第6巻 第4話 雪より先の一便
薬箱だけなら、荷車は軽かった。
けれど、薬箱だけで白樺谷へ行くことはできなかった。
リオは荷役場の秤へ、最後の飼葉袋を載せた。針が震え、木枠に刻まれた線を二つ越える。荷台には薬箱四つ、熱を出した家へ配る乾パン、煮沸用の炭、御者二人分の毛布、替えの車輪輪、橋で使う滑り止め板が積まれていた。
「あと、戻り二日分の飼葉」
雪宿駅から来た駅守のアニカ・ロウが言った。三十一歳。頬に細い凍傷痕があり、馬の鼻先へ手を置いて息を数える癖がある。
「白樺谷で補えると思わないで。村へ着くまでの馬糧は、村の食料と同じです。帰りを村に食べさせる便なら、出さない方がいい」
「二袋で足りませんか」
「晴れれば。今朝の雪なら三袋。旧門を使わず北橋を渡るなら四袋」
四袋目を載せる場所はあった。重さだけが足りない。
薬師のイレナは、四箱のうち一つを開け、湿りに強い補助薬を別の小箱へ移していた。サナも隣で、村ごとの患者札を包みへ結んでいる。
「熱冷ましは減らせません」
サナが言った。
「乾パンを減らしても、薬を飲む人の分は残して」
「炭は?」
リオが訊く。
「薬湯用に半袋。残りは村の薪を使う。ただ、熱のある家に薪を運べる人がいるかは分からない」
荷台の上では、必要なものが互いを押し出していた。薬を増やせば、それを飲む水を温める炭が減る。飼葉を減らせば、荷車が村へ着いても戻れない。滑り止め板を置けば、雪道は通れても北橋の重量が増す。
セラが橋札を持ってきた。
「北橋は、冬期、一軸あたり百二十荷まで。今朝から霜が付いたので、守橋人は一割減らすと言っています」
「一台を二台に分ければ?」
「使える荷車が一台。治癒院の車軸はまだ直らない。もう一台は北橋の補修材を運んでいる」
「馬だけ二頭で、箱を背負わせる」
アニカが首を振った。
「鞍荷なら雪宿までに背が擦れる。この二頭は荷車馬です。歩幅も違う」
レントは荷台の周囲を歩き、一つずつ確かめた。荷の線は、箱から村へまっすぐ伸びない。馬、車軸、橋板、宿駅、御者の休息を通り、そのたびに細くなる。
「橋を渡るときだけ、人が箱を持てませんか」
「できる」
リオは答えた。
「けど、橋の向こうに積み直す台がいる。雪へ箱を置けば湿る。人が往復しているあいだ、馬を誰かが押さえる。橋を一刻ふさぐ」
「守橋人に聞きましょう」
「もう聞いた」
セラが言った。
「日暮れ前は、南から食料便が三台来る。橋を一刻ふさげば、その三台が凍結前に渡れない」
薬を先に通すことが、別の村の食料を止める。荷台の上だけで優先を決めても、道の上には他の便がいる。
サナは患者札を一枚抜き、リオへ渡した。白樺谷の子どもの名前ではなく、《五歳以下・高熱三名》とだけある。
「誰から渡すかは、村で決めてもらいます。こっちで名前を付けない。でも、三人分だけにしないで。熱が出ていない子も、着くまでに増えるかもしれない」
「何人分なら」
「薬師が安全に分けられる最小の箱は十二人分。余ったら村の共同箱へ戻す。着いたから全部配る、にはしない」
イレナが、白い小箱へ封をした。薬の量を減らして橋を渡るなら、箱そのものを小さくできる。だが、四つの村へ分けた包みを一箱へ混ぜれば、途中で一つの村だけへ渡せない。
「白樺谷だけ先にする理由は、今夜の薬がないからです」
ノアが配達紙へ書いた。
「ほかの四村も、残数を確認して次便時刻を出す。白樺谷へ全て出したから待て、ではなく」
「確認札が止まってる」
リオは言った。
「なら、この便の帰りに聞く。ただし、帰りに御者へ五村回らせたら休めない。村側から最初の宿駅まで札を出してもらう」
荷の積み方が、少し変わった。四村分を念のため載せる案をやめ、白樺谷の先行箱と、各村へ残数を訊く軽い札を載せる。空いた重さへ飼葉半袋が入った。
針はまだ橋の冬期線を越えている。
アニカは馬の腹帯を締め直し、御者の指を見た。
「昨夜は寝た?」
「南便を降ろしてから三刻」
「足りない。橋前まで私が御者台へ乗る。あなたは荷台で眠る。橋を越えたら交代」
「駅守が荷車を?」
「馬を返すところまでが駅の仕事です。馬だけ戻って、人が雪へ残る便は受けない」
御者は反論しかけたが、アニカが手綱を取ると荷台へ移った。毛布一枚が、人の休息用として新しく荷の上へ載った。それも重さだった。
