第6巻 第2話 満杯の倉庫
倉庫の扉を開けると、乾いた麦の匂いがした。
レントは敷居の前で足を止めた。外では雪が横から吹き始めているのに、厚い石壁の内側は暖かい。天井近くの通気口から入る光の下で、穀袋が肩の高さまで積まれ、その奥には薬箱が同じ幅で並んでいた。
空の薬棚を見たあとでは、箱の数そのものが答えに見えた。
だからこそ、レントは数える前に、床を見た。
敷石には車輪の跡がない。人の靴跡も、扉から手前の二列までで途切れている。奥の薬箱には薄く埃が積もり、封印紐だけが新しい。
「二十箱です」
倉庫番が言った。
「治癒院から照会のあった補助薬と同じ銘柄が、一箱四十八包。粉薬はその隣に十六箱。領内の冬期必要量を引いても、規定では余剰です」
「規定では」
ミナが小さく繰り返した。彼女は箱の端にある保存紋へ手をかざしている。紋は静かな青を保っていた。正常に働いているという色だ。だが、その青は、薬が必要な村へ届いたことまでは示さない。
倉庫番は咳払いをした。
「保存状態にも異常はありません」
「開けた日は残っていますか」
レントが訊くと、倉庫番は戸口脇の板を示した。
「入庫日と封印日は」
「使用期限は?」
「薬師の箱札に」
「この棚から、いつ出せるかは?」
「領主代行の許可が下りれば」
「許可に必要な日数は?」
倉庫番は答えなかった。
レントの視界で、薬箱からいくつもの細い線が伸びた。封印紐、領主印、入出庫帳、荷車置場、北橋、宿駅。けれど、どの線も白樺谷の家へは届かない。途中で薄くなり、別の候補へ分かれている。《連環視》が見せるのは、つながり得るものだけだ。荷車が壊れているのか、橋が閉じているのか、誰かが意図して止めたのかまでは答えない。
「箱札を見せてもらえますか」
ミナが言った。
倉庫番は、領主代行の許可がないと封印へ触れられないと答えた。薬の名を確認するための箱札も、封印紐の内側へ差し込まれている。
「同じ薬だと言ったのは、何を見てですか」
「入庫帳です」
「では、箱の中身と入庫帳が今も同じかは、確認できていない」
「封印が切れていないのが確認です」
ミナは青い保存紋を見た。青は、箱の内側が規定の温度と乾きに保たれていると示す。封印紐は、許可なく開けられていないと示す。二つを合わせても、帳簿に書かれた薬が本当に入っているとは限らなかった。
「先に領主代行へ会いましょう」
レントは言った。
倉庫の二階に設けられた執務室では、ベルト・クラウゼが三つの帳簿を開いていた。四十二歳と聞いていたが、髪のこめかみは白い。病床の領主に代わって冬の倉を預かるようになってから、まだ半年だという。
「白樺谷の薬切れは承知しています」
ベルトは、椅子を勧める前に言った。
「昨夜、鐘が届いた。だが、北境全体の在庫が不足しているという報告は出せません」
「不足していないからですか」
「総量は足りている。薬も麦も、規定の冬期量を上回っている」
机の上の帳簿には、領内七倉庫の数字が合計されていた。薬包、穀物、乾燥肉、種籾。どれも必要量の横に余剰が記されている。
ノアが、白樺谷への配達紙を隣へ置いた。
「この二十箱から、今日出せるのはいくつですか」
「許可を出せば二十」
「明日までに白樺谷へ着くのは?」
「輸送は別の担当だ」
「担当が別でも、薬を待つ人には同じ一包です」
ベルトの指が、帳簿の端を押した。
「あなた方は、倉庫の数字を配達の不手際で書き換えろと言うのか」
「いいえ」
レントは、総量の数字へ線を引かなかった。その横に、別の欄を作った。
《今日出せる量》
《期限内に届く量》
《届いたあと使える量》
「違う数字を、同じ言葉で呼ばないようにしたいんです」
ベルトは新しい欄を見た。
「公の報告で不足と認めれば、王都は冬期管理の失敗とみなす。融資が止まり、春の種を買えなくなる。村一つへ薬を出すために、領全体を不足領へするつもりか」
「不足を隠しても、熱は下がりません」
サナが言いそうな言葉を、レントは飲み込んだ。目の前の男は、熱を軽く見ているのではない。総量不足と報告した先で、別の村が春に飢えることを恐れている。
「報告する単位を変えませんか」
ノアが言った。
「領全体の総量は足りている。ただし、白樺谷へ明日までに到達できる量はゼロ。二つを同じ紙へ載せる」
「ゼロと書いた紙だけが王都へ抜かれる」
