第5巻 第16話 冬靴の代金
リナは、鉱山の入口へ向かう坂を、空の採水箱を持って上った。
箱の中には、まだ瓶が入っていない。中流の堰で使った細瓶、苔を入れた銀皿、蜜蝋の封印、立会人の印を押す紙だけが、布に包まれている。箱が軽いことを、リナは何度も意識した。これから入れる水の名前が、鉱山の賃金箱より先に町へ届くかもしれない。
入口の外には、試験停止の紙がまだ貼られていた。採掘停止、排水・安全継続、記録と採水立会い。三つに分けた欄の下には、今日の基礎賃を受け取る者の印が並んでいる。字の書けない者は、指で押した墨の跡を残していた。
オルド・ガイゼは、その紙の前で賃金箱を閉めていた。
「水番の人が来るとは聞いた」
彼は箱の鍵を腰へ戻した。
「役所の紙は持ってるか」
「今日は、許可を取りに来たわけではありません」
リナは採水箱を地面へ下ろした。
「共同で採るなら、どうすればいいかを聞きに来ました」
オルドの顔は動かなかった。昨日までなら、水を採る人が来たというだけで、門の内側にいる者の手が止まった。今も、入口の見張りをしていたエダがこちらを見ている。
「採る前に、聞くことがある」
オルドは紙の端を押さえた。
「黒嶺の水に何も出なかったら、その結果を町へ出すか」
リナはすぐに答えた。
「出します」
「名前を出してか」
「採った場所と、時刻と、出なかったことを出します。黒嶺の名を隠して、町が別の上流の家を疑う形にはしません」
オルドは、少しだけ目を細めた。
「結果が出なかったのに、また別の日に採ると言えば、町は『まだ何かある』と聞く」
「そう聞く人はいます」
リナは認めた。
「でも、雨の翌日に反応が消えました。出なかった日だけを出して、もう大丈夫だと言えば、次に濃くなったとき、誰も水番所の札を見なくなります。異常が出ない結果は、終わりの証明ではなく、その日の記録です」
その言葉を言いながら、リナは自分の苦味の記録を思い出した。青い浄化灯と規定内の測定石を見て、何もないと言われた朝。自分だけが苦いと書いたことを、町の人はまだ半分しか信じていないだろう。だからこそ、今度は都合の悪い陰性も、都合のよい陰性も、同じ紙に残さなければならない。
オルドは入口の奥を振り返った。濡れた布を干しているセトが、箱の底を確かめている。そのそばで、ユードが荷車の車輪へ新しい留め金を打っていた。彼の娘の冬靴は、まだ買えていない。
「出なかった日を出すなら、出た日の前に、家のことも出せ」
オルドは言った。
「水を調べるなとは言わん。町の子が杯を落とすなら、調べるべきだ。だが、名前だけ出して、坑夫は危ない水で金を稼いでると書かれたら、靴職人も、炭の商人も先に引く。試験停止の基礎賃は今日だけだ。明日、融資が遅れれば、排水番の賃金まで同じ箱から出す」
「町の紙に、家族名簿を貼るんですか」
「貼れとは言わない」
オルドは低く言った。
「だが、止めるなら誰が残るか、残らない者に何を払うかを、一緒に書いてほしい。鉱山を止めろ、だけでは、弁を閉じたあとに水位が上がる。続けろ、だけでは、町の水を使う人が逃げ場を失う。どっちの紙にも、もう片方の暮らしがない」
リナは、採水箱の蓋へ手を置いた。水番所の紙には、北水路を止めたために、炊事、服薬、洗濯、消火がどれだけ足りなくなったかを書いてきた。坑夫の家で、誰が靴を待ち、誰が薬を買うかは、紙の外に置いていた。
「家族の名前を出さなくても、必要なことは書けます」
リナは言った。
「排水を続けるために必要な番の数。採掘を止めた日に、日当が減る人の数。代替の仕事があるか。水を止めた町で、何が足りないか。名前ではなく、止めたら困る順番として」
「数なら、また人が消える」
オルドの声は硬かった。
「靴が買えない子は、一人じゃない。だが、二十人と書かれたら、役所は二十人の欄だけを見る」
リナは反論しかけて、やめた。自分も、症状の人数だけで水を止める順番を決めかけた。マラの手が震えると書き、トワが杯を持てないと聞いて、初めて一つの症状の後ろにある動作を見た。
入口の板壁には、昨日から家族名簿の欄が増えている。そこには、妻と母、弟二人と祖父、娘と書かれた紙が並ぶ。名だけでは、何を守ろうとしているのかは分からない。けれどオルドは、その紙を賃金箱の脇へ置き、見えないようにしまい込んではいなかった。
