第5巻 第38話 使える水
リナは、給水札から杯の絵を外さなかった。
水番小屋の前には、朝から新しい札が三枚並んでいる。一枚目は、たらいと布の絵。二枚目は、箒と床布。三枚目は、鍋と火。杯の絵は、その三枚の少し離れたところに残したままだった。
「洗濯からです」
リナが言うと、洗い場のマラは札を見上げた。
「包帯からではないんだね」
「包帯は、まだ東の泉の水を使います。最初は、町の作業着と床布だけです。着る人、洗う人、流れた先を見る人を分けられるものから始めます」
洗濯を軽い仕事だと思っている者はいなかった。水が足りなくなってから、洗い場では汚れた布を何日も順に待たせている。けれど、病人の包帯を先に戻せば、腹痛や手の震えが出たとき、その人の病気と水の影響を分けにくくなる。洗ってから着るまでの人も、捨てる水の行き先も多すぎる。
マラは、作業着の山から、鉱山の泥がついた上着を十枚だけ抜いた。
「これなら、洗うのは私とネリ。干すのは水車小屋の二人。着るのは明日の給水運びの人にする。肌がかぶれたか、手が冷えたか、腹が痛くなったかは、着る人だけでなく、洗った私たちにも聞く」
「流した水は」
オルドが訊いた。
「洗い場の排水溝へ戻さない」
リナは、町外れの古い沈め穴を指した。普段なら洗濯の灰汁を流すための穴だが、今は口へ木蓋がしてある。
「一回目の洗い水は、そこへ溜めます。川へ戻さず、前と後で瓶を採る。穴の縁へ札を立てて、子どもが手を入れないようにする。石が帯を外れたら、洗濯を増やさない」
「濁った水を、穴へ置いたままにするのか」
「置きません。半刻後に処理炉の沈め槽へ、量を決めて運びます。処理炉が受けられないなら、洗濯そのものを止める。布を洗うために、川の話を最初からやり直したくない」
ネリは、たらいの縁へ青い紐を結んだ。これは飲水ではない、という印だ。水番所の水と東の泉の水を、同じ桶へ一度でも混ぜないために、洗い場の小さな桶も全て別の紐で分けた。
洗う前、リナは中流の採水箱を開けた。ネルの白い石と、ミナの予備石を一つずつ沈める。白い石の輪は昨日より内側に止まり、予備石の青も消えなかった。ネリが、沈め穴の空の瓶へ番号札を結ぶ。マラは、自分の指先の冷えがないことを、洗濯の欄より前に書いた。
灰汁を混ぜた湯へ、最初の上着が沈んだ。泥はすぐに茶色く浮いた。マラは、いつものように腕を深く入れなかった。柄の長い棒で布を押し、ネリが反対側から返す。洗い終えた上着を絞る手は、濡れた指を見える所へ置いたまま動いた。
「こうして洗うと、遅いね」
マラが言った。
「はい」
リナは答えた。
「遅いから、今日の分を全部戻せないことも札へ書きます」
水を使えると言ってから、洗えない布を残せば、また誰かが勝手に桶を増やす。リナは洗い場の入口へ、《作業着十枚・一回のみ》《二回目は瓶と聞き取りの後》と書いた木札を掛けた。待つ人へ、今日はどこまで使えるかを先に見せるためだった。
半刻後、洗濯をした二人の手に新しい震えはなかった。干し場の二人も、濡れた上着を運んだ給水係も、腹の痛みを言わない。沈め穴の前後で採った瓶は、白い石で帯の内側、予備石は青だった。ネルは、同じ結果を読み上げてから、すぐに洗濯再開とは言わなかった。
「一回の洗いで、症状がないことは、次の十枚を許す理由にはなります。百枚を許す理由にはなりません」
マラは頷き、二回目の札へ時刻を書かなかった。次の採水と、着た人の翌朝の聞き取りが終わるまで、たらいを伏せておく。
午後、箒の札を、治癒院の入口へ移した。
清掃は、洗濯より水が少なく見える。けれど床へ撒いた水は、靴底につき、寝台の下へ流れ、汚れた布を絞れば手にも残る。イレナは病棟の床を見渡してから、掃除へ使う区画を一つだけ選んだ。待合の石床だ。患者の寝台、洗浄室、薬を調える台には、まだ東の泉の水を使う。
「掃除をする人が、症状を言えなかったらどうする」
サナが訊いた。
「一人で持たせません」
イレナは答えた。
「床布を絞る人と、時間を見る人を別にします。途中で指がぴりぴりしたら、理由を言わずに布を置けるよう、赤い紐を籠に結ぶ。赤い紐が見えたら、その日の清掃は終わりです」
リナは、その赤い紐を見て、水の札にも同じ印を足した。症状を説明できる人だけが、止める側に立てるわけではない。トワの親指のように、言葉になる前の遅さでも、水を使う作業を止められるようにしたい。
