第6巻 第6話 引き返す薬
戻ってきた薬箱には、雪が解けた跡だけが付いていた。
封印は切れていない。白布も濡れていない。薬は一包も失われず、出発したときと同じ数で治癒院の机へ戻った。
サナは、それを良い結果だとは思えなかった。
「北橋は、空の車でも通せません」
リオは、病棟と薬庫から集まった者へ説明した。橋板の亀裂、冬溝と車輪幅、向こうの積替え台。声は落ち着いていたが、右手の爪の間には橋板の白い粉が残っている。
「東の石橋は通れます。そこまでの倒木を除く時間と、石橋から雪宿駅まで行けるかを、今調べています」
「いつ着くんですか」
トワの母が訊いた。
「まだ言えません」
机の上に、白樺谷の三人分の患者札がある。五歳以下、高熱。名前は書かれていない。それぞれの家で何を飲ませ、体をどう冷やしたかだけが、鐘から鐘へ伝えられていた。
「まだって言っているあいだに、朝になる」
木工職人が言った。自分の薬を減らすと申し出た男だ。
リオは頷いた。
「だから、本便とは別に先行包を出したい。熱冷まし十二人分。徒歩で北橋の歩板を渡し、向こうの中継小屋まで。そこから白樺谷側の者に迎えに来てもらう」
「迎えが間に合うの」
サナは訊いた。
「中継鐘で呼ぶ。白樺谷から歩けば、雪が浅い時で一日。今なら一日半」
「朝には着かない」
「着かない。でも、本便を待つより早い」
届かないから出さないのか。全員分が届かないから、一人分も動かさないのか。サナは机の三枚を見た。三人のうち、誰がより熱いかは分からない。一包だけを持たせれば、中継小屋から先で誰へ渡すかを、疲れた迎え人に選ばせる。
イレナは十二人分の箱を開け、熱冷まし六人分、体温を下げすぎたときの薬湯二束、量を決める紙を取り出した。
「これより減らしません。子どもの体格が分からないので、一包を一人分と決めず、産婆が量を合わせられる説明を付けます」
「徒歩で持てる」
若い看護者が言った。朝、運び手へ名を書こうとして止められた者だった。
「夜番の代わりは?」
サナが訊く。
「決まりました。旧館から移ってきたロアが、今夜だけ。私は中継小屋で交代して戻ります。村までは行かない」
「戻ったあと、次の夜番は」
「明日は休む。ロアも明日の昼番を外す。イレナさんが当番表を直しました」
運ぶ人が一人増えた結果、病棟の二人が違う時刻に休む。そこまで書かれて、初めて配達人の欄へ名が入った。
セラは歩板の通行札を確かめた。
「橋上は二人まで。護衛は橋の手前と向こうへ一人ずつ。運ぶ者と同時には乗らない。雪が欄干の二段目へ届いたら引き返す」
「薬が目の前でも?」
若い看護者が訊いた。
「目の前だからです。落とせば薬もあなたも届かない」
先行包は、夕方の鐘より前に治癒院を出た。荷車のときより小さく、看護者の背中の半分もない。それでも、乾いた布を二重にし、胸側へ薬の量を記した紙を入れた。
サナは送り出したあと、薬庫へ戻った。
棚の包みを数え直す。先行分を引くと、治癒院と川沿いの共同分は十日と半日になった。十二日分という数字が減ったことで、ようやく薬が動いたのだと分かる。
「この先、山へ出すたびに、ここの日数は減る」
木工職人が言った。
「うん」
「減ったら、俺たちは山のせいだと思うかもしれない」
サナは返事を探した。
「だから、誰へ出したかだけじゃなくて、次にここへ入る便も書いてもらう。減る理由だけ見せられたら、奪われたみたいになるから」
薬庫の壁へ、《現在十日半》《先行包・白樺谷》《次の補充・未定》と掲げた。未定の文字は不安を増やす。だが空白のまま十二日分と書くより、次に何を訊くべきかが見えた。
夜の一刻目、白樺谷から患者の続報が来た。
高熱の五人のうち、一人は少し下がり、一人は水を飲めなくなった。残り三人は変わらない。産婆は、最後に残した大人用の薬を誰へ使うか決められず、量の照会を求めている。