リナは自分の帳面から、水を止めた町の欄を開いた。炊事、薬を飲む半杯、火傷の包帯、火の見の桶、家で洗う子どもの衣服。そこにも、誰が先かを決めた紙がある。水を止めたことで困る人と、鉱山を止めたことで困る人は、別々の欄に書かれてきた。
「あなたたちは、町の紙に何を出してほしいんですか」
リナが訊いた。
オルドは、すぐには家族名簿を見なかった。
「鉱山が危ないと言われたら、危なくないとは書けん。坑道の水が増えれば、俺たちも危ない」
彼は言った。
「だが、採掘を止める日には、排水を続ける者がいる。止めたことで薪代が遅れる家がある。そこを『鉱山の都合』の一言にしないでほしい。町が水を止めたとき、薬を飲む人の分まで考えたなら、こっちにも同じ紙がほしい」
リナは、その言葉を痛いと思った。北水路を止めた日に、彼女は家で薬を飲む人の半杯を、帳面の余白から表へ移した。けれど、黒嶺の門を前にしては、坑夫が何を飲めなくなるかまで聞こうとしなかった。
「水番所の掲示に、生活への影響を別の欄で出します」
リナは言った。
「鉱山が原因だと決まったからではなく、試験停止で何が変わるかとして。排水番の人数、待機した人の数、今日の基礎賃が出るか。家族のことは、本人が書いてよいと思った範囲だけ」
「書かない家は、どうする」
「書かない理由まで訊きません。でも、書かなかったから困っていない、とは数えません」
オルドが、初めてリナの帳面をまっすぐ見た。
「水で具合を悪くした人も、同じか」
「同じです。症状を話さなかった人を、平気だった人数には入れません」
二人の帳面には、まだ互いの紙にない空白が多い。だが、空白を都合よく「問題なし」と呼ばないことだけは、同じ言葉で確認できた。
「なら、数と、困ることを一緒に書きます」
「どうやって」
「家の人が選びます。靴、薬、薪、食事。言いたくない人は言わなくていい。でも、今日の賃金が遅れたら何が先に止まるかを、本人が一つ書く。町の水の紙にも、止める側が何を引き受けるかを書きます」
オルドは、すぐには頷かなかった。賃金の話を水番へ渡すことが、坑夫の弱みを町へ渡すことにもなる。リナも、健康の話を鉱山の都合で遅らせるつもりはない。二人の間には、採水箱ほどの距離しかなかったが、その箱へ入るものは、まだ一つも決まっていない。
入口の中から、ユードが出てきた。彼は車輪の留め金を持ったまま、二人の会話を聞いていたらしい。
「俺は、書く」
オルドが振り向く。
「靴のことをか」
「靴だけじゃない。娘が雪の朝に歩けなくなったら、妻が町まで薬を取りに行けない。水が悪いなら、娘にも困る。だから水を調べるなとは言わない。でも、鉱山が閉まるって噂だけで、靴を買えなくなるのも困る」
リナはユードへ、家の名まで書かなくてよいと伝えた。彼は少し考え、冬靴、薬を取りに行く道、と紙に書いた。字はぎこちなかったが、帳面の人数欄より先に、何が失われるかが見える。
オルドはその紙を受け取らず、入口の板壁へ留めた。
「採水の話へ戻る」
彼は言った。
「坑道の中は、まだだ。弁を知らない者が入れば、試験停止の日でも事故になる。だが、外の溜め場、山腹の水路、川へ合流する前の樋は見せる。坑夫側で採る者を一人。町側で採る者を一人。どちらも、相手の箱へ勝手に触らない」
「水は二組ずつ採ります」
リナが続けた。
「一組は鉱山が持つ。一組は水番所が持つ。容器の番号と、採った刻と、立会人を両方の帳面へ書く。結果が出ても出なくても、同じ日に両方の掲示板へ貼る」
「雨の日は」
「雨の日も採ります。反応が出ないなら、出ないと書く。雨だから安全だとも、雨だから分からないとも、先に決めません」
オルドは排水の樋を見た。今日の試験停止中も、細い水は山腹を下っている。あの水を見せれば、町の人が怖がることは消えない。見せなければ、鐘の空白だけが後から見つかる。
「立会いには、坑夫の家から一人入れる」
「町側も、水を使う人にします。水番と役所だけにはしません」
「封をする前に、箱を互いに見せる」
「開けるときも、同じ人がいる前で」
二人は、ようやく同じ紙を見た。
和解したわけではない。水がどこから悪くなったのかも、試験停止の賃金を何日支えられるかも、まだ決まっていない。それでも、相手の口を塞いだまま瓶を持つよりは、次の水を比べられる。
リナとオルドは、共同採水だけは合意した。




