第二十話 三つの案
翌朝、臨時調査室の壁に三枚の大きな紙が張られた。紙だけで決めないため、蓮人たちは三案を抱えて町へ出た。最初は治癒院だった。
生命維持床には、北畑で四十年小麦を作ったオル爺が横たわっていた。胸の青い術式が呼吸に合わせて明滅する。
「南区画へ移せますか」
「担架の揺れで肺の傷が開く」
老医師は首を振った。隣の床では腕を折った少年が座り、母親が「うちの治療を止めて」と言う。
「家族の善意で順番は決めない。止められる術式、遅らせられる治療、止められない床を先に分ける」
第一案の紙へ、必要な蓄魔石と移動できない患者名を書いた。
次は市場。魚屋の冷蔵箱を実際に止め、温度が上がる速さを測る。板氷で二刻。濡れ布と地下倉を使えば、安い魚から共同厨房へ回せる。
「腐る量だけ書くな。今日売れなければ明日の仕入れ代がない。箱を止める順番は、店を潰す順番にもなる」
氷屋は祭り用の板氷を治癒院へ回せるが、後払いでは従業員の賃金が遅れると言った。共同厨房は冷蔵できない肉と魚を買い取り、避難食へ煮込む案を出す。
最後に城壁へ上がる。祭り警備と防衛を同時に置くと、北東角に十二人の空白ができた。退避路を一つ増やせば、そこから四人戻せる。
「全面停止なら半日持つ、では足りません」
「最初の魔獣が来る方角で変わる」
セラは時間ではなく後退条件を書いた。負傷者五名、北門前へ大型二体、治癒術師の魔力半減。どれかで第二線へ下がる。
三案は会議室を出る前より重くなった。一行ごとに、顔と賃金と待てる時間がついていた。現地確認は、それぞれの案を一度だけ小さく試すところまで続けた。
治癒院では北塔供給を百数える間だけ下げ、独立蓄魔へ切り替える。三床は安定したが、オル爺の床だけ切替時に呼吸が一度止まった。老医師が手動術式を入れ、すぐ供給を戻す。
「蓄魔石があれば安全、ではない」
老医師は切替に二人必要と書いた。石の数を確保しても、夜勤者一人では第一案へ移れない。
市場では冷蔵箱を一列ずつ交代停止した。魚屋同士が、売上の少ない店から止める案へ反発する。
「小さい店から潰す気か」
「量の多い店を止めれば、腐る魚が増える」
共同厨房の女将が、店の大小ではなく品物の傷みやすさで順番をつけた。川魚、肉、根菜。店ごと止めるのではなく、一つの箱を複数店で共有する。入れる順番を巡る口論は残ったが、一店だけへ損失を集めずに済む。
城壁では第一線から第二線への後退を実際に行った。セラは最初、確実な魔獣数がわかるまで配置を変えない案を出した。昼の塔で判断を遅らせたことを思い出し、自分で取り消す。
「大型二体を確認してからでは、北門まで来る。見張り二人の報告が一致、または一人の報告と地面の振動で準備へ移る。誤報なら百数え後に戻す」
可逆な準備と、戻す時刻を先に置く。兵士は二度配置を変え、一度目に塞いだ避難路を二度目で修正した。
臨時調査室へ戻るころ、三枚の紙は泥、魚の水、治癒院の薬で汚れていた。きれいな比較表ではなく、町を歩いた判断表になった。
紙を乾かしていると、治癒院からオル爺の孫娘が来た。祖父が、祭りのために自分を危険へさらすなと言っているという。
「祭りか、お祖父さんかを選ぶ案ではありません」
蓮人は三枚を見せた。少女は文字を読めず、ミナが患者名と切替手順を読み上げる。
「お祖父ちゃんの床だけ、先に蓄魔へつなぐ?」
「切替で呼吸が止まったので、術師を二人つけて再試験します」
「失敗したら」
「第一案は選べません。北塔を動かしながら直す第二案へ残します」
少女は安心しなかった。それでも、自分の家族が表の「患者二人」ではなく、名前で扱われていることを確かめた。
次に魚屋が来て、共同箱へ入れる順番へ異議を出す。老医師は蓄魔石を市場から借りる代わり、治癒院の地下冷室を魚の一時保管へ貸すと提案した。
「患者の場所へ魚を入れるのか」
「薬草庫とは壁が別だ。空いている場所を、規則だけで空けておく余裕はない」
現場で案を試したことで、新しい交換条件が出る。三案は採決のための選択肢ではなく、選べる状態へ近づける作業表になった。
第一案。北塔を全面停止して点検。
第二案。高負荷設備を止め、北塔を低出力で維持。
第三案。現状のまま稼働し、異常時に緊急停止。
「第一案が最も安全だ」
セラが言った。
「設備にとっては」
蓮人は答えた。
「結界がなくなる間、魔獣への備えが必要です」
「守備隊を城壁へ集中させる」
「何時間維持できます?」
「全隊なら半日。祭り警備を削れば一日」
「治癒院は」
ミナが供給図を広げる。
「北塔停止後、蓄魔石で二刻。南塔から迂回すれば、最低限の治癒術だけは一日。ただし生命維持床を三床以上同時には使えません」
「いま何人が使っている?」
「五人です」
全面停止は設備を安全に点検できる。その間、患者二人分の生命維持が不足する。
「第一案は、そのままでは選べません」
紙へ赤い印を置く。
