第5巻 第30話 働きながら減らす
夜明け前、オルドは坑口の前に立てた四本の杭を見た。
一本目には赤い紐で、採掘停止。
二本目には青い紐で、排水。
三本目には白い紐で、処理。
四本目には、町側確認と書かれた小さな板が結ばれている。
昨日まで一括りだった仕事を、誰が何に触れてよいかで分けた。
杭の横には、夜のうちに届いた領主庁の返書が開かれていた。全面停止命令そのものは撤回しない。採掘は禁止したまま、溢水を避ける排水と、その水を外へ出す前の処理に限り、一刻ずつの運転を許す。継続には、前の測定と退出記録の公開が要る。
ノアは、許可された設備名を皆の前で読み上げた。排水輪、泥掻き、処理炉、炉後の測定台。槌、鑿、鉱石箱、鉱石を運ぶ荷車は含まれない。セラは命令書の採掘欄を赤い封印の下へ残し、処理用の鍬と計量匙だけを白い箱へ移した。
処理開始の三つの欄も、空白のままにはしなかった。鉱山側はオルド、町側はリナとマラ、治癒院側は昨日から杯を持って来ている母親が、条件を一行ずつ読んだ。採掘封印を切らない。町の取水停止を続ける。炉後、下流、町の取水口を同じ刻に測る。どの側も一人で停止札を出せる。結果は日没前に坑口と橋へ同時に貼る。
「一回の処理を試すことにだけ、印を置きます」
リナが言った。
「鉱山の水が安全だとも、明日も動かしてよいとも書きません」
マラは採掘封印の番号を自分で確かめてから、町側の欄へ印を置いた。母親は、治癒院で新しい震えや急な腹痛が一人でも出れば、石の色を待たずに取水停止を続け、処理も止める、と書き足した。オルドは、坑内水位が下がっても決めた一刻を延ばさない欄へ名を書いた。
印を置かなかった者の名も、反対、保留に分けて残した。炉の煙そのものを認められない者、領主庁の許可を信用しない者、家族へ相談するまで決めない者がいる。条件付きの三つの印を、住民全員の賛成とは書かなかった。
セラは、停止札の四人が揃うと、採掘具の封印番号を町側と鉱山側に確かめさせ、白い処理箱だけを開けた。赤い封印は、交代ごとに双方で読む。
「槌は持つな」
オルドは集まった坑夫へ言った。
「掘る音が一つでも出たら、今日の段階操業は終わりだ。処理炉に入る者も、鉱石棚へ近づかない。仕事が残ったからといって、前の仕事まで戻ったと思うな」
返事をしない者もいた。日当を失った者に、槌を持つなとだけ言っても腹は満たない。オルドは名簿を掲げた。紙の上には三つの欄がある。泥掻き、薬材、排水。端に、給水荷車と採水立会いの欄も増えていた。
「炉前の泥は、バンとネリ。薬材はエダとマル。排水輪は俺とユード。水位は、町側のマラ、鉱山側のトム。下流の瓶はリナさんたち水番が持つ。残りの者は、東の泉からの給水と、処理材の荷車へ回る」
トムが名簿を見上げた。
「俺は昨日まで格子を見ていた。水位なんて、坑夫の仕事じゃない」
「だから、今日からは水位を読めるようになれ」
オルドは答えた。
「格子を閉める腕があるなら、板の刻みも読める。俺一人が水を読む形に戻せば、また夜に誰かが勝手に弁へ触る。坑夫の仕事が減るなら、残る仕事を一人の手癖にするな」
トムはすぐには頷かなかった。だが、水位板の前へ行き、昨日の印と今朝の印を指でなぞった。自分の名の横へ、半刻ごと、と書く。
ノアは入口の箱へ、支払い用の小札を入れた。採掘の日当と同じ額ではない。けれど、処理炉の火を守る者、東の泉から樽を引く者、採水箱を運ぶ者へ、今日の終わりにいくら出るかが書かれている。
