前にも大丈夫だと言った」


 住民は、判断するための事実を持っていない。


 強い声を選ぶしかない。


「私は、中立でした」


 ノアは言った。


「主任が書くなと言えば筆を止め、正式請求がなければ資料を出さず、命令と事実が食い違っても、両方を同じ紙へ置くだけでした」


「それが書記官だ」


「違います」


 封印筒を抱え、張り出し台へ歩く。


「強い人の言葉だけが先に届く場所で、黙ることは中立ではありません」


 衛兵が道を塞いだ。


 セラの部下と、代官庁衛兵が向かい合う。剣は抜いていない。だが、どちらか一人が手をかければ、避難の最中に町の兵同士が争う。


「通してください」


 ノアは言った。


「命令だ。筒を渡せ」


「拒否します」


 声は小さかった。


 それでも、近くにいた者には聞こえた。


「王立監察官への提出物を、市民の前で開封します。処分記録には、私が自分の判断で行ったと書いてください」


 上席書記官が目を閉じる。


「愚か者が」


「はい」


 ノアは答えた。


「たぶん、そうです」


 守備隊員が半歩だけ横へ動き、人一人分の道を作った。


 張り出し台へ上がる。


 空の紋章は端から揺らぎ始めていた。ミナが歓迎紋の負荷を落としている。


 ノアは三本の筒のうち、守備隊保管分を掲げた。封蝋に刻まれた印を、集まった者へ見せる。


「これは北塔調査資料の写しです。代官庁、守備隊、王立監察官用の三部を、同じ内容で封印しました。いま、守備隊保管分を開けます」


 短剣で封蝋を割る。


 乾いた音がした。


 それだけで、帰る場所が一つ消えた。


「六か月前の命令書。北塔警報適正化工事」


 羊皮紙を広げる。


「北塔の警報件数を月三件以内に抑えること。迎賓館監視環の運転信号を、北塔確認灯へ接続すること。工事責任者、結界庁主任。承認者、ラグナ代官バルガス・エンデル」


 広場の声が止まる。


「次に、直近六年の予算記録。障害件数が少ない設備は、保守費を削減する。障害件数が増えた領は、重点監察、責任者処分、領格の見直し対象とする」


「嘘だ!」


 代官庁衛兵の後ろから声が飛ぶ。


「書記官が勝手に書いた!」


 ノアは二本目の筒を上げる。


「同じ原本を、王立監察官用にも封印しています。内容が違う場合、照合できます」


 今度は商人が叫んだ。


「警報を隠したせいで祭りが止まるなら、代官が損を払え!」


「いまは金の話じゃない!」


「お前は魚を腐らせないから言える!」


「子どもを先に出せ!」


「北通りはもう詰まってるぞ!」


 事実を出しても、全員が同じ結論にはならない。


 代官を罵る者。


 ノアの文書を疑う者。


 祭りを続けろと叫ぶ者。


 昨日の結界消失を思い出し、黙って避難を始める者。商人組合長が荷車へ上がった。


「冷蔵箱を止める! 魚と肉は板氷倉へ運べ! 代金の話はあとだ!」


「組合長、全部は入らない!」


「高い品から入れたら喧嘩になるぞ!」


「治癒院、子ども、共同食堂の順だ! 店の値札で順番を決めるな!」


 反発の声が上がる。


 それでも数台の荷車が動いた。


 パン職人たちは炉の火を落とし、焼きかけの生地を外へ出す。宿屋の主人は客を広場から東通りへ誘導した。一方、酒場の前では店主が樽を運び出そうとして避難路を塞ぎ、守備隊員と怒鳴り合っている。


 協力は美しくそろわない。


 それでも、少しずつ道が空く。伝声石から、セラの声が響いた。


『祭り広場、東側の移動開始。北通りは使うな。子どもと歩けない者を先に出せ。商人組合は荷車を西壁へ寄せろ』


 ノアは次の紙を開く。


「昨日の新型冷却核強制接続について。旧副塔の散水試験失敗は、交換命令の添付資料から除かれていました。接続は八割出力で開始。北塔の停止紋は、王都認証により受理されませんでした」


 結界庁主任が台の下へ来る。


「読むのをやめろ!」


「操作した術師六名の証言があります。全員、命令者と開始出力について同じ内容を述べています」


「町を守るための判断だった!」


「その判断も読みます」


 ノアは主任を見た。


「理由を隠しません。結果だけで悪人にもしません。ただし、失敗記録を除いたことも、命令より先に交換準備を進めたことも、同じ紙に残します」


 主任は台へ上がらなかった。


 正面から反論するには、原本を否定しなければならない。原本を否定すれば、監察官用の封印と照合される。


 空の王家紋が消えた。


 祭り広場に影が落ちる。


 人々が空を見上げる。


 北塔から伝声石の一斉回線が開いた。


『歓迎紋、停止。北東高負荷流路、切断完了』


 ミナの声だった。


『出口温度差、戻りません。冷却流、停止継続。予定どおり北塔を全停止します』


「やめろ!」


 バルガスが張り出し台の下から叫んだ。


「王立監察官が到着するまで待て!」


 広場の南から、別の声がした。


「すでに聞いている」


 黒い外套を着た男が、使節団の護衛を伴って立っていた。王立監察官イザーク・ヴァレイン。彼はノアではなく、三部目の封印筒を見ている。


「その封印は、私宛てだな」


「はい」


「開封せず、こちらへ渡せ」


 ノアは台を下り、筒を両手で差し出した。


 イザークは封蝋を確認する。


「守備隊保管分を公開した責任は、のちほど問う」


「承知しています」


「代官庁が発した拘束命令も確認する」


「はい」


「だが、いまは避難を妨げるな。私の護衛も守備隊指揮下へ入れる」


 バルガスが息をのむ。


「監察官殿、補助術師の判断だけで王都使節を――」


「運転信号だけで安全だというなら、現場値を示せ。正常でない可能性があるなら、使節も住民と同じ道を歩かせろ」


 イザークは北塔を見る。


「説明は、結界が戻ったあとで聞く」


 広場の鐘楼で、セラが腕を上げた。


 一度目の鐘。


 北塔停止まで百。


 二度目。


 城壁班が配置へつく。


 三度目。


 治癒院が独立蓄魔へ切り替わる。


 ノアは割れた封蝋を拾った。


 元へは戻らない。


 それでよかったとは、まだ思えなかった。明日から何をして生きるのかもわからない。だが、避難路を進む母親が、途中で一度だけ振り返った。


「読んでくれて、ありがとう」


 その後ろから、別の男が吐き捨てる。


「お前らがもっと早く読んでいれば、こうはならなかった」


 どちらも正しかった。


 ノアは返事をしなかった。


 北塔の青い光が細くなる。


 ミナの声が、町じゅうへ届いた。


『北塔停止。結界消失まで、十』


 城壁の上で、守備隊が剣を抜く。


『九』


 治癒院の窓から、蓄魔灯が一つずつ点いた。


『八』


 北塔の排熱窓に、ガルドたちの影が動く。


『七』


 ノアは新しい記録板を開いた。官吏でなくなっても、書くことまでは奪われていない。

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