待合の石床へ、薄く水が撒かれる。床布は青紐の桶で洗い、使い終えた水は洗濯と同じ沈め穴へ運ぶ。窓を開け、湯気が病棟へ残らないようにする。掃除が済んだあと、サナは待合で薬を待っていた人へ、腹や手だけでなく、目の痛み、喉の違和感、転びそうになったことがないかを訊いた。何もなかった人にも、同じ問いをした。
夕方の記録では、新しい症状の札はなかった。洗濯の上着を着た給水係も、清掃をした二人も、夜まで変わりはない。川沿いの未確認三軒にも、給水列の者が回り、古い水を鍋や桶へ残していないことを聞いた。三軒のうち一軒は、雨水を溜めて洗い物に使っていた。リナはその家を数から外さず、《別水・症状なし》と書いた。別の水を使った人まで、今回の水で平気だった側へ入れないためだった。
沈め穴の水は、その夜、処理炉へ運ぶ前にもう一度測った。洗い水の灰汁で濁った瓶でも、白い石の輪と予備石の青は、朝のものから大きく外れなかった。ただ、リナは「問題なし」とは書かなかった。灰汁を混ぜた水が川へ戻らなかったから、下流の瓶が同じだったのかもしれない。処理炉へ入れる量を半分にした紙と、入れなかった残りを翌朝まで蓋付きで置く紙を、採水結果の下へ並べる。使えた水の後始末まで、使えたことの中に入れたかった。
ネリは洗い場のたらいを伏せたまま、二回目の水を汲まなかった。明朝、上着を着た給水係の手と、干し場の二人の腹をもう一度聞いてからにする、と札へ書く。水が戻った日に、作業を急いで増やす人が一番困らないように見える。だが、翌朝に聞く相手を残さなければ、止めるための人も残らない。
夜の共同席で、ネルは二日分の紙を重ねた。上流、中流、下流の独立石は、三回続けて仮の安全帯に入っている。下流の輪も、帯の端から一つ内へ戻った。放流弁は閉じたままで、坑内水位は処理炉の受けられる線の下に保たれている。新しい腹痛と震えは、放流停止後に増えていない。未確認の家は、今夜の時点でない。
「調理へ進む条件は、そろっています」
ネルが言った。
誰もすぐに喜ばなかった。調理は、鍋の湯気を見るだけでは終わらない。粥へ水を入れれば、食べる人の身体へ入る。リナは杯の札を見た。調理の鍋が火へ掛かれば、町の者には、もう飲水へ戻ったのと同じように見えるかもしれない。
「鍋を一つ、共同炊事場で使います」
リナは言った。
「でも、誰かに食べて証明してもらうためではありません。今夜の配給として、代替水の粥と並べて出す。食べない人の分は、代替水で残す。使った量、食べた人、食べなかった人、残った鍋、翌朝の聞き取りを、同じ紙へ残します」
「選ばない人が、鉱山を恨んでいるように見えないか」
オルドが低く言った。
「見せないようにします」
リナは答えた。
「札は、どちらの粥も同じ皿へ置くとだけ書きます。理由を言わずに選べる。選ばなかった人の名は、調理水を使わなかった人数として数えるだけで、誰が選ばなかったかは掲示しません」
共同炊事場の釜には、最初に中流の水が入った。採水箱の番号、沸かし始めた刻、火を弱めた刻、粥をよそった刻が、釜の横の紙へ書かれる。鍋の蓋を開ける者と、粥を配る者を分けた。サナは給仕の横に立ち、食べる前から手が震えていた人が、食べたあとに増えたように数えられないよう、本人の前兆を先に聞いた。
夜更けまでに、調理水の粥を選んだ者は二十人、代替水の粥を選んだ者は十七人だった。残りは持ち帰らず、鍋ごと封をした。誰かの空腹を試験へ変えないため、代替水の粥も同じだけ作ってある。食べた人の表情を、リナは安全の証に数えなかった。
翌朝、石はまた三地点で帯の内側を示した。清掃と洗濯の排水を受けた沈め穴も、処理炉へ送る前後で帯を外れなかった。聞き取りの紙には、夜から新しく腹を押さえた者、手が震えた者はない。調理水の粥を食べなかった十七人にも、同じことを訊いてある。
リナは、たらい、箒、鍋の札へ、それぞれ小さな丸を付けた。それから、少し離れた杯の札を見た。
杯の前には、ネルが前夜に書いた条件が残っている。独立石の連続測定、放流停止の記録、用途ごとの排水、症状の聞き取り、未確認の家がないこと。今朝までの紙は、全てそこへ印を付けられる形になった。
「飲水を戻せる条件は、満たされました」
リナは、共同席の皆へ言った。
「でも、戻すかどうかは、次の確認で決めます。今ここで杯の札を外すのは、一人ではやりません。次の採水、治癒院の聞き取り、鉱山の放流弁を、町と鉱山とネルさんで一緒に見てからです」
朝の光が、まだ外していない杯の絵へ当たった。札の下では、洗濯物が一枚ずつ風に乾いている。使える水は増えた。だが、誰がいつ飲める水へ戻すかは、次の紙と、次の席の間に残っていた。




