第5巻 第39話 同じ採水箱
オルドは、採水箱の留め具を閉める音を聞いた。
木の箱は、鉱山で使っていた工具箱よりずっと小さい。中には瓶が三本しか入らず、石を沈めるための浅い皿と、濡れた札を入れる油紙がある。けれど、留め具へ通す紐は三本だった。町側の青紐、鉱山側の黒紐、治癒院の白紐。どれか一本でも結ばれていなければ、箱は川へ持ち出さない。
「箱まで三つに縛るのか」
坑夫のユードが言った。
朝の冷えの中で、彼は採水箱を見下ろしている。排水輪を回すより前に、上流の避難棚へ歩き、箱を持ち、中流の札を待ち、戻ってからまた水位板を読む。採掘が止まっている今、その手間は賃金にならない仕事へ見えるのだろう。
「紐を一本にすれば、早い」
ユードは続けた。
「黒嶺の者が採って、リナさんが石を見て、治癒院が症状を読む。それで足りるんじゃないか。毎回、三人を揃えるなら、雨の日は採れない」
箱の向こうで、マラの口元が固くなった。
「黒嶺の者が採った水を、町が見ないで受け取れってことかい」
「そう言ってない」
「前の帳面では、放流鐘が一回足りなかった」
ユードは、言い返しかけて黙った。あの空白を作ったのは彼だけではない。けれど坑夫の側へ立つ者の言葉が、今はどこまで届くか、オルドにも分かる。
「三人で歩く必要はない」
オルドは言った。
箱を持ち上げ、机の上へ置く。
「同じ刻に、同じ箱を、同じ順で渡す。上流は鉱山側が採る。中流の封は町側が見る。下流の瓶を治癒院側が受け取る。全員が川へ来るのではなく、次の者が前の者の札と留め具を見る。箱を一人で開ける刻をなくす」
「それで、誰かが遅れたら」
ユードが訊く。
「その刻は、飲水を増やさない」
オルドは答えた。
速く答えた自分に、少し驚いた。前なら、遅れた分を自分が走って埋めただろう。箱を一人で担ぎ、石の色を聞き、弁へ戻り、誰にも待たせなければ済むと思ったかもしれない。
「箱が来ないなら、止めるのか」
ユードは低く言った。
「水を待っている家がある」
「ある」
「坑道の水位も、待たない」
「だから、止める条件を同じ紙へ置く」
オルドは、黒紐の端を指で押さえた。
「採水が遅れたのに、前の青だけで弁を開ければ、また誰かへ理由を渡さずに流すことになる。坑内水位が赤線へ近づいたら、放流を増やす前に共同席へ札を飛ばす。人が揃わないなら、弁を開けるだけの決定も、飲水を増やす決定も、どちらもしない。困る刻を隠さない」
それは楽な決め方ではない。処理炉を止めれば坑内の水位が上がる。飲水を増やさなければ、東の泉の水車をさらに往復させる者がいる。だが、片方の困りだけを急ぎの理由にすれば、もう片方の人は、後から紙で知るだけになる。
マラが、青紐を箱の留め具へ結んだ。
「町側は、私とリナだけにしない。洗い場に出られない日は、給水列の娘か、トワの母が札を読む。字が読めない人もいるから、留め具の番号は、札と同じ傷を木へ付ける」
白い紐を持ったサナが、その言葉を受け取った。
「治癒院側も、症状の紙を持つだけの人にしません。聞き取りへ出る人と、病棟で薬を渡す人を交代にします。聞けなかった家を、症状なしにしない欄を、箱の札にも付けます」
「鉱山側は」
オルドは、ユードへ箱を差し出した。
「今日はお前が上流を採れ。だが、弁の判断は持たない。水位板を読む者と、箱を運ぶ者を分ける。俺が坑内へ入る日は、俺の名を箱の当番から外す」
ユードは受け取らなかった。
「俺が失くしたら」
「失くさないよう、次の者が受け取った時点で番号を書く。もし失くしたら、その刻は使わない。失くした者を隠すために、別の箱で水を汲むな」
しばらくして、ユードは箱の持ち手を握った。工具を持つ手とは違い、箱は軽い。その軽さが、かえって責任を逃がさない。
「当番に入る者の賃金は」
ユードは、箱を持ったまま訊いた。
「採掘が戻らないのに、箱を運ぶ半刻を自分の時間にするなら、続かない。坑夫だけにやらせるなら、町はまた、俺たちが水を選んだと言う」
ノアの筆が止まった。非常費は、採掘停止の待機分と処理炉の夜番で、もう余裕が薄い。けれど、善意で来られる者だけを当番にすれば、子を寝かせる家、洗い場を離れられない人、足を傷めた坑夫は、最初から水の判断へ入れない。
「一刻ごとの手当を、同じ額で付けます」
ノアは言った。
「採る、封を見る、運ぶ、聞き取るのどれでも同じです。危ない仕事に高い札を付けて、無理をする人を増やす形にはしません。人数が足りない刻は、採水を減らすのでなく、生活利用を前の段階へ戻す。非常費から出す期間は七日。七日目に、領主庁の補助と鉱山側の賃金を、また同じ席で決め直します」
