第6巻 第3話 熱のない薬棚
男の足袋を脱がせると、右足の小指が白くなっていた。
リオ・ハーゼは、火鉢へ手を伸ばしかけた男の腕を止めた。
「急に近づけないでください。布ごと、ぬるい水からです」
言いながら、自分の声がユナに似てきたと思った。妹なら、相手が年上でも、もっと迷わず命じるだろう。二年前までのリオは、荷役場で年上の御者へ口を出すことなど考えもしなかった。
男は、白樺谷から歩いてきた荷運びのバンナだった。確認札を持って最初の宿駅を出たあと、峠道で荷車を諦め、ひとりで戻ってきたという。革の外套には雪が固まり、左肩だけが低くなっている。空の薬箱を、ずっと担いでいたためだ。
「箱は置いてくればよかったのに」
リオが言うと、バンナは首を振った。
「空だと見せなきゃ、また前の数で足りてると言われる」
箱の底には、白い薬包の切れ端が三枚残っていた。どれも端を裂かれ、一包を二度に分けた跡がある。箱札には《熱冷まし・十二》とあり、その下へ炭で《残り零》と書かれていた。
「子どもは?」
「昨夜まで熱が高かったのが二人。今朝から三人増えた。大人用を砕いたが、量を決められる薬師はいない。村の産婆が、体の小さい順に少なくした」
「水は」
「井戸は凍ってない。薪も二日はある。食うものは、薄くすれば七日」
足りないものを訊けば、村全体の暮らしが答えに混じる。薬だけを運んでも、熱を出した子の家に薪がなければ朝まで持たない。食料便を先にすれば、薬を待つ一日は長すぎる。
リオは箱の側面を見た。角の傷に覚えがある。中央転移門の荷役場で、二冬前に扱った箱だ。薬荷だけが別の門へ着き、ユナたちが旧集落へ流された、あの混乱のあとで作り直された二重札も付いている。
出発地。到着地。受取人。中継門。
どの欄も正しい。
最後の受領印は、五週間前だった。
「この便は、どうやって白樺谷まで?」
「中央門から北の旧巡礼門へ。そこから荷車で二日。雪宿駅で馬を替えた」
「今も同じ道を?」
「旧門は開く。けど、門先に荷車がない。前の車は車軸が割れて、村の板を運んでる。雪宿の馬も、南へ飼葉を取りに出た」
正しい到着地へ着いても、そこから先の足がない。以前の転移門事故で人と荷を同じ場所へ戻したとき、リオはそれを「届いた」と呼んでいた。今になって、その言葉の先が抜けていたと気づく。
戸口で雪を払う音がした。
ユナが、湯の入った桶を持って入ってきた。旅客案内の手伝いを続けながら、冬は荷役場の休息所も見ている。バンナの足を見ると、兄へ何も訊かず、火鉢を遠ざけた。
「ぬるさ、これくらい?」
バンナが指を入れられる温度を確かめ、桶を床へ置く。白くなった足を布ごと浸し、濡れた外套を脱がせる。
「雪はどこから」
ユナが訊いた。
「青松峠の手前。いつもの吹き溜まりじゃない。道の山側から板みたいに落ちてきた」
「雪庇?」
「たぶん。三日早い」
バンナは、震える手で空箱を叩いた。
「ホルムさんが、これを見せろって。『数があるなら、次に誰が持つか書いて返せ』って」
箱の内蓋に、炭で一行が書かれていた。
《次便の者、道、着く日を記せ》
リオは、腰の手帳を開いた。荷車の番号、縄色、出発刻を書くためのものだ。これまでなら、便が決まってから使う。今は便そのものがない。
「俺が持ちます」
バンナが顔を上げた。
「箱をか」
「箱だけじゃない。次の便を」
口にすると、足元が少し冷えた。荷役の仕事なら、決められた荷を決められた場所へ移せばよい。輸送の責任を持つなら、荷を減らすことも、出さないことも、途中で道を変えることも、自分の名で決めなければならない。
荷役場の奥から、太い声がした。
「誰の荷車で?」
商人組合長のディーンが、帳面を脇へ挟んで立っていた。転移門が混乱したとき、門を止めれば冬の商いを失うとセラへ食い下がった男だ。今も外套の留め具は磨かれているが、左袖には荷油の跡が残っている。
「組合の空車を一台借りたい」
リオは答えた。
「空車はない。北橋の補修材へ一台。代替水の樽へ二台。南から来る塩便の受取りへ一台。治癒院の車は壊れてる」
「門前に、赤輪の二頭立てがある」
「あれは明朝、種籾を東へ運ぶ」
「今夜までに戻せば」
