第5巻 第14話 止めた日の賃金
試験停止の日、黒嶺の入口には槌の音がなかった。
代わりに、荷車の車輪を外す音と、排水輪の軸へ油を落とす音がしていた。昨日、放流鐘の帳面に空白を見つけたオルドは、領主庁と水番所へ人を出した。黒嶺が原因だと決めるためではない。採掘を半日止め、水位と排水の量を、掘っている日と比べるための試験だと伝えた。
坑夫たちは朝の列で、いつもの道具を受け取らなかった。槌と鑿は壁の棚に残り、代わりに泥掻きの鍬、弁の予備栓、運搬用の空箱が渡される。採掘を止めても、坑道へ入る水まで止まらない。水位を読む者、沈め槽を掻く者、排水輪の軸を見張る者、外の溜め場で水を測る者は、むしろ普段より多くいる必要があった。
「今日の札を読める者は、ここへ来い」
オルドは入口の板壁に新しい紙を打った。紙には三つの欄がある。採掘停止。排水・安全継続。記録と採水立会い。三つ目の欄には、仕事の名の横に、半日と書いた。
ユードが紙の前に立った。娘の靴を取り置きしてもらえないと話していた若い坑夫だ。彼は自分の名が、採掘停止の欄にあるのを見て、顔を曇らせた。
「止めるなら、今日の賃金はどうなる」
その声を待っていたように、列の後ろからも言葉が出た。
「排水番だけ残るなら、俺たちは帰れってことか」
「休んだ日として引かれるなら、子どもの冬着は買えない」
「水を調べるための試験なら、瓶を持つ役所が払うのか」
誰も、町の水が悪くないと言っているわけではない。治癒院で腹を押さえる人が増えたことも、東の泉まで桶を運ぶ者がいることも知っている。それでも、一日の賃金が抜ければ、正しい調査のためだという言葉だけで夕飯を買うことはできない。
オルドは紙の前から退かなかった。
「採掘の出来高は、今日はつかない」
ざわめきが大きくなる前に、続けた。
「だが、排水と安全の番は通常の日当で払う。記録と採水の立会いも、鉱山の仕事として日当を出す。坑へ入らず待機する者には、半日分の基礎賃を出すよう、領主庁へ書いている。まだ返事は来ていない」
「返事が来なかったら」
バンが訊いた。責める調子ではなかった。排水の夜番を続ける者として、先に聞かなければならないことを聞いていた。
「鉱山の賃金箱から、先に出す」
オルドは答えた。
「次の融資が遅れれば、俺が帳面の責任を持つ。だが、排水を見ている者だけに払って、待機した者を無給にはしない」
その言葉で、皆がすぐ安心したわけではない。賃金箱に、冬を越せるほどの余りがないことを知っているからだ。けれど、採掘しない者を、何もしていない者として扱わないとオルドが言ったことは残った。
荷車係のユードが、空箱を見た。
「俺は何をすればいい」
「外の溜め場で、採った瓶を運ぶ。瓶の箱は、鉱石箱と混ぜない。誰が持ったかを札に書く」
「それで日当になるのか」
「なる。水位が上がれば、荷車を退ける。お前が道を空けなければ、排水番が弁へ行けない」
ユードは唇を噛んだ。槌を持たない日を、働いた日と呼んでいいのか迷っているようだった。だが、空箱を持ち上げると、昨日まで鉱石を運んだ腕で、採水瓶を守る箱の留め金を確かめた。
午前のうちに、領主庁からノアが来た。手には一枚の紙しかない。紙には、試験停止中の基礎賃を領主庁が立て替えること、排水・安全番と記録係は通常の日当とすること、人数と刻を記した帳面を添えること、とあった。試験のために働いた者だけでなく、試験のために採掘を待った者の名も必要だという。
「全部、通るのか」
オルドが訊くと、ノアは紙を折らずに答えた。
「今日の分です。明日以降は、水位と試験の記録、町側の給水状況、鉱山の必要人数を見て決めることになります」
「毎日、紙の返事を待つのか」
「待たせないために、今日の人数と、止められない作業を分けて書いてください。採掘班全員を『鉱山』の一行にすると、次の人には何が必要か伝わりません」
オルドは、その言葉に腹が立つより先に、昨日まで自分が同じ書き方をしていたことを思い出した。鉱山を止めるな、と言ってきた。だが鉱山の中で、誰が水を見て、誰が弁を回し、誰が弁へ行く道を空けるかを、外の者へ伝えたことはなかった。
「排水番は四人。泥掻き二人。弁係二人。水位を見る者二人。採水箱と記録は三人。待機は、採掘班と荷車の残り」
オルドは指で数えた。
ノアはその数を紙へ写した。鉱山を守るための数字ではない。今日、水をあふれさせず、仕事を失う者を一人で決めないための数字だった。