リオは秤の数を手帳へ移した。
薬箱と乾パンを手持ちで橋へ運び、荷車は飼葉と炭だけで渡す。向こうで積み直す。人手は六人。所要一刻。南便は半刻待機。
守橋人から返った札には、短く《不可》とあった。
理由は二つ。橋上へ六人が同時に乗れば、荷車を軽くした分が戻る。さらに、この荷車の車輪幅は、冬板を敷いた通行溝より指三本広い。
「重さだけじゃないのか」
リオは車輪の外側を測った。昨年、修理のときに太い輪へ替えられている。夏の道では沈みにくいが、北橋の冬板には合わない。
それでも、出発刻は近づいていた。
リオは荷を降ろさなかった。橋まで行けば、守橋人と現物を見て積み替え方が見つかるかもしれない。荷役場で紙だけを往復させるより、箱を一歩でも村へ近づけたかった。
「出します」
セラが眉を寄せた。
「通れない札がある」
「橋の手前までです。そこに小屋と積替え台がある。南便の空荷人も来る。現物を見て、渡せないなら戻す」
「戻す時刻は」
「日暮れ一刻前。そこを越えたら、荷役場までの路面が凍る」
アニカが馬の息を見た。
「馬は行ける。橋前で半刻以上待たせるなら、毛布を掛けて飼葉を出す。待つ分も秤へ入れて」
リオは飼葉を半袋増やした。針はさらに上がった。だが、橋を渡る前に使う分なら、渡るときの重さからは減る。
便は、昼の鐘とともに出た。
雪の石畳を、太い車輪が低く鳴らす。リオは御者台の横を歩き、車軸音を聞いた。薬箱の留め縄は青と白。出発地と到着地を取り違えないための札とは別に、湿りに弱い箱だけ白布を挟んでいる。
北橋が見えるころ、雪はまた強くなった。
橋の手前には、南から来た食料便が三台待っていた。守橋人が赤い上着を振り、こちらへ止まれと合図する。橋板には凍結防止の細い溝板が二本敷かれ、その間隔は荷車の車輪より、確かに狭かった。
「箱を手で渡す」
リオは言った。
守橋人は、橋札と秤札を見比べた。
「人を二人ずつなら渡せる。箱を一つずつ。だが向こうの積替え台は、昨夜の雪で屋根が落ちた」
「板を敷けば」
「その板を積んで橋を渡すのか」
滑り止め板は荷台にある。橋を渡すための板を、橋の向こうで箱を置くために使えば、馬車は雪道を進めない。
後ろで、南便の馬が鼻を鳴らした。食料袋の上へ雪が積もり始めている。あちらも、日暮れ前に渡れなければならない。
リオは薬箱へ手を置いた。ここで一箱ずつ運べば、薬は川の向こうへ行く。荷車も、炭も、飼葉も、渡らない。人が薬箱を担いだまま白樺谷まで歩けば、三日はかかる。その前に雪庇が落ちる。
「戻します」
口から出た言葉は、雪へ落ちるほど小さかった。
「薬が要るんだろう」
南便の御者が言った。
「要る。だから、橋の向こうへ置いて届いたことにしたくない」
リオは出発札へ《中止》と書いた。理由は重量超過ではない。車輪幅。積替え台。次の足。帰路。
橋の向こうは見えている。白樺谷は、その先にある。
荷車は、薬を一箱も降ろさず、来た道を引き返した。
帰り道、南便の最後の一台が追いついた。荷台の穀袋を濡らさないよう、御者は橋を渡る前から外布を二重にしている。
「薬を戻したのか」
行きにも声を掛けた御者だった。
「戻した。北橋へ合う車輪を探す」
「明日になれば、うちの空車が北へ戻る」
リオは思わず荷台を見た。冬輪の細い車だ。薬箱を積める。だが南便は今夜、穀物を町の倉へ下ろし、明朝には塩を積んで戻る予定だという。
「借りたら、塩が遅れる」
「一日なら待てる町もある」
「待てない家もある」
リオは南便の札を読ませてもらった。塩は保存食用で、明後日までに着かなければ二村の肉加工が止まる。一日遅れなら作業を半日に減らせるが、二日遅れれば肉そのものを捨てる。
「明日の橋の状態を見て、一日だけ借りる条件を決める。今、薬が急ぐからと言って鍵を持っていかない」
御者は、少し意外そうにリオを見た。
「急いでるんじゃないのか」
「急いでる。急いでるから、返す時刻のない車を増やしたくない」
南便の冬輪が、雪の上へ細い二本の跡を残して先へ行った。リオたちの太い輪は、その外側へ深く沈む。二つの跡は同じ荷役場へ向かっているが、明日使える道は違う。
リオはその幅を手帳へ写した。借りるなら、塩便の損失と、薬が着く時刻を同じ欄へ書く。どちらかを紙の外へ置けば、橋の前でまた決められなくなる。




