第5巻 第15話 杯を持てない子
サナは、朝の診察台の脇に、小さな木の杯を三つ置いた。
治癒院へ来る人の中には、腹を押さえる者だけでなく、指をうまく閉じられない者がいた。震えがあると話しても、眠れていないからだ、冷えたからだ、と言われて帰った人もいる。どちらも間違いではない。けれど、帰ったあとに匙を落とし、薬をこぼし、子どもの手を引けなくなった時間まで、診察の紙には残らなかった。
長く治癒院へ通うサナには、聞かれなかった困りごとがどこへ消えるかが分かる。胸の痛みを十の数で言えなくても、夜に横になるまで何度起き直したかは言える。今朝の杯も、震えを測るための道具ではない。水を飲む、薬を飲む、粥を運ぶ。その三つのどれができなくなるのかを、話してもらうために置いた。
最初に来たのは、洗い場で包帯を仕分けたマラだった。彼女は椅子に座る前に、右手を膝の下へ隠した。
「見せなくていいです」
サナが言うと、マラは驚いたように顔を上げた。
「でも、手が震えるんでしょう」
「震えていることは、もう聞きました。今日は、震えると何が止まるかを聞きたいんです」
サナは小さな杯の一つへ、ぬるい湯を半分だけ入れた。マラは左手で持とうとしてから、両手を添えた。杯は落ちなかったが、縁の湯が少しこぼれた。
「昼の薬湯を運ぶときです」
マラは言った。
「洗い場のあとの手で、火傷の人の包帯を持つのが怖い。落としたら、また水を使うことになるから」
症状の欄に、手の震え、とだけ書けば、彼女が怖がっているのは痛みではなく、次の包帯と水の順番だということが消える。サナは紙へ、昼二刻以降、両手で杯。運ぶ作業を避けた。包帯の仕分けは可能、と書いた。
「朝はどうでした」
「朝は、まだ針へ糸を通せた」
「昨日の夜は」
「寝る前は、匙を落とした」
サナは、できなかったことだけでなく、できたことにも印をつけた。いつから悪くなるかが分からなければ、明日、仕事を分けることもできない。
次の椅子には、少年が母親と一緒に座った。名前はトワ。八つになる。母親は、診察の前から何度も「大したことではないんです」と言った。トワの手が震えるのは、朝だけで、昼になれば止まる。熱もなく、顔色も悪くない。前の日、学校の先生に話したら、寒い教室で緊張したのだろうと言われたという。
「先生は、悪いことを言ったわけじゃないんです」
母親は子どもの肩へ手を置いた。
「この子も、朝は冷えるからって言っているし。家では水も沸かしてる。でも、杯を持つと、こぼすんです」
トワは、自分の前の杯を見ていた。サナが目を合わせると、少年は母親より先に話した。
「こぼす前に分かる」
「どうやって」
「指が、先にぴりぴりする。手をぎゅっとしても、親指だけ遅い。そうなったら、持たない」
母親が少し驚いた顔をした。トワはいつも、落としたあとに泣く子だと思われていたのかもしれない。
「持たないときは、どうするの」
サナが訊く。
「机に置いて、口を近くにする。でも学校の杯は高いから、椅子に乗らないと届かない」
「誰かに頼める?」
トワは首を横に振った。
「先生は朝、みんなに水を配る。遅いと、次の読み方が始まる。ぼくの分だけ置いてって言うと、冷める」
それは、震えの話だけではなかった。学校で水を飲める刻と、授業が始まる刻の間に、トワは一人で杯を持とうとしている。サナは杯を机の端から低い台へ移した。
「この高さなら、手がぴりぴりするときも飲めそう?」
トワは椅子から降り、両手で杯の縁を押さえた。少し考えてから、台の方がいいと頷く。
「取っ手があったら、もっといい。指を下にできるから」
サナはその言葉を、症状の後ろに書いた。朝、指のぴりぴり。親指が遅い。高い杯ではこぼす。低い台と取っ手があれば飲める。子どもが言えたことは、子どもの不調を大人の判断へ渡すためだけの答えではない。次の朝、本人が困らずに水を飲むための条件だった。
「いつからそうなるの」
サナが訊くと、トワは指を折って数えた。
「おとといと、その前の日。昨日は平気だった。雨がいっぱい降ったから」
母親が不安そうに顔を曇らせた。
「水のせいってことですか」
「まだ、決めません」
サナは答えた。
「朝の冷えでも、寝不足でも、ほかのものでも手は震えます。ただ、平気だった朝も書きます。トワくんが何をして、何を飲んで、どの刻から困ったかも」
