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第三十話 俺がいない方が

蓮人が目を覚ましたとき、窓の外は暗かった。


 治癒院の個室。


 頭の奥に鈍い痛みがある。


 視界に線は見えない。


「北塔は」


 最初に出た言葉が、それだった。寝台脇に座っていたセラが、ため息をつく。


「安定している」


「流路圧は」


「知らん」


「出口温度」


「知らん」


「南塔は」


「つながった」


「どういう手順で」


「寝ろ」


 蓮人は起き上がろうとした。


 腕に力が入らず、枕へ戻る。


「確認しないと」


「誰が?」


「俺が」


「なぜ」


「全体の影響を」


 セラは机から一冊の記録を取った。


 ノアが書いた復旧記録だ。


「読めるか」


「読めません」


「ならミナが明朝、必要なところを説明する。いまは寝ろ」


「明朝では遅いかもしれない」


「何に」


 答えられない。


 何かが起きるかもしれない。


 何かを見落としているかもしれない。具体的な危険ではなく、不安そのものに急かされている。セラが水を取りに立った隙に、蓮人は記録へ手を伸ばした。


 腕に力が入らず、指先が表紙へ触れただけで床へ落ちる。


 乾いた音が、個室に響いた。


「何をしている」


「読むのではなく、時刻だけでも」


「文字を読めないだろう」


「印の数ならわかります」


 セラは記録を拾った。机へ戻さず、扉の外にいる兵士へ渡す。


「預かっておけ」


「隠す必要は」


「お前から記録を守っている」


 蓮人は言い返そうとした。喉まで出たのは、自分が責任者だという言葉だった。正式に任命された覚えはない。


 調査条件を作り、役割を分けただけで、全記録を所有する権限まで得たわけではなかった。


「町の灯は」


「半分戻った」


「治癒院」


「五床すべて安定」


「旧副塔」


「冷却完了」


「銀の冷却核」


「切り離して封印した」


「誰が判断を」


「それぞれだ」


 セラは、復旧の流れを短く話した。


 ミナが南塔再接続。


 ガルドたちが残留確認。


 商人組合が段階再開。


 ノアが記録。


 守備隊が配置調整。


「俺がいない間に」


「そうだ」


「問題なく?」


「小さな問題は山ほどあった」


「なら」


「各担当が処理した」


 胸の中に、安堵とは違う感情が生まれた。


 自分がいなくても進んだ。


 それは目指していたはずの状態だ。なのに、自分が不要になったように感じる。


「俺がいない方が、進むんですね」


 自嘲のつもりだった。


 セラは笑わなかった。


「今日のお前ならな」


「市場で何があったんです」


「明日聞け」


「小さな問題が山ほどあったと言いました」


「それぞれ処理した」


「処理したという報告だけでは、妥当だったか確認できない」


「また確認する気か」


「振り返りは必要です」


「振り返りと、寝台から記録を奪うのは違う」


 線を引かれた。


 蓮人は理解した。しかし、胸の奥の不安は理解に従わなかった。


 言葉が刺さる。


「全部を自分へ集め、他人の判断を止め、倒れる。そんな調整官はいない方がいい」


「厳しいですね」


「魔獣より手ごわいからな」


 セラは少し声を落とした。


「だが、お前が決めさせた役割と基準があったから、皆が動けた。いなかったから進んだのではない。いない時間にも進めるものを、お前たちが作った」


「俺たちが」


「ミナが修正し、ガルドが教え、ノアが書き、商人たちが代替を作った。お前だけの成果でもない」


 痛みのある言葉だった。


 同時に、救われる言葉でもある。


「エドさんに、ひどい言い方をしました」


 蓮人は天井を見たまま言った。


「最初の七回を止められなかったのかと」


「聞いた」


「ミナさんにも、判断材料を整理したのは俺だと」


「それも聞いた」


「報告が早いですね」


「お前が倒れた理由を医師へ説明するためだ」


 能力を使いすぎた、だけでは足りない。報告を疑い、他人の判断を止め、自分へ仕事を戻そうとした。その結果として倒れた。


「謝ります」


「明日、自分で言え」


「許してもらえるでしょうか」


「知らん。謝罪は相手を許させる手順じゃない」


 直したいと思った瞬間にも、結果を先に求めている。蓮人は毛布の縁を握った。


「次から、何をすれば」


「まず眠る」


「その次です」


「全部を見るな」


「見落としが」


「見落とさない仕組みを作れ。お前の目を増やすな」


 前世では、見落としが起きるたび、自分の確認項目を増やした。


 会議に出る。


 報告を読む。


 承認を自分へ集める。


 最後には、蓮人が見られる量を仕事全体が超えた。それでも、もっと見ようとした。


「わかりました」


「本当に?」


「たぶん」


「信用できん」


 扉が開き、ミナが入ってきた。手には記録板ではなく、湯気の立つ椀がある。


 蓮人は彼女の顔を見た。


 北塔で最後に交わした言葉を覚えている。


『何のために私を停止判断者にしたんですか』


 答えられないまま倒れた。


「起きていたんですね」


「北塔の説明を」


「明日の朝にします」


 セラと同じ答えだった。