「仕事の種類で額を変えると、危ない所だけ人がいなくなる」
ノアが言った。
「今朝の分は同額です。危険手当は別にしません。危険を高く買えば、止めるべき刻でも残る人が出るので」
坑夫の若い男が、小札を裏返した。
「七日後は」
「今日の記録を公開して、町側と鉱山側が決めます」
ノアは答えた。
「採掘を再開した量ではなく、処理した水、給水した樽、交代した人数を出します。非常費だけで続けられないなら、その前に別の仕事へ移る名簿を作る」
オルドはその言葉を聞きながら、かつて自分が日当の話を先延ばしにした夜を思い出した。水位が上がると伝えれば、皆が怖がる。怖がらせないために、次の番まで自分で輪を回した。結果として、誰も何を見れば止められるかを知らないままになった。
今朝は、怖さも賃金も、同じ紙の上へ置かれている。
処理炉には、昨日まで封じられていた火が小さく戻った。マルが薬材を量り、エダは一袋ずつ番号を読み上げる。白い粉は炉へ入る前に、リナの持つ紙へも量が写される。ミナは炉後の水を浅い皿へ取り、未使用石と比較器具を並べた。
「最初は、坑内の水を一刻の半分だけ引きます」
オルドは排水輪の柄へ手を置いた。
「輪を回すのは俺とユード。砂時計が落ちたら、値が良くても止める。炉後の色が黄を越えたら、その前でも止める」
「下流で赤が出たら」
リナが訊く。
「外弁を閉める。輪も止める」
オルドは答えた。
「溜め槽が上がっても、次にどこからあふれるかを皆で見て、別の手を探す。赤を隠して水位だけを下げるのは、もうしない」
排水輪が動き始めると、坑道の奥で重い水音が返った。オルドは、いつものようにその音だけを追いかけそうになった。輪の軸が少し鳴る。水が低い方へ寄る。壁の湿りが薄くなる。そのどれも、長年の手が覚えている。
だが隣にはユードがいて、砂時計を見ていた。坑口の外ではマラとトムが同じ水位板を読んでいる。二人は互いの数字を言い直さず、板へ札を掛けてから、相手の札が同じ刻みかを見比べた。
「三本半」
トムが言う。
「三本半」
マラが続ける。
水位は、輪を回す前の四本から、まだ半分しか下がっていない。オルドはもう少し回せば、と口を開きかけた。
そのとき、ユードが砂時計を逆さにせず、輪から手を離した。
「ここまでです」
砂は落ち切っていた。
「まだ下げられる」
「決めた量です」
ユードの声は小さいが、柄から手を外さない声だった。
オルドは息を吐いた。昨日までなら、坑夫長の判断で半刻を足していた。水位を低くしておけば、次の番が楽になると思っていた。だが、余分に抜いた水を、誰が処理し、どこで測るかを決めないなら、それは楽にしたのではなく、危険を次の川へ渡しただけだ。
「止める」
オルドは言った。
輪の音が消える。マルが炉後の皿をミナへ渡し、ミナは未使用石が黄の中ほどで止まったのを確認した。リナは下流の採水箱を受け取り、封印の継ぎ目が濡れていないかを見た。町の取水口からも、水番が封じた色札を持って戻る。紙には、坑内水位、炉後、下流、取水口が横に並んだ。取水口は青でも、弁は閉じたままだ。
下流の瓶は、まだ黄の端だった。
「飲水には戻しません」
リナは、待っていた住民へ言った。
「洗濯にも使わない。今日は、処理が働くかを見ただけです」
不満の声が出る前に、彼女は瓶の札を見せた。朝の分、昼の分、誰が採り、誰が箱を閉じたか。異常が出なかった瓶も、赤かった瓶と同じ板へ留める。苦味を訴えた自分の言葉だけを通すためではなく、使えない水を使えると言わせないために。
