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俺に魔法は使えない。でも、なぜ王国の結界が落ちたのかは説明できる  作者: pj.masta


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第5巻 第40話 倉庫には薬がある

サナは、会議の机に、自分の症状の紙を置かなかった。


 代わりに、紙の端へ小さく写した欄を三枚並べた。一枚目には《腹の痛み・手の震え・前兆》。二枚目には《水を飲んだ、洗った、使わなかった》。三枚目には《聞けなかった》。どれにも名前はない。


 領主庁の集会室には、鉱山の坑夫、川沿いの家から来た者、治癒院の夜番、洗い場の者が座っている。窓の外では、北水路へ戻った水が、いつものように石樋を流れていた。水差しを持って来た人はいない。杯を戻した日であっても、会議で誰かに飲ませる必要はないと、皆がもう知っている。


 フェルド・アランが、机の中央に置いた紙を読む。


 「補償、公表、健康調査、代替雇用。この四つを、今日の紙で確定したい」


 言い方は静かだった。けれど、確定という言葉の後には、誰が帳簿へ名を書き、誰が次の冬を越せるかが続く。


 「まず補償です。北水路の停止で仕事を休んだ者、症状のために診察や水の受け取りへ時間を使った者、鉱山停止で待機になった者へ、非常費を出します」


 机の端で、トワの母が手を上げた。


 「震えた子だけがもらえるんですか」


 フェルドは一度、紙から目を上げた。


 「症状の聞き取りがある家を優先に――」


 「うちの子は朝に震えました。でも、古い水を残して洗い物に使ったのは私です。紙へ書けば、私は補償をもらうために子どもの手を使ったみたいになる」


 母親の声は大きくなかった。サナは、診察台の前でトワが親指のぴりぴりを言った朝を思い出す。困ったことを話せば助けが来る。その形が、家の事情を皆の前へ出す形になれば、次に困った子は黙る。


 「症状の紙を、補償の申請書にはしません」


 サナは言った。


 「水を受け取るために仕事を休んだこと、診察へ付き添ったこと、取水停止で使えなかった時間は、家ごとに申請できます。症状を詳しく書かなくていい。健康調査へ協力するかどうかも、補償とは分けます」


 フェルドは眉を寄せた。


 「それでは、影響の範囲が――」


 「範囲は、名前のない集計で出せます」


 イレナが続けた。


 「腹痛が何件、震えが何件、聞けなかった家が何件。水を使った刻と使わなかった刻。必要なのは、誰の子がどんな朝を過ごしたかを、補償の机へ置くことではありません」


 フェルドは紙の余白を見た。産業の補佐として、鉱山の再開が遅れれば失業を数えなければならない。だが、症状の名を並べれば、町へ戻った水がまた恐れられ、坑夫の仕事まで遠のくとも考えているのだろう。


 「公表の紙は、どうする」


 彼は訊いた。


 「鉱山の名を隠せば、町はまた黙らされたと思う。患者の名まで出せば、誰も治癒院へ話さなくなる」


 オルドが、椅子から立った。


 「鉱山側は、放流鐘の空白と、汚染に慣れた石を使い続けたことを出す。段階操業で炉を動かし、途中で黄を見ても止めるのが遅れたことも書く」


 部屋の奥で、坑夫の一人が顔を伏せた。自分が鐘を鳴らさなかったと、町の人へ名指しされるのを恐れているのかもしれない。


 オルドはその方を見ずに続けた。


 「だが、空白を作った者の名は出さない。現場で一人が黙れば、次の者が気づける箱も札もなかった。俺が坑夫長として、箱を一人に渡し、弁の判断を閉じていた。そこは隠さない」


 マラが、洗い場の帳面を膝へ置いた。


 「町側も書くよ。苦味を言ったリナの話を、最初は水番の気にしすぎだと言った人がいた。私も、洗い物を止めたら仕事が終わると思って、症状の札より桶を先に見た」


 「それは町の責任とは違う」


 誰かが言った。


 「違うから書かない、ではない」


 マラは答えた。


 「責任を同じにするためじゃない。次に水番が苦いと言ったとき、誰が先に何を見ればいいかを、公表の紙へ残すためさ」


 フェルドは、ようやく新しい紙を引き寄せた。上に《黒嶺水系の公表》と書き、五つの欄を作る。起きたこと。まだ分からないこと。止めたこと。戻したこと。次に止める条件。最後の欄だけは、町と鉱山と治癒院の印がそろうまで空白にした。


 「健康調査は、誰が受ける」


 サナは、集会室の後ろにいる人たちを見た。


 「受ける、ではなく、続ける人を募ります。症状があった人だけではありません。水を使わなかった人、途中で町を離れた人、調理水を選ばなかった人も、月に一度、体の変化と水の使い方を記録する。やめることもできます。結果は名前を外して公表する。薬をもらうために、調査へ答える必要はない」


