第二十一話 止めた後の町
治癒院の生命維持室には、五つの寝台が並んでいた。それぞれの床下に青い紋が刻まれ、患者の呼吸に合わせて明滅している。
不安定なのは窓際の一床。
光が、二回に一度弱くなる。
「患者は?」
セラが問う。
「いまは安定している」
老医師が答えた。
「だが供給が途切れれば、補助呼吸術が止まる。この者は自力で長く息を続けられん」
寝台には年老いた女性が眠っていた。
数字の「一床」ではない。
呼吸する一人の人間だった。
名はマーサ・リンド。六十二歳。市場通りで三十年、魚を包む油紙を作ってきた女だった。枕元には、孫が置いていった小さな木彫りの魚がある。青い紋が弱くなるたび、魚の尾へ落ちる影も薄くなった。
「三日前までは、自分で粥を食べていた」
娘のエナが寝台の反対側から言った。夜通し付き添っていたらしく、結った髪が半分ほどけている。
「祭りが終わったら店へ戻るって。油紙は魚屋が待ってるからって」
老医師は娘を慰めなかった。代わりに、生命維持床の脇へ砂時計を置く。
「蓄魔石だけなら二刻。手で補助呼吸を続ければ、その倍は持たせられる。ただし術師が三人要る。ほかの四床にも一人ずつ必要だ」
全面停止という言葉が、初めて人の顔と時間を持った。
老医師は補助呼吸の手順を実演した。青い紋が消えたら、胸元の革袋を一定の間隔で押す。速すぎれば肺を傷め、遅ければ息が足りない。
エナが最初に試す。母親を苦しませるのが怖く、押す力が弱い。
「床の明滅と同じ速さだ」
医師が手を重ねた。
「機械の代わりを一人で続けるな。三十数えたら次へ渡す」
治癒院の見習い、守備隊の衛生兵、マーサと同じ市場で働く二人が順に練習した。魚屋のダロも列の最後にいた。
「俺は魚しか触ったことがねえ」
「だから今、練習する」
エナが答える。
一人の患者を守るために、設備の予備だけでなく、人の交代も必要だった。
蓄魔石には番号札を付けた。使用中、充填済み、空。色だけに頼らず、触れば区別できるよう結び目の数も変える。
北塔からの供給が戻っても、この箱は解体しない。次に止まったとき、誰が最初の三十を数えるかまで紙へ残した。ミナが床の供給紋へ確認石を当てる。
「北塔からの入力は規定内です」
「また入口だけか」
ガルドが言った。
治癒院の技師がむっとする。
「院内配分も正常だ。中央盤を見ればわかる」
「この床へ届いた量は」
「床の確認灯は青だ」
「何を測ってる」
同じ会話が、北塔の外でも繰り返されていた。
蓮人は寝台の下をのぞいた。
供給紋から床へ入る線。
生命維持術へ渡る線。
その途中で、一部が隣の壁へ流れているように見える。
連環視の淡い光。
「壁の向こうは?」
「薬品保冷庫です」
老医師が答える。
全員で隣室へ移る。
保冷庫の扉には霜が厚く付いていた。通常より冷えすぎている。
「昨夜から、薬草が凍ると報告がありました」
院内技師が言う。
「生命維持床が弱くなった時期と同じですか」
「……おそらく」
中央盤では、二つとも正常。
保冷庫は必要以上に冷え、生命維持床は不足している。
総量は合っている。
配分が違う。
「最近、変更したことは」
「祭り期間の負傷者増加に備え、空き病室を二室開けた」
「ほかには」
「保冷庫の薬品を増やした」
「設定は」
「昨年と同じだ」
「昨年と同じ量ですか」
院内技師が黙る。
薬品量は二倍になっていた。
保冷庫は収納量に応じて冷気を強める。だが供給上限は去年と同じ。足りない分を、同じ院内流路につながる生命維持床から引いていた。
「北塔の問題ではない?」
ミナが言う。
「直接の原因は院内配分です」
蓮人は答えた。
「でも、北塔を止めた場合に何が起きるかを、先に見せてくれました。供給総量だけでなく、院内で誰を優先するか決めておかないといけない」
老医師は保冷庫と生命維持室を見比べた。
「薬品を凍らせれば使えなくなる。冷却を切るわけにはいかん」
「全部を同じ温度に保つ必要は?」
薬師を呼び、薬品を三つに分けた。
強い冷却が必要。
冷暗所でよい。
常温でも短期間なら保管可能。別の部屋へ移せる薬品を出し、保冷庫の負荷を下げる。
生命維持床の光が戻った。
「北塔を止めたときも、同じです」
蓮人は言った。
「供給が減ってから慌てて全部を守るのではなく、先に分ける。絶対に残すもの。短時間なら止められるもの。別の場所へ移せるもの」
治癒院だけではない。
一行は町を回った。
パン工房では、発酵箱を止める時刻をずらす。市場では、冷蔵箱を商品ごとにまとめ、空箱を切る。鍛冶工房では、大炉を止め、小炉だけを共用する。
浴場では、湯を沸かす時間を昼から深夜へ移す。穀物倉では、防湿紋を交代運転にする。どれも、止めれば不便や損失が出る。
だが、理由を説明し、止める時間を決め、代替を一緒に作ると、協力する人が現れた。