昼には、処理材を運ぶ荷車が一台、坑口へ着いた。御者は鉱山の道を通るのを嫌がったが、荷車の脇には採掘工具の封印札が掛けられている。オルドは御者へ、鉱石を載せない荷車だと説明した。御者は荷台を覗き込み、白い袋と空の水樽だけを確かめてから、ゆっくり頷いた。
「これも鉱山を動かす荷だろう」
御者は言った。
「鉱石を出す荷じゃない」
オルドは答えた。
「町へ濃い水を出さないための荷だ。信用しなくていい。箱を開けて、札を読んでくれ」
御者は袋の番号を読み、マラの紙と照らした。自分で確かめる手間を求められて、少しだけ表情がほどけた。
午後の二回目は、雨雲が山の端へかかる前に行われた。水位がまた四本へ戻りかけていたからだ。今度はオルドが先に砂時計をユードへ渡した。
「俺が音を聞いて、回し過ぎそうなら止めてくれ」
「坑夫長を止めるんですか」
「水を読む役を渡したんだ。輪も同じだ」
ユードは砂時計を受け取った。二人が輪を回すあいだ、トムは水位板の横へ、新しい札を掛けた。マラは町側の板へ同じ刻を書いた。ミナは炉後の皿へ石を沈め、リナは下流の採水箱を閉じる。町の取水口では別の水番が同じ鐘で瓶を満たし、色札を封じて坑口へ送った。
どの手も、採掘のためには動いていない。それでも、動かなければ町の水も坑夫の明日も守れない手だった。
二回目の炉後の石は、黄の手前で止まった。下流も赤には寄らず、取水口の札は青だった。弁は開けない。オルドは、その結果を見て安心しかけた。だがリナは首を振る。
「一度で大丈夫とは書かない。雨が降れば、薄く見えるかもしれない」
「書かない」
オルドは答えた。
「今日、分かったのは、掘らずに処理を続ける形が一回できたことだけだ」
彼は交代の紙を、坑夫だけの壁ではなく、坑口の外の給水札の横へ掛けた。泥掻きのバンの名の次に、炉後の色。ユードの名の次に、排水輪を回した刻。トムとマラの名の次に、水位板の数字。リナの欄には、下流の瓶を持ち帰る刻がある。名を出せば、間違えたときに誰か一人が責められる怖さもある。
けれど名前を隠せば、今も誰かが夜に弁を動かしているのではないかと、町の人は疑い続ける。オルドは一番下に、自分の名を書いた。排水係。坑夫長ではなく、今日の役目として。
「坑夫長が水を見ているなら、結局あんたが決めるんだろう」
バンが言った。
「水位を読んで、輪を回すのは俺の役だ。でも、炉後の色を読むのはミナさんだ。封印を読むのはマラさんたちだ。俺が一人で決めてよいのは、輪の軸が鳴ったら止めることくらいだ」
オルドは紙の端を押さえた。
「町の水を守る責任と、坑夫が明日も働ける責任を、どちらかへ渡すつもりはない。ただ、両方を一人の口約束で抱えるのもやめる。俺がいなくても、赤い紐と水位板と瓶を見れば、止められるようにする」
トムは紙の自分の名を見てから、次の交代へ水位板の読み方を教えに行った。昨日は救助される側だったネリも、炉の前で薬材の袋を一つずつ渡し、残った量をエダへ声に出して伝えている。働く場所は変わったが、誰かを待たせるだけの列ではなくなっていた。
夕方、交代の名簿へ最後の印を付けようとしたとき、町から人の声が近づいた。
最初は、給水荷車を待つ列の話だと思った。だが声は坑口へ向かっている。子どもの手を引いた女、洗い場の桶を抱えた男、昼の瓶を見たはずの住民たちが、鉱山の前へ集まって来た。
「炉を焚いた」
誰かが叫んだ。
「水がまだ使えないのに、あんたたちは鉱山を守った!」
赤い採掘封印の前で、オルドは足を止めた。