その紙を見ていた日雇いの女、セトが、入口の外から声をかけた。彼女は石を運ぶ常勤の坑夫ではない。荷車から降ろした鉱を選り分け、布へ包む日にだけ呼ばれる。採掘停止の朝には、名札を受け取らず帰るはずの人だった。
「待機の基礎賃って、私にも出るんですか」
オルドは紙を見直した。ノアが持ってきた文には、採掘班と荷車の残り、としか書いていない。日雇いを常勤の後ろに置けば、今日の停止は彼女にとって、仕事がなかった日になる。
「今日は、何をする予定だった」
「午前は選り分け。午後は、濡れた布を干す。昨日の雨で、鉱石箱の下の布が湿ってる」
「その布を放っておけば」
「次に箱へ入れる鉱が濡れる。売るまで待つ間に、箱の底が傷む。明日だけ休めば済む話じゃない」
セトは、自分の食費だけを言っているのではなかった。湿った布を替えなければ、止めた日のあとに荷車も箱も使えなくなる。試験停止のために残す仕事と、採掘を続けるために必要な仕事は、帳面の雇い方ではきれいに分かれていない。
オルドはノアへ向き直った。
「乾燥と箱の点検を、保全の欄へ入れる。日雇いでも、今日の試験で止めるから必要になった仕事だ」
「人数と刻があれば、追加します」
ノアは答えた。
セトは名札を受け取り、安堵したようには見えなかった。代わりに、湿った布の枚数を指で数え始める。家には病み上がりの夫がいて、今日は薬を買う日だと、後からバンが小声で教えた。だがオルドは、その事情を紙へ書かせなかった。家族のことを知らなければ賃金を払わない形にはしたくない。ただ、今日止めたことで消えかけた仕事を、先に仕事として戻した。
「箱の点検が終わったら、排水路の外の足場も見てくれ」
オルドは言った。
「雨で滑る。採水の人が立つなら、転ばない場所を決めたい」
「鉱石の布を干して、町の人の足場も作るのか」
セトは少し笑った。
「今日の仕事が、明日なくならないならやります」
オルドは頷いた。鉱山を止める試験は、採掘の音を消すだけでは終わらない。残した作業に誰を置き、誰へ払うかを間違えれば、次に水位が上がった日に、弁を見られる人も、箱を乾かす人もいなくなる。
昼、採掘場は静かだった。いつもなら石を打つ音で互いの声が届かない場所に、水の落ちる音だけがある。エダとバンは沈め槽の前で泥を掻き、オルドは二度、水位の刻みを確認した。槌を入れないぶん、水位が急に下がるわけではない。雨の水は壁の向こうから続いている。けれど、荷車が奥の通路を通らず、掘った石を洗う水も増えないため、溜め場へ送る量は少しだけ軽くなった。
その少しを、オルドは帳面へ書いた。採掘停止、午前二刻から昼二刻。水位、指二本半から二本。外側の弁、一回。放流鐘、一回。原因ではない。採掘を止めた日に、何が変わり、何が変わらなかったかだけだ。
外の溜め場では、リナが水番所の帳面を開いていた。彼女は鉱山の名を紙の表題に書かず、採水の位置、時刻、容器、立会人を読んでいる。オルドは昨日なら、その丁寧さを遠回りだと思ったかもしれない。だが、鐘の一回が帳面から抜けた以上、誰かの記憶だけへ水の行き先を預けてはならない。
「排水を続けることを、町へ言う」
オルドはリナへ言った。
彼女は帳面から顔を上げた。
「続けると、怖がる人もいます」
「だろうな。だが、止めれば濃い水が坑へ溜まる。弁を閉じたままにする方が、急にあふれたとき、誰も止められない」
オルドは外の水路を指した。
「だから、採掘を止める。排水は、量と刻を記して続ける。番を残す者には日当を払い、残らない者にも今日の基礎賃を出す。町の水を守る仕事と、坑夫の家を守る仕事を、どちらか一つにしないでくれ」
リナはすぐには頷かなかった。鉱山の言葉をそのまま町の掲示へ移せば、排水を許したように見えるかもしれない。だが、理由を隠せば、また黒い水だけが先に見える。
「量と刻、鐘、弁を動かした人の名を、町側の紙にも書きます」
彼女は言った。
「そして、何のために排水が止められないかも。怖い人がいることは消さずに」
夕方、入口の板壁には、もう一枚紙が増えた。試験停止に参加した者、排水を続けた者、待機した者。その下に、家で今日の賃金を待つ者の人数を記す欄がある。
最初に名を書いたのはバンだった。妻と、寝たきりの母。次にエダが、弟二人と祖父の名を書いた。ユードは少し迷ったあと、娘の名を書き、靴が一足必要だと余白へ添えた。
誰も、哀れんでもらうための紙だとは言わなかった。
坑夫たちは、自分たちの家族名簿を出した。




