第6巻 第1話 空白の配達先
薬は、棚にあった。
サナ・リュベルは、木箱の中で揃っている白い包みを、もう一度数えた。腹の痛みを和らげる粉薬が四十包。手の震えが強い日に使う補助薬が二十四包。冷えと脱水を防ぐ薬湯の束が、薄い布に包まれて十二日分。
昨夜と数は変わっていない。薬庫の帳簿とも合っている。
けれど、山側の村へ渡す木箱には、朝になっても運送札が結ばれていなかった。
窓の外では、夜のあいだに降った雪が薬庫裏の荷車を白くしていた。外された車輪の上にも薄く積もり、ひびの入った車軸だけが黒くのぞいている。昨日までなら、雪は山の上に見えるだけだった。今朝は石畳の目地まで白い。
「これ、十二日分って言わない方がいいんじゃないですか」
サナが言うと、薬師のイレナは帳簿から顔を上げた。
「数は十二日分です」
「ここで使えば、でしょう」
薬包を数えていたトワの母親が、手を止めた。川沿いの長期健康調査へ配る分を、家ごとの小箱へ分けている。山へ送る箱とは別の仕事だったが、机が一つしかないため、二つの行き先が同じ板の上へ並んでいた。
サナは、山側の配達先を書いた紙を指で押さえた。村の名は五つある。一番近い村でも、荷車で二日。もっとも遠い白樺谷までは、晴れていれば三日と書かれている。
その三日の下に、小さな但し書きがあった。
《北橋を荷車で通行できる場合》
《山裾の崩れ道が復旧している場合》
《雪宿駅で替え馬を得られる場合》
《治癒院から薬を渡せる者が同行する場合》
四つとも、確かめた印がない。
「十二日分というのは、病棟と川沿いの家で、今の人数ならです」
イレナは、言葉を選ぶように答えた。
「山側の聞き取りまで同じ回数で始めれば、九日分。途中で症状が増えれば、もっと短くなります」
「だったら、山へ分ける分がないの」
トワの母が訊いた。
「違います。分ける分を決めるには、山に今いくつあるかが要るんです。着くまでに何包使うかも。白樺谷では、前の便がいつ届いたか分からない」
「帳簿には?」
「先月の受領印が一つあります」
イレナは別の束を開いた。村ごとの受領記録は、在庫帳より薄い。白樺谷の欄には《補助薬十二》《薬湯六束》とあり、その横に、村会役ホルム・ダナの印が押されている。
日付は、五週間前だった。
サナは、自分の右手を見た。水の問題が起きたとき、杯を持つ指が震えた。今はほとんど治まっているが、寒い朝には親指が遅れることがある。その変化を月に一度確かめると、昨日の会議で決めたばかりだった。
五週間あれば、白樺谷の薬は使い切っていてもおかしくない。
「残っている数を聞けばいいんじゃないですか」
「聞きに行く人が、薬を運ぶ人と同じ道を通ります」
薬庫の戸口から声がした。
レントが、肩へ雪を乗せたまま立っていた。隣にはノアがいて、濡れないよう外套の内側へ紙束を抱えている。
「北の伝令所から、昨夜の札を借りてきました」
ノアが机へ置いたのは、細長い板札だった。途中の宿駅を通るごとに、小さな穴へ色糸を通す仕組みになっている。しかし五つある穴のうち、糸が通っているのは最初の一つだけだった。
「白樺谷から出た札ですか」
サナは訊いた。
「白樺谷へ向かった確認札です。三日前に最初の宿駅を出て、その先の印がない。戻ってもいません」
レントは、配達先の紙を見た。目の奥に、あの細い光が走ったのがサナにも分かった。《連環視》が何かを示しているのだろう。けれどレントは、すぐに道が切れたとは言わなかった。
「薬庫から最初の宿駅までは、行けたんですね」
「はい。そこまでは北橋を使わない徒歩便でした」
「その先で必要になるものを、順に教えてください。道だけじゃなく」
ノアが、配達紙の裏へ新しい欄を作った。荷車。車軸。橋。御者。替え馬。飼葉。宿。道案内。薬を渡す者。戻るための食料。
サナは、その最後へ一つ足した。
「薬を飲む水も」
レントが頷いた。
「凍らない入れ物も要ります。包みが濡れたら使えない薬は?」
イレナは木箱の中を分けた。粉薬は湿りに弱い。補助薬は凍っても戻せるが、急に炉へ近づけると固まる。薬湯の束は軽いが、村で煮る薪がなければ役に立たない。