 トワの母が、息子の肩へ手を置いた。


 「トワは、書きます。自分で、靴の紐が遅いって言えたから。でも、学校で皆の前に読まれる紙にはしないでください」


 「本人の紙は、本人と家と治癒院だけで見ます」


 サナは答えた。


 「町へ出すのは、名前を外した数と、次に水を止めるための条件だけです」


 トワは少し考え、母の手から離れた。


 「前の日、靴の紐が遅かったって、書いてもいい。水を飲んだあとだけじゃないって、先生にも分かるから」


 サナは頷いた。子どもの前兆は、町を怖がらせるための証拠ではない。次に低い台へ杯を置き、手伝う刻を選ぶための手がかりだ。


 次に、ノアが代替雇用の名簿を広げた。坑夫四十二人の名の横に、採水箱、処理炉の補助、沈め穴の運搬、北橋の補修、雪前の道標の確認が並んでいる。


 「採掘を戻すまでは、ここから選べます」


 ユードが、名簿の端を押さえた。


 「選べると言っても、坑内の賃金には届かない」


 「届きません」


 ノアは答えた。


 「非常費と領主庁の補助で、七日ごとに見直す額です。危ない仕事を高くして、水位が上がっても降りる人を増やす案は出しません。その代わり、採水と道標は半日単位、橋の補修は二人組、処理炉は薬材を量る人と運ぶ人を分けます。できない場所を言っても、名簿から外さない」


 ネリは、運搬の欄を見ていた。坑内の水音を聞くと足が止まる彼女は、沈め穴の荷を運ぶ仕事へ自分の名を置いた。水を扱う仕事から離れたわけではない。だが、暗い坑道へ戻らず、明るい道で交代できる場所を選んだ。


 バンは北橋の補修へ丸を付けた。


 「深い水へは入らない。板の上から石を渡すなら、できる」


 オルドは、その丸の横へ二人組と書いた。前なら、できると言った者を一人で行かせただろう。今は、できることの後ろに、途中で代わる人の名まで置く。


 坑夫の若い男が、採水箱の欄を指した。


 「町の人は、俺が箱を持つのを嫌がらないか」


 マラは、青紐を持ち上げた。


 「嫌なら、黒紐だけで箱を閉めるんじゃない。私か別の町側が次の留め具を見て、同じ箱で受け取る。箱を持つ人を信用しろとは言わない。箱を一人で決められない形を、皆で守る」


 男はしばらく青紐を見てから、採水箱の朝当番へ名を書いた。


 夕方までに、四つの紙には印が増えた。補償は症状の詳しさと切り離す。公表は名指しの謝罪で終わらせず、空白と停止条件を出す。健康調査は参加も離脱も選べる。代替雇用は足りない賃金を隠さず、無理をする人を選別しない。


 トワの母は、補償の紙へ《給水列・三刻》《診察付き添い・一刻》とだけ書いた。息子の震えの欄は空白のままだ。隣で、若い坑夫は北橋の補修を半日、採水箱を朝だけ、と選んだ。夕方には母の薬を届けるため、夜番には出られないと書き添える。どちらも、前なら理由を説明して許しをもらうための言葉だった。今は、明日の組み方を他人に渡すための欄になっている。


 フェルドは、その二つの紙を見てから公表の最後へ印を押した。


 「補償の額と、鉱山停止中の仕事の数は、五日ごとに掲示します。足りなければ、足りないと出す。公表の紙を出したあとに、賃金や薬を減らして帳尻を合わせることはしません」


 約束だけなら、紙はいくらでも重ねられる。けれど五日後に、誰が札を読むかも、箱の時刻表の横へ書かれた。サナは、そこで初めて、会議の紙が机の中へしまわれずに済むかもしれないと思った。


 水の問題は、終わったのだとサナは思った。正しく言えば、北水路の水を飲めるかどうかだけを、誰かの舌や一つの石に預ける問題は終わった。採水箱は三つの紐で閉じ、杯の札がまた掛かる条件も、治癒院と坑口の両方にある。水を恐れずに使える朝が、町へ戻っている。


 会議が散ったあと、サナは薬庫へ戻った。イレナと、トワの母が、長期調査用の薬包を小さな木箱へ分けている。川沿いの家へ渡す分、山側の村へ回す分、治癒院に残す分。帳簿には、十二日分の数字がきちんとある。


 「山側は、荷車で二日あれば着きます」


 トワの母が言った。


 「雪が来る前なら」


 イレナは、配達の紙をめくった。


 水車は代替水を運ぶため、北橋の荷車は補修材を運ぶために出ている。治癒院の軽い荷車は、車軸の片側にひびが入り、今は薬庫の裏で車輪を外されていた。山裾の歩道は、雨で土が崩れ、二人で背負うしかない場所がある。さらに、薬を渡して聞き取りもできる者は、治癒院と給水列に残さなければならない。


 「帳簿では、足りているのに」


 トワの母は、木箱の蓋を閉めた。


 「薬はここにあるのに、村へ持つ人も、通る道も、荷車も足りない」


 サナは、配達先の紙へ並んだ村の名を見た。雪前なら二日、と書かれた線は、荷車が一台空き、道を知る人がいて、橋が崩れないことを、全部当たり前にしている。


 薬庫の棚には、必要な包みがある。水も町へ戻った。足りないのは、数ではなく、雪前に確かに全て届くまでの手と時間だった。


 けれど、その夜、山側の村へ向かう木箱には、まだ誰の運送札も結ばれていなかった。雪の気配は、薬庫の窓の外にもう近かった。

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