トワは、昨日の朝は父と薪を運んだあと、家で粥を食べたと言った。困らなかった日は、母が東の泉から買った水で粥を炊いた日でもある。けれど、その一日だけで東の泉が安全とも、北水路が悪いとも言えない。サナは水の名前ではなく、朝一刻、薪運び後、粥半杯、震えなし、と書いた。
母親は、そこで初めて帳面をのぞき込んだ。
「前に診てもらったときは、熱がないなら家で休ませてって言われました」
責める声ではなかった。あの日、診た人も間違ったことを言ったわけではないのだろう。熱がなく、顔色が戻り、昼には走れる子を、急いで寝かせる理由は少ない。それでも、朝にだけ杯を落とすことが続けば、母親は学校へ行かせるか、家に置くかを毎日ひとりで決めることになる。
「休ませた日は、困りませんでしたか」
サナが訊くと、トワは首を振った。
「家でも困る。妹の薬を、おばあちゃんに持っていくのがぼくの番だから」
母親が言いかけて、口を閉じた。トワは続ける。
「朝は、薬の壺を運べない。落とすと、妹が昼まで飲めない。だから、お父さんがいる日は待つ。でも、お父さんは薪を売りに行く」
サナは、杯を持てないことの後ろに、妹の薬が待つ朝を見た。子どもの震えを大人が信じるかどうかだけではない。信じても、壺を誰が運ぶかを決めなければ、家の中では何も変わらない。
「壺は、低い籠に入れられますか」
「布を詰めれば」
トワはすぐに答えた。
「持つんじゃなくて、床を押して運ぶ。廊下ならできる。段差だけ、お母さんが持ってくれたら」
母親は息を吐いた。代わりに全部を運ぶのではなく、段差だけを手伝う形なら、トワが薬の番を続けられる。
サナは学校向けの紙とは別に、家用の紙へ「朝の前兆があるとき、薬壺は低い籠。段差だけ大人が手伝う」と書いた。診察台の前で決めるには小さすぎることかもしれない。だが、困る場所へ戻ってから使えない助言は、聞いたことにはならない。
母親は紙を受け取り、今度は「大したことではない」と言わなかった。明日の朝、杯と薬壺のどちらを先に渡すかを、トワと一緒に決め始めていた。小さな順番でも、家の朝を変えるには十分な相談だった。
昼までに、同じような話を三つ聞いた。市場の娘は、朝の洗い物では平気だったが、昼前に魚をさばく包丁を持つと、手が震えた。水番所の使いは、北水路を運んだ日でも何もなく、夕方に父の手伝いで桶を洗ったあとだけ指が冷えた。どちらも、症状がない刻を先に話してくれた。サナは、それを余白へ追いやらず、症状と同じ大きさで書いた。
イレナが診察室へ入ってきたとき、紙は杯の横まで広がっていた。
「今日はずいぶん聞いたのね」
「同じ震えでも、困る時が違います」
サナは答えた。
「薬を持てない人、包帯を運べない人、学校で飲めない子。震えがある、と一行にすると、誰が何を手伝えばいいかが分からなくなる」
イレナは、トワの低い台の絵を見た。
「学校へ渡す紙にする?」
トワは母親の袖を引いた。
「先生に、病気だって言わないで」
サナは紙から顔を上げた。
「何て書いてほしい?」
「朝だけ、低いところに置いてって。取っ手のある杯なら飲めるって」
母親は、目元を押さえた。大ごとではないと言い続けていたのは、息子のことを小さく見ていたからではない。病気の名がつけば、学校でも近所でも、トワが杯を持つ前からできない子にされるのが怖かったのだろう。
サナは短い紙へ、朝の水は低い台へ置くこと、取っ手のある杯を用意すること、本人が指の前兆を言ったら待つこと、と書いた。原因の名は書かない。できることまで奪わないための紙だった。
夕方、サナは聞き取りの紙を水番所の記録と並べた。リナが、北水路を止めた日、雨の翌日、橋下流の水を使った日を、別の色で印している。オルドから届いた紙には、坑道の外側の弁を開いた刻と、放流鐘の回数がある。
サナは、子どもの名の横へ、震えが始まった朝を書いた。トワだけではない。三人の子どもが、前日の夜ではなく、朝の水を使ったあとに指の震えを言っていた。
放流の翌朝と重なる日が、いくつかある。
サナはその線へ、まだ丸をつけなかった。雨の翌日は震えが少なく、放流がない日にも手を震わせた子がいる。重なったことは、原因ではない。
それでも、聞き取った三人では、震えが放流翌朝に偏っていた。