「祭り前に商売を邪魔されると思っていた」
パン職人が言った。
「だが夜明け前なら、焼き上がりは変えずに済む」
「全部止める話しか聞いてなかったからな」
市場の魚屋が続く。
「箱を半分にまとめるなら、氷屋から板氷を買えばもつ」
商人組合長が各店の変更を帳面へまとめる。最初は塔を止める損失額を出す役だった。いまは、止めても商売を続ける方法を集めている。
魚屋のダロは、冷蔵箱から祭り用の川魚を一尾ずつ出した。四十尾。箱を止めれば昼までに腹から傷み始める。
「氷屋の板を敷く。二つの箱を一つへまとめるぞ」
「うちの氷は治癒院へ先に回す」
氷屋の女主人が言い返した。荷車には青白い板氷が麻布に包まれている。
「患者の冷却布と薬棚で半分使う。市場へ出せるのは残りだけだ」
「それじゃ魚が全部入らねえ」
「全部を生で売ろうとするからだ」
共同厨房の料理人が包丁の背で魚籠を指した。
「脂の少ないのは塩へ。小さいのは今夜の炊き出しへ回せ。大鍋なら薪で焚ける」
ダロは顔をしかめた。祭り客へ高く売るはずだった魚を炊き出しへ回せば、冬に網を直す金が足りなくなる。
「代官庁が差額を補償するならやる」
「補償を待って腐らせるのか」
二人の声が大きくなり、店主たちが集まった。蓮人は間へ入らず、商人組合長へ尋ねる。
「今日中に使わないと失う量と、保存できれば祭り後も売れる量を分けられますか」
組合長は帳面を開き直した。魚屋は腹を立てたまま尾数を数え、氷屋は治癒院分を除いた板の枚数を読む。共同厨房は薪と塩の在庫を出した。
一刻後、冷蔵箱は八台から三台へ集約された。最初の一台は薬と患者用の氷、残り二台は保存の利く大魚。小魚は市場の女たちが腹を出し、塩桶へ並べた。
ダロの指は止まらなかったが、口数は減った。最後の一尾を桶へ入れると、木彫りの魚を作ったのは自分だと小さく言う。
「マーサ婆さんの孫にな。油紙がなきゃ、うちも商売にならん」
治癒院と市場は、別々の損失ではなかった。共同厨房へ運ばれた小魚は、その日のうちに大鍋へ入った。薪の火で炊くため、結界塔の負荷は増えない。
最初の椀は治癒院へ送られた。マーサはまだ口にできなかったが、エナと交代要員たちは立ったまま飲んだ。
「塩が多い」
老医師が言う。
「保存用だったんだ。水で薄めろ」
ダロが答えた。
次の鍋では、井戸番が使える水の量を決めた。厨房だけで勝手に薄めれば、飲み水が足りなくなる。
冷蔵、治療、炊事、井戸。別の紙に書かれていた条件が、一つの鍋の前へ集まっていた。
「損失がゼロになるわけではない」
彼は蓮人へ言った。
「はい」
「祭りの売上が減れば、冬を越せない店もある」
「そこも隠さず、代官へ出してください」
「安全のためだ。我慢しろとは言わんのだな」
「我慢を頼むなら、誰に何を我慢させるかを決めた側も知るべきです」
夕方までに、町の負荷を通常の六割まで下げられる見込みが立った。見込みを出したあと、蓮人たちは北壁へ上った。
全面停止時に守備隊が守れるのは半日。数字ではそう聞いていた。
城壁では、祭り警備から回された兵が矢束を運び、魔獣避けの油を溝へ注いでいる。普段は八人の区画に二十四人。全員を壁へ出せば、町中の巡回と火事対応が空になる。
「夜まで延びたら?」
蓮人が問う。
「交代要員はいない」
セラが答えた。
「食事を壁へ運び、負傷者が出た場所から人数を減らす。それでも朝までは持たない」
北門で盾をへこませた兵士が、左手だけで矢を束ねていた。治療を終えたのではない。休ませる人数が足りず戻ってきた。
結界停止は、青い壁が消えるだけではない。誰かの腕、睡眠、町内の別の安全を使って時間を買うことだった。セラは全停止案へ条件を追記した。
『半日を超える場合、住民を中央区へ移し、外周三門を放棄』
選択肢の名前は同じでも、現場を歩くたび中身が変わった。北塔を止めた場合も、治癒院、守備隊、井戸浄化の三系統だけは南塔と蓄魔石で維持できる。全停止は、何もない暗闇ではなくなった。
代替手段の費用も一覧へ加えた。板氷、薪、塩、運搬人、蓄魔石、守備隊の追加食。商人組合長は、店ごとの申告だけでは声の大きい店が多く取ると言い、実際に使った量を共同厨房と治癒院が確認する方式を提案した。
補償が決まる前でも、誰が何を渡したかを残せる。失ったものを「安全のため」で一括りにしないための記録だった。
ダロは魚四十尾のうち、塩へ回した数、炊き出しへ渡した数、傷んで捨てた数を分けて書いた。字を書けない手伝いには、魚の形を描いた木札を一尾ごとに渡す。氷屋も治癒院、薬棚、市場の三列へ板の枚数を記した。
同じ一枚の損失表へ、金額だけでなく行き先が残る。ダロは最後の魚札を「共同厨房」の列へ置き、空になった氷箱の蓋を閉じた。




