第5巻 第31話 甘い判断
坑口へ上がる坂を、町の人たちは列になって来た。
給水の樽を待つ者だけではない。洗い場の桶を抱えたマラ、治癒院で見かけた母親、朝に魚籠を空のまま持ち帰った老人。子どもを連れた者は、手を強く握らせている。鉱山の前に立つ赤い封じ紐を見れば、採掘は戻っていないと分かるはずだった。それでも、処理炉の細い煙が見えた時点で、皆の顔は固くなっていた。
リナは下流の採水箱を胸へ抱えたまま、坂の脇にいた。
箱の中には、朝と昼の二本の瓶がある。炉の後の水は黄の手前、下流は黄の端で止まった。赤ではない。だからといって、町へ戻せる色でもない。瓶の札には、採った刻も、箱を閉じた者も、未使用石を沈めた者も書いてある。
それなのに、札の文字は今、言い訳の順番のように見えた。
「炉を焚いたんですね」
治癒院の母親が言った。怒鳴る声ではなかった。その方が、リナには返しにくかった。
「はい。採掘の火ではありません。沈め槽の泥を――」
「子どもの手が震えた水のために、また火を入れた」
母親は、子どもの指を包んでいた布をほどかなかった。
「それを、私たちに止めないでくれと言うんですか」
リナはすぐに答えられなかった。朝の段階操業に、自分も名を書いた。水位が上がり続け、処理を残さなければ、濃い水が選べない場所から出る。そう聞いて、選んだ。坑夫の仕事を残すためだけではない。町の水を、もっと悪い形で失わないためだと思った。
けれど今、子どもの手を見て、その言葉を自分の内側で繰り返すのは、苦味を最初に言った水番の役目から逃げることにも思えた。
「止めないでくれ、とは言いません」
リナは言った。
「今の炉は、止められます。止める条件を、鉱山だけで決めないと署名しました」
「条件が増えれば、止めるまでが遅くなる」
マラが桶を地面へ置いた。桶の底に残った洗濯水が、薄い膜を作って揺れた。
「石が黄だから様子を見る。次の瓶を待つ。そうして、また誰かの腹が痛くなってから紙を書く。水を使う方は、待っていられない」
その通りだった。リナは、測定石が青だと言われたとき、苦味を言葉にするほど、自分だけが急いでいるように扱われた。今度は未使用石と比較器具がある。だから、数字を出せば皆が待てると、どこかで思っていたのかもしれない。
「私は、甘く考えました」
坑口の前が静かになった。
オルドが何か言おうとしたが、リナは首を振った。鉱山側にかばわせれば、また町側だけが不安を飲み込んだ形になる。
「段階操業なら、全部止めるよりましだと思いました。水位を見て、炉後を測って、下流で赤が出たら止めればいいと。けれど、黄の水を前にして、次の赤まで待つ理由にはなりません。体の具合が悪くなった人に、石の色を待ってもらう理由にもなりません」
母親は、リナをまっすぐ見た。
「じゃあ、何を選んだんです」
「水を軽く見たんじゃないなら、どうして炉を動かす方へ名前を書いたんです」
問いは、鉱山の煙より重かった。
リナは採水箱を開けた。昼の瓶を取り出し、皆の見える板台へ置く。水は澄んで見える。札を外し、未使用石の縁に残った黄を、隠さずに上へ向けた。
「私は、水を軽く見たから書いたのではありません」
声が揺れないように、瓶の底を板へ置いた。
「軽く見たくなかったからです。処理を止めたまま槽があふれれば、どこに、どれだけ出るかを、誰も選べない。だから処理だけを残す案に賛成しました。でも、賛成した私が、止める側にいなければいけなかった。黄が出た時点で、止める声を出せる形にしなければいけなかった」
「今、黄が出ている」
マラが言う。
「なら、止めるの」
リナは頷いた。
「次の排水輪は回しません。まず外弁を閉めます。炉の火も落とします」
坑夫の列で、誰かが息をのんだ。オルドは水位板を見た。指三本半。輪を止めれば、また上がる。けれど彼は反対しなかった。
「外弁を閉める」
リナは続けた。
「そのあと、共同班で水位を読みます。槽がどこまで上がるか、処理材を足せるか、樽で移せる分があるかを、その場で出します。あふれる危険があっても、黄を見えないまま流し続ける選択には戻りません」
「また、言葉だけじゃないのか」
年配の男が言った。
「明日には鉱山側が、赤にならないから大丈夫だと言う。町側は瓶を見せられて、分からないまま頷かされる」
リナは板台の横へ、乾いた紙を広げた。ノアが持っていた帳面から破った紙ではない。朝のうちに水番小屋で切ってきた、掲示板用の厚い紙だった。
