第5巻 第34話 排水坑の内側
上流の封印が流されたと聞いても、オルドはすぐに坑内へ入らなかった。
以前なら、先に自分の目で石枠を見に行っていた。水の匂いと壁の鳴りを聞けば、どの枝坑へ回ったかは分かる。雨の中で人を待たせるより、坑夫長が一人で走った方が早い。そう思って、夜番の弁も、水位の読みも、自分の手へ寄せてきた。
だが今、坑口の外には水位板と、共同班の紙がある。
雨で流された封印が、ただの紐なら、上流の外弁は閉じたままかもしれない。石枠ごと動いていれば、山肌の水だけでなく、溜め槽へ回すはずの流れが古い放流坑へ入る。処理炉を通らない水が下へ出れば、豪雨で薄く見えても、何をどれだけ流したかは分からなくなる。
「入るなら、目的を一つにしてください」
セラが言った。
「封印を拾うためでも、採掘の道を確かめるためでもない。放流弁を閉め、処理炉へ送る水路を残す。そのためだけです」
オルドは頷いた。
「古い放流坑の弁が開きかけているなら、処理炉へ行く手前で水が逃げる。弁を閉め切れなくても、半分まで戻せば、炉の溜め口へ回せる。俺は弁の所まで行く。ほかは見ない」
「戻る限界は」
リナが訊いた。
オルドは坑口の内壁に残る赤い線を指した。昔、坑内の水位を新人へ教えるために刻んだ線だ。線を越えれば、放流坑の石段が見えなくなり、帰り道は水の下へ沈む。
「弁前の水が膝へ届く前。内壁の赤線へ来たら、弁が途中でも戻る。砂時計一つで出る。連絡が切れたら、探しに入らず、第二班は入口で待つ」
「第二班は誰です」
「俺とバンが第一。バンは弁の刻みを知っている。ユードは入口で綱と砂時計。第二班はトムと兵一人。第一が戻るまで入らない。戻っても、第二班が同じ場所へ行くなら、俺たちは外で水位を読む」
バンは、深い水には入らないと名簿へ丸をつけていた。オルドは一瞬、別の者を選ぶべきかと思った。
「弁前は深くなるかもしれない」
オルドが言うと、バンは首を振った。
「だから、弁まで入る役じゃない。手前の板場で、水の上がり方と戻る刻を読む。俺がそこから動かないなら、できる」
「無理なら、すぐ外へ出ろ」
「言われなくても出る。今日は、それを書くための紙があるんだろう」
バンは、雨で濡れた名簿の端を見た。オルドは短く息を吐く。誰かが自分へ合わせて無理をするより、できない線を先に示す方が、坑内で守りやすい。
持ち込む道具は、入口の白い箱から出した。長い弁棒、縄、灯、足場を確かめる鉄の探り棒。採掘用の槌、鑿、荷車の鍵には赤い封じ紐が掛かったままだ。弁棒にも、誰が何のために使うかを書いた札を結ぶ。
《古い放流弁の閉鎖補助。採掘不可。砂時計一つまで》
マラが札を読み、リナが町側の紙へ写した。セラは白い箱の数と、赤い工具箱の封印番号を見比べる。雨で命令が急になっても、槌を持ち出したことを後で「水を守るためだった」と言わせないためだった。
「外との合図は」
ユードが縄を持って訊いた。
「内から一度引けば、水位を聞く。内から二度は、板場から弁へ進む前の確認だ。外から一度返れば、今の砂時計の範囲で続けてよい。外から二度返れば、新しい操作をせず、今の位置を固定してすぐ戻る。どちらからでも三度なら、連絡異常として弁に触れず戻る」
オルドは言った。
「引けなければ、砂時計が落ちた時点で、俺たちが戻る。外から誰も入るな。返す側は、引いた側と回数を声に出してから縄を動かす」
「炉側からは、どう知らせる」
ミナが、処理炉の方から来た。雨水を避けた皿には、さっきの中流の瓶が置かれている。
「炉の後の水が黄へ入れば、青布を下げる。薬材が次の一刻分を切れば、白布を下げる。炉前は流れ込む濃さの参考として別に書きます。どちらの布が下がっても、放流を増やさないでください」
「見えるか」
「入口の兵が見ます。見えなければ、札を持って避難棚まで来ます。走らせません」
連絡の順を声に出すと、雨の中でも、誰が何を待つかが少しだけ分かれた。オルドは入口の暗がりを見た。中へ入れば、壁の音だけが頼りに思える。だが今は、外の布と砂時計が、戻る時刻を決めている。
第一班は、灯を二つだけ持って入った。一つをオルド、もう一つをバンが持つ。灯を増やせば良いわけではない。狭い放流坑で誰かが振り向いたとき、火が水面へ映り、足場の深さを見誤ることがある。
坑内の空気は、雨の匂いより冷たかった。低い天井から落ちる水が、石段を一段ずつ濡らしている。普段なら乾いた脇道の壁に、細い流れが走っていた。
「板場まで、足首」
バンが言う。
「赤線までは、あと二段」
オルドは探り棒を前へ出す。水の下の石は、泥で滑っていた。急げば、弁まで早く届く。だが、滑って灯を落とせば、戻る道を一つ失う。彼は一本目の探り棒を置いてから、次の足を出した。