「いま必要な情報だけでも」


「北塔は安定。警報灯は青。停止基準への到達なし。次の判断時刻は朝鐘です」


 短い。


 それで十分だった。


「質問は?」


 ミナが尋ねる。


 蓮人は多くの質問を思いついた。


 南塔の圧力差。


 旧副塔の冷却時間。


 市場の再開順。


 銀輪の封印方法。


 全部、いま知らなくていい。


「ありません」


 ミナの肩から力が抜ける。


 その表情を見た途端、別の質問が口から出た。


「手順を変更しましたか」


 ミナの顔が固くなった。


「市場の再開手順を一度修正しました」


「事前に決めたものを?」


「私の指示が曖昧で、箱が二台動きました。停止基準で止め、番号指定に変えました」


「北塔への影響は」


「七十五で停止。修正後は七十三」


「ほかの流路との同時起動は」


 セラが椅子を鳴らした。


 止める合図だった。


 ミナは椀を机へ置く。


「必要な情報だけ、と言ったのはレントさんです」


「だから、次の判断に必要かを」


「いまのレントさんの次の判断は、食べて眠ることです」


 声は穏やかだったが、北塔での距離が残っている。


「私の判断を任せたあとで、一つずつ取り上げないでください」


「取り上げるつもりは」


「つもりではなく、そうなりました」


 蓮人は謝ろうとした。


「でも、事故を防ぐには」


 先に弁解が出た。


 ミナは返事をしなかった。匙を椀の横へ置き、明朝の報告時刻だけ告げる。関係は、手順のように一度の修正で戻らなかった。


「すみませんでした」


 蓮人は言った。


 ミナはすぐに答えない。


「何についてですか」


「判断を渡したと言いながら、俺が確認できないことを理由に止めようとしたこと。あなたの判断を、俺の成果の一部みたいに言ったこと」


「エドさんにも言ってください」


「はい」


「それから、私はまだ怒っています」


「はい」


 そこで会話は終わった。


 謝罪を受け取ったことと、関係が戻ることは別だった。


「では食べてください」


 椀には柔らかく煮た麦と野菜が入っていた。蓮人が匙を取ると、ミナとセラが見ている。


「監視ですか」


「拘置対象だからな」


 セラが言う。


「調整官の体調確認です」


 ミナが言う。


 蓮人は最初の一口を食べた。


 温かかった。


 廊下で紙をめくる音がした。


 預けられた復旧記録だ。


 蓮人の手が、無意識に毛布の外へ出る。立ち上がれば届く距離ではない。そもそも、立ち上がれない。


 手を戻すまでに、三度呼吸が必要だった。夜半、蓮人は一度だけ寝台を抜けた。水を飲むためだと自分へ言い聞かせ、壁へ手をついて廊下へ出る。


 記録は詰め所の机に置かれていた。兵士は北塔から届いた伝声へ返事をしている。


 表紙まで三歩。


 一歩目で膝が震えた。


 二歩目で、詰め所の兵士が振り返る。


「水差しなら部屋にあります」


「少し歩こうと思って」


「セラ副隊長から、廊下へ出たら呼び戻せと」


 蓮人は記録へ目を向けた。兵士もその視線を追う。


「これは朝番へ渡すまで、ノア書記官の封印中です」


 手に取れば、封印を破る。


 蓮人は三歩目を進めなかった。


 部屋へ戻ると、椀の粥は冷えていた。匙で混ぜる。底に沈んだ麦の粒が、遅れて浮かんだ。


 理解したから手放せるのではない。手を伸ばすたび、戻す練習が必要だった。朝番の鐘より前に、治癒術師が診察へ来た。


 指を一本ずつ動かす。視線を左右へ追う。昨日の出来事を逆の順序で答える。


「今日は塔へ行くな」


「半日なら」


「一日だ」


「報告を受けるだけです」


「報告を受けたら質問する。質問したら確認へ行く。お前の病気は足ではなく順番だ」


 治癒術師は寝台脇の小板へ書いた。


『本日の担当、休息』


 蓮人には読めない。ミナが読み上げた。


「担当がないのではなく、休む担当です」


 その言い方が、セラの「呼吸だ」と重なる。


「完了条件は」


「夕鐘まで塔へ行かない。記録を読まない。呼出しがなければ質問しない」


「厳しいですね」


「守れなければ明日も同じ担当です」


 仕事として書かれると、休むことにも終了条件ができた。蓮人は不承不承うなずく。そのころ、治癒院の外で鎧の音が響いた。


 代官庁衛兵が、北塔へ向かっている。廊下の兵士が窓を開け、音の数を確かめた。


「一個小隊。塔の方向です」


 蓮人は反射的に寝台から足を下ろす。ミナが椀を持ったまま、扉の前へ立った。


「担当は」


「休息です」


「では、私が確認します」


「でも」


「必要なら呼びます」


 昨日なら、その言葉を信じられなかった。今日も完全には信じられない。それでも蓮人は、床へ触れた足を寝台へ戻した。


 ミナは廊下へ出る前に、復旧記録を兵士へ返した。


「朝の報告まで封印を解かないでください」


「レントさんにも?」


「特にレントさんに」


 冗談には聞こえなかった。


 扉が閉じる。蓮人は外の足音を数えかけ、途中でやめた。


 信頼は、質問をしない一度だけでは戻らない。次に同じ不安が来たときも、相手の担当を奪わずにいられるかが残っていた。先頭の兵士は、塔の接収命令を持っていた。

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