第5巻 第13話 坑道の黒い水
黒嶺の朝は、鐘より先に水の音で始まる。
オルド・ガイゼは坑道の入口で灯を受け取ると、採掘場へ向かわず、下へ続く排水の階段を降りた。槌を持つ坑夫はすでに奥へ入っている。だが、壁の湿りが夜より濃くなっていれば、掘る仕事より先に、水を外へ出す仕事が詰まる。
階段の下では、沈め槽の蓋を開けたバンが、長い棒で底を探っていた。坑道から来た水は、最初にここへ落ちる。砂と鉱の粉を沈め、上に溜まる水だけを次の槽へ渡す。濁ったものを全部きれいにする設備ではない。けれど、いきなり山腹から流すよりは、川へ行く前に泥を残せる。
「夜の水位は」
オルドが訊く。
「印の下、指三本。朝は二本半」
バンは槽の内壁につけた刻みを指した。水面は昨日より高い。雨の翌日は、山の割れ目から坑道へしみる水が遅れて来る。外の川が明るく膨らんでいても、坑の内側では一晩分の水が、石の隙間を伝ってから上がってくる。
「輪は」
「朝から一刻早く回してる。軸は鳴ってない」
排水輪の回る音は、一定の間隔で、下の水を汲み上げていた。輪が止まれば、沈め槽はすぐに満ちる。満ちた水は、泥を沈める時間もなく、低い支坑へ戻る。採掘を止めることはできる。だが、坑道へ入った水まで、止めたという言葉で立ち止まってはくれない。
沈め槽の向こうには、古い支坑へ続く細い横道がある。そこは今は掘っていないが、壁の裏からの水を集めるため、石の溝だけは残してある。オルドは灯を低くして、その溝をたどった。昨夜の雨で流れ込んだ細枝が、鉄の格子へ引っかかっている。格子が詰まれば、水は溝を越え、使っていない支坑へ入る。そこへ人がいなければ、見つかるのは水位が上がってからになる。
「こっちは、俺が取ります」
エダが後ろから来て、かぎ棒を差し出した。
「交代の刻だろう」
「交代の前に、水が来る」
若い弁係の言葉は、妙に平らだった。昨夜の帳面に自分の印があるせいかもしれない。オルドはかぎ棒を渡さず、一緒に格子の前へ膝をついた。枝を引けば、泥に混じって細かな黒い粉が流れた。鉱の粉だけとも、山の土だけとも、ここでは分けられない。二人は桶へ掻き出し、槽へ戻らない場所へ積んだ。
「これを見て、町の人は黒嶺の水だと言うだろうな」
エダが言う。
「言うかもしれん」
「違うなら、違うと何で言える」
オルドはすぐに答えなかった。黒い泥を見せれば、鉱山が汚しているように見える。隠せば、隠したことだけが残る。町の水の苦味と、この溝の泥の色を同じに扱わないためには、どこから来た水が、どの槽を通り、どの刻に外へ出たかを、人に見せられる形にしなければならない。
「違うと言いたいなら、違う水も採る」
オルドは言った。
「坑の奥から来た水。沈める前の水。外へ出す水。雨の溝の水。どれが同じで、どれが違うかを、俺たちだけで決めない。だが、水位を見ずに瓶だけ持って来る人には任せない」
エダは格子の向こうを見た。そこには、家へ帰れば夕飯を待つ者がいる。排水係の仕事は、坑内の汚れを外へ出すだけに見えるかもしれない。実際には、濃い水を溜めすぎず、坑夫を低い場所に残さず、明日も弁を動かせるようにする仕事だった。
格子を片づけると、流れは少し細くなった。オルドは棒の先を水面へ当て、刻みまでの距離を測る。指三本から二本半。下がり始めたとはまだ言えない。だが、次の弁を開くまでの刻は、わずかに延びた。
入口へ戻る途中、荷車の若者が石の壁にもたれて待っていた。採った鉱石を運ぶ役のユードだ。槌を持つ者が休むあいだ、彼は空の荷車を並べ直している。
「今日は外へ出せますか」
「鉱石をか」
「荷車を出せなければ、次の段の箱が空かない。箱が空かなければ、奥の人が槌を置く。槌を置けば、水を掻く人の分まで、明日の賃金が減るって皆が言ってます」
オルドは、すぐに大丈夫だとは言わなかった。
「水位が二本を越えれば、荷車を止める。お前は、その時は上の段へ箱を寄せろ。排水係の道を空ける」
「分かりました」
ユードは頷いた。操業を続けるか止めるかは、坑夫長と領主庁だけが決めることではない。一つの箱を動かす若者も、弁係が通る道を空けることで、坑道の水を外へ出す手を支えている。オルドはその名前も、今日の板帳の作業欄へ書くことにした。
オルドは、槽の脇に置かれた板帳を開いた。夜番の名、最初の水位、泥を掻いた刻、排水輪へ薪を足した刻。昨夜の欄には、バンと若い弁係のエダの印がある。
「外へ回したのは」
「一回。夜二刻」
バンが答えた。