板場へ着くと、古い放流坑の口から濁った水が流れていた。本来なら、溜め槽の水は石壁の向こうの処理炉へ回る。放流坑は、坑内が崩れたときだけ水を逃がすための道だった。上流の封印が流され、雨水が押したせいで、弁が石座から半分ほど浮いている。
弁の向こうは、白い泡で見えなかった。
「ここから先は、脛を越える」
バンが板場の端で言った。
「俺はここで札を見る。オルドさんは弁まで行くなら、縄を二度引いてからにしてくれ」
オルドは、弁までの三歩を見た。三歩なら行ける。昔なら、そんな距離に許可はいらなかった。
彼は縄を二度引いた。
外から、一度だけ返りが来る。今の砂時計の範囲で進んでよい、という合図だ。ユードが砂時計を返したのだろう。オルドは弁棒を石座へ差し込んだ。棒を押すと、肩へ鈍い重さが返る。弁の下に枝か石が噛んでいる。
「槌を持って来れば、早い」
口から出かけた言葉を、オルドは飲み込んだ。槌は赤い箱の中だ。取りに戻れば、採掘工具の封印を外す理由を、また自分の判断だけで作ることになる。そもそも、流れの強い弁へ打ち込めば、石座を割るかもしれない。
「棒だけでやる」
オルドは言った。
探り棒を横から差し、噛んだ枝を押し出す。水の勢いで枝が戻るたび、弁棒が跳ねる。二度目の押し込みで、弁は指二本分だけ下がった。放流坑へ行く水音が、一段低くなる。
だが、処理炉へ回る溝からも、濁り水があふれた。弁を閉めれば、全部が炉へ向かう。炉が受けられる量を越えれば、入口側へ押し返す。
「外へ聞く」
オルドは縄を一度引いた。
少し遅れて、縄が二度返った。入口の水位が上がっている。新しい操作をせず、今の位置を固定して戻れ、という合図だ。余分に閉めれば、ここも戻れなくなる。
バンが板場から手を上げた。
「赤線まで、指二本。砂は半分」
オルドは弁棒を離しかけた。半分閉めれば、処理炉へ水を送れる。もう少し閉めれば、下流への放流は減る。けれど、少しの差が、板場を水へ沈めるかもしれない。
「ここで止める」
彼は言った。
バンは弁棒の脇にしゃがみ、板場の水を見た。
「もう一度だけ押せば、下の流れは細くなる」
「その代わり、ここが先に沈む」
「炉が持つかは、外でしか分からない」
オルドは答えた。自分の耳には、放流坑の水音がまだ大きすぎる。長年の感覚なら、もう一度押してから外へ出る。だが感覚は、処理炉の袋の残りも、下流で待つ家の杯も、入口の赤線も一緒には見せない。
「俺たちが今できるのは、流れを半分へ戻すことまでだ。残りを閉じるかは、炉後の水と水位を外で見て決める。弁の前で、全部の答えを取ろうとするな」
バンは弁から手を離した。
「分かった。板場が赤線へ来たことも、札へ書く」
バンは濡れた札を胸の内側へ入れ、留め具の番号と砂時計の残りを短く書いた。坑内の紙は濡れれば読めなくなる。それでも、外へ出てから思い出で刻を足すより、今の手で残す方がましだった。オルドはその札が書き終わるまで、弁棒を押し直さずに待った。
弁を石座へ固定するため、白い箱の細い留め具を差した。完全に閉じるための留めではない。指二本分の隙間を保ち、流れを処理炉側へ半分だけ寄せるためのものだ。留め具の番号を、バンが板場の札へ書く。
そのとき、入口の方で兵の笛が二度鳴った。雨と坑内の水音に混じっても、戻れの合図だけは聞き取れた。
オルドは弁へ背を向けた。
「戻る」
水をもっと減らしたい手が、棒へ残っていた。だが戻らなければ、次に弁を見に来る者もいなくなる。彼は灯を先にバンへ向け、バンが板場を出たことを確かめてから、探り棒を拾った。
帰りの石段で、水はさっきより一段高かった。バンは深い水へ入らず、壁の張り出しをつかって進む。オルドは後ろから急がせなかった。赤線の下を通るとき、バンが一度足を止めた。
「赤線、越えた」
「外へ出るまで、見失うな」
坑口の白い灯が見えたとき、オルドは初めて息を吐いた。外ではユードが砂時計の空いた皿を持っていた。落ち切る前に、二人は出ている。
セラは人数を数え、トムへ第二班を解かせた。弁が半分戻ったなら、次は中へ入って確かめるより、外の水位と炉側の流れを見る。交代は、同じ場所へ次の者を押し込むためではない。
「放流坑は、完全には閉じていない」
オルドは皆へ言った。
「処理炉側へ半分回した。留め具の番号はこれ。外弁の封印が流れた以上、上流の量はまだ分からない。炉後が黄を越えたら、弁をさらに閉めるのではなく、ここで全部を止める」
リナは、濡れた紙へ弁の隙間と刻を書いた。封印が流されたことも、採れなかった上流の瓶も、弁を半分しか戻せなかったことも、同じ板へ並ぶ。うまくいった話だけを残すより、次の班が近づかない線を残す方が大事だった。
ミナが処理炉から走って来た。雨具の裾には、白い粉がついている。
「炉へ来る量は保てました。でも、薬材が減りすぎました」
彼女は空き袋を一つ持ち上げた。
「今の流れなら、処理材はあと半刻しかありません」