「戻る道も決まってない便を、今夜までと言うな」
ディーンは、空の薬箱を持ち上げた。側面の傷と二重札を見て、リオと同じ便だと気づいたらしい。
「前は、門を開ければ荷は着いた。今度は門を開けても、雪道が残る。お前は何を引き受ける」
「出発と到着だけじゃない。途中で戻す判断も。荷車を壊したら、修理の順番を公開する。種籾便が遅れたら、その日数も白樺谷の便へ付ける」
「払うのは?」
「領主の臨時費をノアに掛け合う。出なければ、運ぶ村と借りる村の貸借へ入れる」
「出なかったら組合が泣く、では貸さない」
ディーンは赤輪車の鍵札を机へ置かなかった。
リオは手帳の新しい頁を開いた。薬便の最初に《荷車所有・商人組合》と書く。その下へ《戻らない場合の損失・種籾便一日》。《車軸損傷時・補修材便の次》。
「この順番で、組合も決める席へ入ってください」
「俺に薬の順を決めろと?」
「薬の順は薬師と村が決める。組合は、荷車をどこまで失えるかを決める。一台を貸すと言ったあとで、御者に三夜走らせるのはなしです」
ディーンは、バンナの白くなった足を見た。損失の紙へ人の疲労が入るようになったのは、彼自身が転移門の停止席でセラと争ったあとからだった。
「御者は組合から一人。道を知る者をもう一人、お前が出せ。日没までに北橋を越えられなければ戻す。種籾便の遅れは最大一日。それを越えるなら、薬を手運びへ変えて荷車だけ返せ」
「荷を道に置けない」
「だから、置く場所も出る前に書け」
ディーンはようやく鍵札を置いた。貸したのは荷車だけではない。戻す条件と、戻せなかった損失を決める席だった。
リオは自分の名を、輸送責任者の欄へ書いた。字が少し傾いた。妹を捜すための名ではなく、他人の荷車と村の薬を、同じ判断で止めるための名だった。
ユナは兄の手帳を見た。
「薬だけ先にする?」
「まだ決めない。薬の箱がいくつで、誰が渡して、戻りに何が要るかを聞く。食料も種籾も、同じ荷車に積めるとは限らない」
「なら、私が旧門側の案内人を集める。歩いて持てる重さも、先に量る」
妹が救われた側の人ではなく、便を作る側にいる。そのことを、リオは今さら誇らしく思わなかった。ユナはあのときから、ずっと自分で名簿を作り、帰る順番を決めていた。兄が遅れて気づいただけだ。
レントたちが倉庫から戻る前に、リオは荷役場の板へ三つの欄を書いた。
薬。食料。種籾。
それぞれの下に、箱数ではなく、出発できる刻、通れる道、着いたあとに渡す者、帰りの足を書く。
薬の欄だけは、出発刻が先に決まった。
今日の日暮れ前。
白樺谷までの普通の道は三日。だが、子どもの薬は明日の朝までしか待てない。
「三日早く雪が来た」
バンナがもう一度言った。
外では、荷役場の屋根から滑った雪が、長い音を立てて落ちた。
リオは、荷役場にいた十二人を集めた。荷を背負える者は九人。雪道を知る者は四人。薬箱の封印を読める者はユナだけ。御者は二人いるが、一人は前夜の南便から戻ったばかりだった。
「早い順じゃなく、途中で交代できる組にする」
腕の強い者を先頭へ置く案をやめ、道を知る者、封印を読める者、戻り道を持つ者を三組へ分けた。誰か一人が倒れても、箱の行先と中止条件を読めるようにする。
若い荷役が不満を言った。
「人数を増やせば、日当で薬代より高くなる」
ディーンが答えた。
「一人で持たせて戻らなければ、箱と人と次便を全部失う。日当を削るなら、何を失うか先に書け」
リオは各組へ、荷を渡した時点で仕事を終えないと伝えた。次の組が箱数、封印、道の状態、中止線を復唱するまで、前の組が責任を持つ。受け渡しに半刻かかっても、その半刻を遅れではなく便の一部へ入れる。
「責任者は、全部の組へ乗るの?」
ユナが訊いた。
「乗らない。最初の橋まで。そこから先は、次の人が決める」
自分で言ったあと、胸の奥が落ち着かなかった。見えない場所で箱を戻されても、その判断を受け入れなければならない。
リオは三枚の停止札へ、先に自分の印を置いた。現地の者が札を使ったとき、後から責めないという印だった。
リオは手帳の出発刻に丸を付けた。便を出すだけならできる。届かせる道は、まだ一行も書けていなかった。