オルドは帳面の次の頁を見る。外側の放流樋を開けるときは、門の上にある青銅の鐘を一度鳴らす。坑内へ知らせる鐘ではない。沈め槽から次の槽を通り、山腹の細い水路へ水を出す刻を、弁係と外の見張りが同じにするための鐘だ。水が多ければ二度、少なければ一度。鐘の横の小帳には、見張りが刻と回数を刻む決まりだった。
「今日は、鐘まで俺が見る」
オルドは板帳を閉じた。
バンは棒を引き抜いた。黒い泥が先に垂れ、そのあと薄茶の水が落ちる。
「町の連中が、また来るか」
「来るなら、門で止めない」
そう答えながら、オルドは昨日のことを思い出していた。許可証を持った調査班を、坑夫たちは入れなかった。自分も止めた。水を採る瓶が、坑道の弁や賃金箱の重さまで見てくれるわけではないと思ったからだ。
だが、門を閉めたあとにも、北水路を使えない町の桶は空になる。あの水が黒嶺と関係あるかは、まだ誰にも分からない。それでも、黒嶺の水を見せずに違うと言い張るほど、オルドは自分の耳を信用していなかった。
「水位が刻みの二本を越えたら、採掘班を一段上へ上げる」
オルドはバンに言った。
「槌を止めても、排水輪と泥掻きは残す。外の弁も、いつもどおり開ける。誰が何をしたかは、今日から俺の印も入れる」
「坑夫長まで夜番をする気か」
「俺が見なかったことを、町へ分からないと言うつもりはない」
バンは返事をせず、板帳の余白を指で押さえた。そこへオルドは、自分の名を書いた。見張る人を増やせば水が減るわけではない。けれど、誰も見なかった水が増えるよりはましだった。
昼前、沈め槽の水位が刻みの二本へ触れた。
エダが排水輪の脇から駆けてきた。まだ二十にもならない彼は、昨夜の弁係だった。濡れた袖を絞りながら、口を結んでいる。
「外側の槽がいっぱいになる前に、一度回した方がいい」
オルドは頷いた。
「鐘を鳴らせ。バンは外の樋を見ろ。俺は水位を記す」
エダが壁際の紐を引く。
ゴン、と鈍い音が坑道の石へ響いた。
坑の奥で槌を持つ者が手を止める。水を出す鐘だと分かれば、低い通路にいる者は足元の流れを確かめ、荷車を一段高い場所へ寄せる。鐘は町へ聞かせるためのものではない。坑の中で、水が動くことを知らずに働く者を残さないためのものだった。
外へ出ると、山腹の水路は沈め槽から細く伸びていた。木樋の手前に、もう一つ浅い溜め場がある。ここで大きな砂を落とし、溢れない量だけを川へ下ろす。エダは弁の柄を半回しだけ動かし、バンは溜め場の水面が下がるか見ている。
水は黒く見えた。けれど、黒いのは水だけではない。細かな鉱の粉と、坑道の壁から剥がれた土が、陽の光を受けずに溜まっている。オルドはその色を、町の苦味と同じだとは言わなかった。雨のあとには、山の土も川を濃くする。見た目だけで一つに結べば、坑夫が町の水を悪くしたと決める言葉だけが先に流れる。
それでも、外へ出す水があることは隠せない。
「記録帳を持って来い」
オルドはエダへ言った。
「水位、弁を開けた刻、鐘、誰が見たか。外側の樋の前にも書く。次に調査の人が来たら、この水だけは、俺たちで採る」
「自分で採れば、都合のいい場所を選んだって言われませんか」
エダが訊いた。
「言われる」
オルドは認めた。
「だから、選んだ場所と選ばなかった場所も残す。町の人に立ってもらう。だが、弁を知らない者に急に触らせはしない。坑夫が仕事を守ることと、水を隠すことは同じじゃない」
バンが、流れの先を見ていた。水路は林の下を抜け、岩場の陰で川へ合流する。北水路の取水口は、そこよりずっと下だ。途中に畑の堰も、雨水の溝もある。オルドは、自分の目で追える道だけを見た。見えない先まで、関係ないと言う資格はなかった。
午後、坑道の水位は少し下がった。採掘を止めずに済んだことで、ユードたちは槌を置かずに済む。だが排水係のエダとバンは、休みの刻にも槽のそばを離れなかった。水を出す作業は、掘る仕事の隙間にある雑用ではない。鉱山を今日も開けるために、最初から残さなければならない仕事だった。
オルドは、入口の見張り小屋へ上がった。鐘の横には、革紐で綴じた小帳がある。朝からの鐘を、外の見張りが刻ごとに記す。昼前の一回は、今聞いたばかりの音と同じ太さの墨で書かれていた。
その下に、昨夜の欄があった。
板帳には、夜一刻と夜二刻に外へ回したとある。バンも、昨夜は二回だと言った。だが鐘の小帳には、夜一刻の一回しかない。夜二刻の欄は空白だった。
オルドは、帳面を閉じなかった。
誤って書き忘れただけかもしれない。風で鐘が聞こえず、見張りが刻を取り違えたのかもしれない。あるいは、鐘を鳴らさずに弁が開かれたのかもしれない。
どれであっても、今はまだ北水路の苦味へ結べない。
それでも、放流鐘の記録は一回少なかった。