薬の数を数えていたはずなのに、机の上には薬ではないものが増えていった。
廊下から、杖の先が床を擦る音が近づいた。向かいの病室にいた木工職人だった。まだ左足を引きずっている。退院の予定は三日後だが、その前に、手の震えが戻らないかを確かめる長期調査の最初の聞き取りを受けることになっていた。
「山へ薬を出すなら、俺の分を減らせ」
木工職人は、机の白い包みを見て言った。
「今朝は皿を持てた。腹も痛くない。白樺谷の子どもが熱なら、そっちへ」
サナはすぐには頷かなかった。自分の分を譲るという言葉は、優しく聞こえる。だが、誰がもう薬を要らないかを、朝の一度だけで決めることになる。
「減らすなら、イレナさんと決めてください」
「俺がいいと言ってる」
「よくなった人から薬を取れることにしたら、次の人は、まだ震えていても元気だと言うかもしれない」
木工職人は杖へ体重をかけたまま、口を閉じた。水の問題が起きた朝、彼はサナへパンを半分くれた。分けてもすぐには困らないものと、使うべき日に残しておくものは違う。
イレナは彼の調査札を開いた。
「今日の補助薬は、もともと使用予定なしです。予備として二包、三日分を確保しています。そのうち一包は、退院時の移動中に使う分。もう一包は、明日の聞き取りで必要なければ共同分へ戻せます」
「明日まで待つのか」
「山の子どもには、別の箱から今出します。あなたが元気だと言ったから出せるのではなく、病棟の最低分と山へ出す分を、最初から別に決めます」
トワの母が、小箱を机の端へ寄せた。
「川沿いの家も、今日全部配るのをやめます。症状がある家と、聞き取りがまだの家へ先に一包。残りは明日の箱へ。山へ行く人が決まったら、その人に持ってもらう分をここから戻す」
「配る回数を減らすと、聞き取りも減る」
サナは言った。
「だったら紙だけ先に届ける。薬をもらうために答える紙じゃないって、前に決めたでしょう」
薬包、聞き取り紙、配達人を同じ箱へ入れなければ、一つが止まっても全ては止まらない。サナは新しい小箱へ《白樺谷・熱冷まし・先行》と書いた。まだ運ぶ人の名はない。それでも、病棟の誰かが薬を諦めた結果ではなく、共同分から出すことだけは決まった。
若い看護者が、戸口から箱を見ていた。
「私、背負って行けます」
「今日の夜番は?」
イレナが訊いた。
「代わってもらいます」
「誰に」
若い看護者は答えられなかった。薬を運ぶ人を一人増やすだけで、病棟から夜番が一人減る。長い道を歩いて戻った翌朝にも、同じ速さで患者の脈を読めるとは限らない。
「運べる、だけでは名前を書きません」
サナは、配達人の欄へ線を引かなかった。
「行って、渡して、眠って、戻るまでを決めてから。ここに残る人も」
自分が患者の立場からそんなことを言うようになるとは、旧館にいたころは思わなかった。あのころは、誰かが来ることだけを待っていた。今は、来た人が次の夜に倒れないことも、薬の行き先と同じ紙へ置きたかった。
サナは、白樺谷の空欄を見た。昨日までは《配達先・未記入》だった。今は村名がある。けれど、村名を書いただけでは、箱は一歩も動かなかった。
「ここに十二日分あるって、村の人に言ったら」
サナは言った。
「待てると思ってしまうかもしれない」
イレナは答えなかった。代わりに、帳簿の《十二日分》へ細い線を引き、その横へ《治癒院内で使用する場合》と書いた。
そのとき、外で鐘が鳴った。
治癒院の鐘ではない。低く、遠い音が三度。少し間を置いて、また三度。窓ガラスがわずかに震え、薬包の上に積もっていた細かな薬草の粉が落ちた。
イレナが顔を上げた。
「北の中継鐘です」
サナも、その鳴らし方を知っていた。救助を求める連打ではない。火災を知らせる長音でもない。足りないものを隣の中継所へ送る、冬前の合図だった。
廊下を走ってきた看護者が、戸口で息を整えた。
「白樺谷から伝言です。子ども用の熱冷ましが昨夜で切れた。大人用を砕いて二人へ使ったけれど、今朝から新しく三人、熱が出ています」
棚には薬があった。
けれど、三度ずつ鳴る鐘の先では、もう一包も残っていなかった。