「治癒院の患者を南区画へ移すか、独立蓄魔石を追加できれば選択肢へ戻せます」
「患者を動かす方が危険な者もいる」
治癒院から来た老医師が言った。
「では必要な蓄魔石の数と、運べる場所を出してください」
「祭り前に余っている蓄魔石などない」
商人組合長が口を挟む。
「余っていなくても、優先順位を変えればあるかもしれません。歓迎紋、広場照明、冷蔵箱」
「食料を腐らせろと?」
「止めると何時間で、何が、どれくらい失われるかを知りたいんです」
第二案へ移る。
高負荷設備を止め、北塔の出力を七割以下へ抑える。
歓迎紋は中止。
迎賓館は客室一棟のみ。
市場の冷蔵箱は交代運転。
鍛冶工房は昼間だけ。
「祭りの規模は半分になる」
商人組合長が言った。
「だが中止よりはましだ」
「北塔を動かしたまま、冷却輪を完全には分解できません」
ガルドが指摘する。
「出口の絞りを外から洗い、測定石を仮設するところまでだ。摩耗部品の交換はできねえ」
「いつまで持つ?」
「負荷を七割に抑えりゃ、祭りの三日間は見る。保証はしねえ」
「七割を超えたら」
「止める」
誰が止めるか。
また同じ問いへ戻る。
第三案。
現状稼働。
祭りも歓迎紋も予定通り。
警報が鳴ったら、現場で対応する。
「経済損失は最も少ない」
ノアが言う。
「短期的には」
「結界が落ちれば最大になる」
セラが紙へ黒い印をつけた。
「守備隊としては認められない」
「結界庁主任は第三案を主張しています」
ミナが言った。
「規定値は正常。上書き管を外したため、警報も復旧。異常時には対応できると」
「対応する人員は」
「増えていません」
「水輪が止まってから炉心が紫になるまで十五秒」
蓮人は言った。
「夜勤者が鐘楼にいれば、塔へ戻るまで間に合わない。警報が鳴るようになっただけで、対応できるとは限りません」
三案を並べる。
どれにも欠点がある。
安全だけを見れば全面停止。
生活と祭りだけを見れば現状稼働。部分停止は、その間にある妥協ではない。何を止め、何を残すかを一つずつ決める、最も手間のかかる案だった。
「第二案を軸にします」
蓮人は言った。
「ただし、第一案へ移る条件を先に決める。流路圧、炉心色、出口温度、水輪音。どれかが基準を超えたら、高負荷設備を追加停止。それでも戻らなければ北塔を止める」
「歓迎紋は」
ノアが問う。
「試験だけ、最低出力で行う。本番使用は、試験結果を見て決める」
「王命には本稼働とあります」
「技術判断だけでは決められません。代官閣下に、三案と損失を出します」
商人組合長が腕を組む。
「損失額は出せる。だが、人の命と同じ表に金貨を書くのか」
「同じ価値だとは言いません」
「なら比べられん」
「比べられなくても、同時に見せる必要があります。金貨だけで決めさせないために」
治癒院の老医師が、第一案の紙へ五人の患者名を書いた。商人組合長は、第二案へ腐敗のおそれがある食料量を書く。セラは、全面停止時に城壁へ必要な兵数を書く。
ガルドは、各案で実施できる修理範囲を書く。ノアは、王命違反となる箇所と、緊急避難条項を書く。
数字だけの比較ではない。
誰に何が起きるかを並べた。
「これを代官閣下へ」
ミナが紙を持とうとした。
蓮人は止めた。
「説明するのは、俺ではなく各担当者です」
「あなたがまとめたのに?」
「俺が全部説明すれば、俺の案になります。これは皆が出した条件です」
三枚の紙を、それぞれの担当者が持つ。会議室へ向かう廊下で、治癒院から伝令が走ってきた。
「生命維持床の一つが不安定です!」
北塔の流路圧は正常。
警報も鳴っていない。
それでも、全面停止時の最大の懸念が、停止する前から起き始めていた。全員が治癒院へ走りかけ、蓮人が止めた。
「現場担当は老医師とミナさん。ほかは、決めた代替を準備してください」
セラは城壁班を動かし、商人組合長は独立蓄魔石を運ぶ。ガルドは南塔迂回の弁を確認し、ノアは発生時刻と現在の三案を持って治癒院へ向かった。
生命維持床は完全停止ではなく、一定間隔で光が弱くなっていた。オル爺の孫娘が胸の上下を数え、弱まる直前に呼吸が浅くなると医師へ伝える。
「北塔の数値は正常です」
ミナが言う。
「なら患者を見ます。床だけを見ない」
老医師が手動補助を入れる。南塔からの迂回を一割だけ開くと、明滅は止まった。
「第一案へ移る前に起きた。計画が間違っていた?」
「いいえ。停止時だけでなく、現在運転中にも供給が揺れるとわかりました」
蓮人は第二案へ条件を加える。生命維持床の明滅一回で治癒院へ確認。二回連続で市場冷蔵を追加停止。戻らなければ北塔停止準備。
少女の観察も正式な報告経路へ入った。専門家ではないから判断はしない。変化を見つけ、医師へ届ける。
汚れた三枚の紙が、最初の現場判断に使われた。少女が寝台の横で数を続ける間、生命維持床の灯は次の二十数えまで消えなかった。