マラは、洗い場の手を見た。
「洗濯の当番と重なったら、私は箱を持てない」
「交代を先に書きます」
サナが答えた。
「来られない理由を、皆の前で話さなくていい欄にします。来られない人がいるから箱を止めるのではなく、代わる人が決まっていない刻に、次の生活利用を増やさない。箱を守るために、誰かの家のことを聞き出さないで済むようにします」
オルドは、その条件を聞いてからユードを見た。
「採水は、鉱山の罰でも、町の見張りでもない。坑道を出た水のあとを、誰か一人に背負わせない仕事だ。賃金も、休む札も、最初から入れる」
ユードは黒紐を結んだ。結び目が緩んでいないかを、青紐と白紐の持ち主がそれぞれ指で確かめた。
採水の時刻表は、朝、昼、夜の三列になった。上流の避難棚を朝二刻に出た箱は、中流の橋下でマラへ渡り、下流の水番小屋でサナの当番へ届く。夜は逆順にする。毎回、同じ側が最初にも最後にもならないようにした。
ネルの白い石は隣領の封印筒へ戻し、十日ごとに町、鉱山、治癒院のうち二者が立ち会って取り出し、現用石と並べて読むことにした。ネルが来られない刻も、その筒を一人で開けず、比較の紙に空白のまま残す。
ノアは時刻表の端に、三つの停止条件を書いた。
《独立石のいずれかが安全帯を外れたら、飲水と新しい生活利用を止める》
《新しい腹痛、手の震え、聞き取れない家が増えたら、前の結果だけで進めない》
《坑内水位が赤線へ近づいても、放流を増やす前に町、鉱山、治癒院へ札を出す》
「赤線まで待ったら、坑内へ入れなくなる」
ユードが言う。
「近づいたら、だ」
オルドは答えた。
「赤線に触れてからではない。指二本下で札を出す。そこから処理炉をどこまで回すか、代替水をどこへ寄せるかを、皆で決める。俺だけが水音を聞いて、あとで正しかったかを問われる形へ戻さない」
その昼、三つの紐が結ばれた箱は、初めて時刻表どおりに戻って来た。
上流、中流、下流の瓶を、ネルの白い石とミナの予備石へ順に沈める。全てが安全帯の内側に収まり、下流も端ではない。放流弁は閉じたまま、坑内の水位は注意線より下。治癒院の聞き取りには、新しい腹痛も震えもなく、前日までの症状が残る人には別の印が付いている。未確認の家は、給水列の端まで二度回って、ゼロになった。
杯の札の前へ、町の人が集まった。
リナは、札を外す前に、三つの紙を読んだ。水の紙、弁の紙、身体の紙。どれも一枚だけなら、まだ頼りない。けれど同じ刻で並べると、飲水を戻さない理由も、戻すために残した条件も、皆の目の前にある。
「今日から、北水路の水を飲水へ戻します」
リナは言った。
「ただし、一度に全部ではありません。最初の二日は、配水札のある場所だけ。東の泉の水車は止めず、杯が足りない家には代替水を残します。症状が増えたら、石の色を待たずに、杯の札をまた掛けます」
誰かが、ほっと息を吐いた。別の誰かは、すぐには杯を差し出さなかった。オルドはその違いを、町がまだ疑っている印だとは思わなかった。選べる水が並び、使わないことに理由を言わなくてよいなら、急がない手も水を守る側にある。
最初の配水は、治癒院へも行った。イレナは新しい水差しへ北水路の札を結び、古い水差しとは別の棚へ置く。サナは患者の紙を水差しの数だけ増やさず、症状がある人、ない人、聞けなかった人を、同じ当番表で追うことにした。箱と同じで、病棟にも一人で閉じる紙を作らない。
夕方、治癒院の薬庫で、イレナが長い帳簿を開いた。
「長期健康調査の分です」
帳簿には、腹の痛みを和らげる粉薬、手の震えで器を持てない人用の補助薬、冷えと脱水へ使う薬湯の包みが並んでいる。今いる患者だけでなく、川沿いの家へ聞き取りに行く者が持つ分も必要になる。
「帳簿では、十二日分あります」
イレナは言った。
「症状が今の数で増えず、聞き取りを一日二回にするなら、調査用の紙と一緒に出せる量です。薬庫の棚と帳簿も、今、合わせました」
サナが、棚の包みへ自分の印を置いた。数だけがあっても、病棟の内側へ残れば、川沿いの人には使えない。だから、誰のための分かを箱の時刻表と同じ紙へ書く。
オルドは、帳簿の最後の欄を見た。薬の名と数の下に、《配達先・未記入》という空白が残っている。
「十二日分、ここにある」
彼は言った。
「だが、ここにあることと、雪の前に届くことは別だ」
薬庫の扉の外で、水車の車輪が石畳を鳴らした。飲水の札は外れたばかりで、採水箱は次の夜のために乾かされている。帳簿の数は合っていた。けれど、空白の配達先は、まだ誰の家にも薬を渡していなかった。




