第5巻 第33話 嵐の採水線
雨は、坑口の屋根を叩く音で、人の声を短く切っていた。
リナは油布の下で、三つの採水箱を並べた。上流、中流、下流。箱の蓋には、現地で採る者と立会人が閉じる二本の封印紐を通す。治癒院側の白い受領紐は外袋へ入れ、避難棚で箱を受け取った人が、現地二本の番号と時刻を確かめてから別に閉じる。誰が瓶を採るか、誰が蓋を閉めるか、誰が運ぶかを分けたのは、晴れた日のためだけではない。雨で道が切れ、伝言が遅れるときほど、一人の手が全部を持たない形が要る。
「上流は私とオルドさん。封印を読むのは、町側から私」
リナは板へ書いた。
「中流はマラさんとトムさん。トムさんは箱を運ぶだけ。蓋を閉めるのはマラさん。下流はセラさんの兵二人と、治癒院のイレナさんが瓶の受け取りを見ます」
イレナは治癒院の外套の上から雨具を締めた。患者の様子を見ていた彼女まで川へ出すことに、リナは一度ためらった。
「私は下流から動かない」
イレナは言う。
「採水へ手を出すのではなく、治癒院で増えた震えや腹痛の札を、同じ刻に箱へ入れる。水だけが届いて、体の方が後から来る形にしない」
リナは頷いた。雨の中へ出る役が多ければ良いわけではない。水位の見える場所と、患者のいる場所を、一本の伝言だけで切り離さないための役だった。
ノアは名簿の端から切った厚紙を、三つの箱へ差し込む。
《帰着刻 第二鐘まで》
《増水中止 杭の赤帯まで》
《連絡断 赤布を上げ、次の避難棚へ戻る》
赤帯は、各地点の水位杭へ巻いた幅の広い布だった。水がそこへ届いたら、瓶が空でも採らない。帰りに使う橋が消える前に、箱を置いて戻る。第二鐘までに帰らなければ、待つ側は捜しに入らず、次の避難棚へ人を寄せて人数を数える。
「鐘は聞こえないかもしれません」
マラが言った。実際、さっきの雷で坑口の鐘は遠くの鍋が鳴ったようにしか聞こえなかった。
「鐘が聞こえないときは、赤布です」
リナは答えた。
「橋の手前と、避難棚の横に一本ずつ。上流から赤布が見えたら、採水をやめて戻る。見えないなら、砂時計を一つだけ使う。落ちたら、理由を待たずに戻る」
「伝令は」
トムが訊く。
「走らせない」
セラが先に言った。
「川沿いを一人で走れば、連絡が一人分の行方不明になる。橋の両側へ兵を置く。赤布を上げた側の兵が、次の棚へ笛を二度吹く。笛が聞こえなければ、棚に置いた木札が裏返っているかを見る」
木札には、行く、到着、戻る、の三つの面がある。採ったかどうかは瓶札だけへ書く。最初に聞いたとき、リナは手間が多すぎると思った。今、雨に濡れた紙を見ていると、言葉が届かないときに、誰かが勝手に「たぶん戻った」と決めないための手間に見える。
オルドは、上流へ持つ棒を一本選んだ。先に布を巻いた長い棒だ。
「上の分岐に、古い外弁がある。いまは閉じて、町側と鉱山側の封印を掛けている。そこを越える水と、山肌から入る水を別に採る」
「外弁の封印は、三つです」
リナは確認した。
「町側、鉱山側、守備隊側。切れていたら、瓶を採る前に赤布を上げます。弁へは触りません」
オルドは頷いた。
「触れば、また鉱山が勝手に流したと言われる。触らなくても、封印が切れていれば、どこから水が来たかは変わる。まず皆へ知らせる」
坑道の水位が上限へ寄っている今、上流の外弁を確かめることは、鉱山側にとっても怖い。封印が無事なら、閉じたまま水を溜めている。切れていれば、処理を通らない水が谷へ出るかもしれない。どちらでも、答えを急ぐほど足元が危うくなる。
リナは、自分の採水箱へ短い縄を結んだ。箱を流されないためではない。帰りが危ないとき、欄干へ結んで人だけ戻れるようにする縄だ。瓶を持ち帰るために、誰かが川へ残る形にはしない。
「第二鐘までに戻らなければ、箱を置く」
彼女は、もう一度言った。
「箱を置いても、戻る」
マラが、濡れた髪を押さえた。
「自分だけは採って帰る、はなしですよ」
リナはマラの顔を見た。苦味を訴えた自分の言葉を、今度こそ雨の量と一緒に残したいと思っている。上流の瓶があれば、豪雨で薄く見える水と、坑道から濃く出る水を分けられる。次の会議で、また「分からない」と言わせずに済むかもしれない。
「しません」
リナは言った。
「証明のために、班を残しません」
上流への道は、普段なら荷車が一台通れる幅だった。雨水が斜面から何本も落ち、土の上を薄い川にしている。オルドが前を歩き、リナは彼の足跡を踏まない距離で続いた。互いの片腕へ細い綱を結ぶことはしない。誰かが滑ったとき、二人とも引かれないように、間に棒を一本持つだけにした。
最初の避難棚へ着くと、兵が木札を《行く》から《到着》へ返した。
「上流へ着いたことが、次の棚へ分かればいい。瓶の札は、採ったときに変える」
その違いで、戻らない二人を、誰かが下流で待ち続けずに済む。リナは木札の裏へ、上流二人、と刻まれた文字を見た。