イレナは大人用の薬包を開き、粉の重さを量った。子ども用と同じ薬草が入っているが、眠気を強める成分が多い。体の小さい子へ、単純に半分を使えばよいものではなかった。
「水を飲めない子には、先に薬ではなく、口を湿らせる量を伝えます」
「薬を待っているのに?」
木工職人が訊いた。
「飲み込めなければ、粉が喉へ残る。先行包に、湯へ溶かせるものがあります。迎えが着くまでの夜は、体を冷やしすぎないようにして、ひと匙ずつ水を」
返事を鐘だけで送るには、内容が多すぎた。中継所ごとに短い言葉へ分ける。水を飲めない者。意識。尿。手足の冷え。産婆が一つずつ確かめ、同じ順で返す。
サナは、病棟で夜の薬を飲んだ。自分の包みがあることへ罪悪感を持たないようにした。ここで飲まずに残しても、それを今夜、白樺谷へ届ける道はない。飲むべき人が飲まず、棚の数だけ増えるのは、助けたことにならない。
「サナさん、手は?」
イレナに訊かれ、皿を持ってみせる。震えはない。だが、ないと答える前に、指を曲げ、親指の遅れも確かめた。
「今日は大丈夫。でも、明日の分を山へ回していいかは、明日決めて」
「ええ。今夜のあなたが元気だからでは決めません」
そのやりとりも、薬庫の紙へ残した。《服用予定を守った》《共同分へ戻す判断は翌朝》。山へ出した量だけでなく、ここで使った量にも理由が要る。
夜半、北橋の向こうで待機している看護者から札が戻った。迎えの二人のうち、一人が足を痛めた。もう一人が先行包を背負い、白樺谷へ向かう。足を痛めた者は中継小屋へ残り、橋のこちらから護衛が迎えに行く。
薬を早くするため、負傷者を雪の小屋へ置いていく案も出た。
セラは認めなかった。
「先行包は進める。負傷者には別の迎えを出す。人を一人、薬箱の代わりに残す便にはしない」
治癒院から、毛布と温石だけを持つ二人が出た。薬は持たない。患者へ近づく便と、運び手を戻す便が、北橋の両側で分かれた。
日が沈んでから、北の鐘が鳴った。
一度。間を置いて二度。先行包が北橋を渡り、中継小屋へ着いた合図だった。
村へはまだ遠い。
続いて、白樺谷からの鐘が返った。迎えの者が二人、出たという。
薬が子どもの手へ着くのは、早くても明日の昼だった。朝までに必要だった薬へは間に合わない。村では今夜も、大人用の薬を産婆が量り、井戸水で額を冷やすしかない。
それでも、空白だった配達人の欄には、二人の名と交代場所が書かれた。
サナは最後に、《届いた》とは書かなかった。
《中継小屋。村の迎え、出発》。
翌日の昼、鐘が長く一度鳴った。
先行包が白樺谷へ着いた合図だった。
続いて、短い鐘が五回。熱の子ども五人。産婆からの返事では、水を飲めなかった一人へ先に湯へ溶かした薬を使い、残る四人は熱と呼吸を見て順番を決めるという。
治癒院の壁に、《到着六人分》《使用一人》《共同棚へ残り》と書かれた。
「届いた、で終わらないんですね」
若い看護者が言った。
「届いても、全部をすぐ配るわけじゃない」
サナは答えた。
村の棚は零から五人分へ増えた。十二人分を送ったはずなのに、運び手の予備、量の調整、次の発熱へ残す分があるため、使える人数は単純な十二ではない。
足を痛めた迎え人も、護衛と一緒に領都へ戻った。凍傷は軽く、二日は歩かせない。帰路まで含めた配達人の欄に、初めて《帰還・治療・休息二日》と入った。
サナは、自分の翌朝の薬を確認した。震えがなかったため、予備一包は共同分へ戻る。それを山へ直ちに送るのではなく、次の全量便と病棟最低線を見て決める。
誰か一人が良くなった包みを、別の誰かへそのまま渡すのではない。両方の次の日を残してから動かす。
白樺谷の薬棚は、ようやく空ではなくなった。
だが次の五人へ回せる量は、まだ村へ向かう道の上にもなかった。