ベルトは即座に返した。
「理由も、次の便も読まれない。『北境で薬不足』とだけ広まれば、商人は値を上げ、住民は倉庫へ来る」
「それを避けるために、今はどこまで公開していますか」
「総量だけだ」
倉庫の下で、重いものが落ちる音がした。誰かが穀袋を移したのだろう。床が一度震え、机のインク壺に小さな輪が立った。
レントは、窓から倉庫前を見た。雪の中に、二頭立ての荷車が一台ある。片方の車輪へ布が巻かれ、御者は軸へ油を差していた。その向こうには、荷を持たない人が三人、扉を見上げている。
「住民は、ここに在庫があることを知っていますか」
「倉庫があることは知っている。中の数は知らない」
「白樺谷の人は?」
「知らない方がいい」
ベルトは答えた。
「あるのに届かないと知れば、待てなくなる」
その言葉は、間違っていなかった。だが、知らないままなら待てるわけでもない。
ミナが保存紋の写しを机へ置いた。青い光は、箱を守っている。箱の外で誰が待っているかを知らないまま、正しく働き続けている。
「開封確認だけ、今日できますか」
「できない。領主印が要る」
「代行印では」
「薬の出庫には使える。冬期基準倉の封印変更には使えない」
権限がないのではない。出す権限と、確かめる権限が分かれている。レントはその二本を紙へ書いた。
階段の下から、倉庫番がベルトを呼ぶ声がした。執務室へ上がってきたのは、灰色の外套を着た町の薬師だった。手には領内治療所の出庫札を持っている。
「東区で熱が出ています。子ども二人、大人が一人。補助薬を二箱、今日の分として」
薬師は、レントたちを見て一度言葉を止めた。ベルトは出庫札を受け取ったが、印を押さなかった。
「一箱に減らせ」
「白樺谷へ回すためですか」
「違う。領内の臨時出庫枠が一箱だ。白樺谷の分は、まだ許可していない」
薬師の顔に、怒りより先に困惑が浮かんだ。
「倉庫には二十箱あると、倉庫番が」
「聞いた数を町で話すな」
「あるのに、東区へも出さないのですか」
ベルトは答えず、一箱分だけ代行印を押した。自分の領内を優先して二箱出すことも、白樺谷へ善人として全て貸すこともしない。決められた枠を守り続けている。
薬師は札を握ったまま、窓の下の倉庫を見た。
「一箱なら、子どもを先にします。大人には今ある粉薬で待ってもらう。次がいつかだけ、書いてください」
「次の申請日は三日後だ」
「三日後に出るのか、三日後に申請できるのか」
ベルトの指が止まった。
「申請できる」
薬師は、その言葉を出庫札の余白へ自分で書いた。《次の薬が来る日ではない》。そして一箱分の札を持って階下へ降りた。
レントは、ベルトが冷酷だから倉庫を閉じているのではないと分かった。規則どおり一箱を出し、規則どおり次の申請を待たせる。その積み重ねなら、自分が誰かを選んだことにならない。
「代行になってから、臨時枠を変えたことは?」
「ない」
「領主は?」
「昨冬に一度。雪崩で二村が孤立したとき、三日分を前倒しした。春の監査で、種籾倉の管理権を一月止められた」
「そのときの不足を、今年は避けたい」
ベルトは初めて、レントの顔を正面から見た。
「薬を出すなと言っているのではない。出した結果、次に誰へ出せなくなるかを、王都はこの部屋の外から決める。白樺谷の熱だけを見て印を押せば、春に種を失った農家の前で、その理由を私が話す」
「なら、その理由を一人で持たない形にしましょう」
「共同で決めれば、責任が消えると?」
「消えません。誰の薬を何日待たせ、何を守るためにそうしたかが残ります。今は、枠を守ったことしか残らない」
ベルトは返事をしなかった。だが、閉じた帳簿の上から手をどけた。
ベルトは、会話の終わりを示すように帳簿を閉じた。
「領主会議には、規定どおり報告する。北境の総在庫に不足なし。白樺谷への臨時便は、道路状況を確認の上で検討中」
「道路状況を確認するのは誰ですか」
「輸送担当だ」
「名前は?」
ベルトの返事はなかった。
執務室を出ると、ノアは階段の途中で立ち止まった。倉庫番が運んできた正式回答を読む。
《照会の薬品について、北境領内には規定量を上回る在庫を確認した。よって不足は認められない》
薬は二十箱ある。保存紋も青い。封印も切れていない。
白樺谷へ届く箱は、一つも決まっていなかった。