分岐の前には、雨で白く泡立つ水が集まっていた。外弁の石枠は半分まで濡れ、そこへ掛けた三本の封印紐が、激しく揺れている。町側の青い紐、鉱山側の灰色、守備隊の赤。
「青と灰はある」
リナは言った。
赤も、まだ石枠の輪へ通っている。三本とも切れてはいない。けれど、外弁の下から流れる水は、昨日より速い。泥の匂いが混じり、山肌の雨水だけとは思えない色をしている。
オルドは外弁へ近づかず、棒を水面へ差した。
「上から来る水で、弁の前が埋まりかけている。今、開いたかどうかは見えん」
「封印があるなら、閉じていると書けますか」
リナは訊いた。
「書けない。紐が残っていても、石枠の内側が押されているかは分からん。今の水位では、近づいて確かめることもできん」
分からない、と書くことは、リナにとって苦手だった。苦味を言った日には、分からないと言われた側だった。だから今は、瓶を採り、封印を読み、何か一つでも確かな線を持ち帰りたかった。
上流用の瓶を出す。石枠より手前、山肌から流れ込む細い筋。そこなら弁へ近づかずに採れる。リナがしゃがんだ瞬間、上流の枝が折れる音がした。
水面が一息で高くなる。
「戻れ」
オルドの声が、雨の中で太く聞こえた。
瓶は、まだ半分だった。札にも刻を書いていない。これを置けば、上流の比較がなくなる。リナは指を締め、もう少しだけ、と体を低くしかけた。
そのとき、分岐の杭に巻かれた赤帯へ、水が触れた。
決めた線だった。
リナは半分だけ入った水を、採った同じ筋へ静かに戻した。瓶には栓をせず、赤い無効札を巻いて、採水箱とは別の廃瓶袋へ入れる。採ったことにして持ち帰れば、半端な刻の水が、後で誰かの判断を誤らせる。
「採っていません」
彼女は言った。
「上流は中止です」
雨水で濡れた瓶の札には、採取時刻を書かなかった。リナは赤い無効札を見せたまま、空の採水箱の蓋を閉じる。半分だけ入った水を上流の値として残せば、後から来る人は赤帯に触れた前か後かを分けられない。空の箱と無効瓶を分けて戻ることも、今は一つの記録だった。
オルドは一度だけ頷き、彼女の箱ではなく、避難棚の赤布を引いた。布が雨の向こうで大きく開く。下の棚から、笛が二度返った。聞こえなくても、兵が木札を返すはずだ。
帰り道の水は、さっきの足跡を消していた。オルドが棒で地面を探り、リナは二歩後ろを歩く。橋の手前まで来たとき、下からマラとトムが上がって来た。中流の箱は閉じられているが、二人の外套は肩まで濡れていた。
「中流は採れた?」
リナが訊く。
マラは箱を掲げた。
「一瓶だけ。封印はここで閉めた。けれど、帰りの橋に水が来た。二本目はやめた」
トムは木札の面を《到着》から《戻る》へ返した。
「下流へは行かない。赤布が見えたから、棚へ戻った」
誰も、採れなかった上流の代わりに無理をしなかった。リナは、箱の軽さを悔しく思うより先に、四人が同じ棚へ立っていることを確かめた。
「中流の瓶は、下流の班へ渡す。上流は空欄で出します。封印は残っていた。でも、弁の内側は確認できなかった」
「空欄にしたら、また鉱山が隠したと言われる」
トムが低く言った。
「言われます」
リナは答えた。
「だから、空欄にした理由と、赤帯に触れた刻を一緒に出します。採らなかった水を、採ったことにはしない」
下流の避難棚へ戻ると、イレナが濡れた札を油布の内側へ入れていた。治癒院で新たな症状の報告はない。だが、代替水の樽が遅れ、夕方の煮炊きを待つ家が増えているという。待つこともまた、体から離れた数字ではない。
リナは中流の箱を受け取り、現地封印を目の前で確認した。マラが閉じた町側の青、トムが立ち会った鉱山側の灰。二本とも切れていない。箱を運んだトムの手は震えていたが、紐には触れていない。イレナは二本の番号と帰着刻を読んでから、治癒院側の白い受領紐を外袋へ掛けた。現地封印と受領封印を、同じ刻の三本にはしなかった。
「下流は」
「兵が橋の手前で止めた」
イレナが言う。
「水位が赤帯を越えた。瓶は空です。患者の札だけ、ここにある」
上流も下流も空欄。残ったのは中流の一瓶だけだった。通常の二本一組ではなく、別の測定台へ送る対になる瓶もない。リナは、その瓶を測定卓へ運ばせず、単独参考、と書いた保管箱へ置いた。豪雨の途中で採った一本を、川全体の答えにしてはいけない。
「中流は、今の刻の単独参考です。地点間の比較にも、再開の判断にも使いません。次に安全な二本一組を採れたとき、封印と色を照合するためだけに残します」
ノアが、記録紙へそのまま写した。中流一瓶、単独参考、正式比較外。上流中止。下流中止。封印外観は上流で確認、内側は未確認。症状新規なし。代替水遅延。
書き終える前に、上流の方から、乾いたものが裂けるような音がした。
皆が振り向く。雨の幕の向こう、分岐の石枠が一度、白い波に隠れた。
赤布を上げた兵が、別の赤布を激しく振る。笛の音は聞こえない。だが、木札の裏には、あらかじめ決めた形があった。封印異常。
オルドの顔から、雨の色が消えた。
「上流の封印が、流された」