上に、太い字で書く。
《段階操業を止める条件》
その下へ、一本ずつ線を引いた。
「一つ。炉の後か下流で、未使用石が黄に入ったら、次の排水はしない。今がこれです」
リナは一行目へ、自分の印を置いた。
「二つ。取水口の水を飲水、調理、治癒院の手当て、洗濯へ戻さない。青でも、腹痛や手の震えが増えたという知らせがあれば、取水停止を続けます。症状の紙は、治癒院だけへ閉じません」
母親は、子どもの手を握ったまま聞いている。
「三つ。炉を動かした刻、薬材の量、外へ出した量、水位、三地点の瓶を、日没前ではなく、その刻ごとに坑口と町の水番小屋の両方へ貼ります。紙が出せない刻は、輪を回しません」
「札が読めない人には、どうするの」
魚籠を持った老人が訊いた。リナは紙の下へ小さな木札を並べた。青、黄、赤の色だけでなく、止める刻には横棒を、取水停止には杯へ斜め線を刻む。夕方の掲示では、水番が声に出して読む。当番の印も、読める者だけの約束にしないためだった。
「夜は」
マラが訊いた。
「夜もです。水番一人にはしません。町側、鉱山側、治癒院側から二人ずつ交代要員を先に出します。弁を開く刻には、三つの側すべてから当番が一人以上そろわなければ動かしません。止める札は、どの側の一人でも出せます」
オルドが、赤い紐の掛かった採掘工具を見た。
「採掘の封印が切れたら、処理も排水も止める。これは昨日のままにする」
「それも書いてください」
リナは言った。
オルドは頷き、四つ目の線の下へ自分の名を書いた。守備隊のセラも、その横へ印を押す。
母親が板台へ近づいた。
「症状が出たら、誰が止めるの」
「治癒院の人が知らせるだけでは、遅い」
リナは紙の余白へ、五つ目の線を足した。
「治癒院から症状の知らせが来たら、炉後の色を待たずに、当番の共同班が一度止めます。再開するなら、次の採水と診察の記録を並べて、町側の人も含めて決めます。一人の水番も、一人の坑夫長も、再開だけを決めません」
母親はすぐには印を押さなかった。
「止めたら、坑道があふれるかもしれない」
「はい」
リナは答えた。
「だから、その危険も紙へ出します。どちらも見えないまま、誰かだけに飲ませるよりは、皆で次の手を選びます」
それは、きれいな答えではない。給水の樽が足りなければ、今夜の煮炊きに困る家がある。排水を止めれば、坑夫たちの仕事も処理材も、また途切れる。けれど、困る先を一つだけ見えなくして進めることを、リナはもう安全と呼びたくなかった。
マラは桶を抱え直し、紙の一行目を読んだ。
「黄で止めるなら、今は止める。そこまでは分かった」
「分かりました」
「ただし、あなたが次の赤を待たないなら、私も瓶を見る。町側の当番に入れて」
リナは、初めて少しだけ息を吐いた。
「入ってください。マラさんが来られない刻は、別の町側当番を先に書きます」
母親も、紙の下を指した。
「治癒院の知らせを持つ役なら、私でもいいですか。子どもの様子を紙へ書くのは怖い。でも、言わなければ、また石だけが先に残る」
「お願いします」
リナは言った。
誰かの苦しみを、役目に変えれば軽くなるわけではない。それでも、その声を鉱山の外で途切れさせない役目は必要だった。
オルドは坑口の方を向き、バンへ手を上げた。
「外弁を閉めろ。炉の火も落とす。水位札は半刻ごとに、ここへ持って来い」
バンはすぐに走らなかった。町側の紙を見てから、オルドとリナの顔を見た。
「町側の当番が来るまで、炉は動かさない」
「そうして」
リナは答えた。
炉の煙が細くなり、やがて山風の中で消えた。坑内の水音は残る。止めたから安心できるのではない。止めたあとにどこを見るかを、今から決め続けなければならない。
リナは、自分の水番札を紙の端へ置いた。
「私は、水番の仕事へ一人で戻りません」
皆がこちらを見る。
「段階操業に賛成した私も、共同班に残ります。採水だけでなく、黄が出たら止める札を読み、治癒院の知らせも、水位の紙も同じ場所で見ます。私の感覚だけを信じてほしいからではありません。誰かの体と、誰かの仕事を、別の紙へ隠さないためです」
マラは返事をせず、町側当番の欄へ自分の名を書いた。母親は治癒院の欄へ印を置いた。オルドは、坑夫側の交代札を取りに、赤い封じ紐の前を通って坑口へ戻る。
白い紙の上で、共同班の最初の名だけが増えていった。




