第5巻 第12話 洗い場の手
リナは、洗い場の桶を朝から数え直した。
北水路を止めて四日目になる。東の泉から来る樽は、飲む分と薬を溶く分を先に治癒院へ回している。洗い場の者には、昨日の雨で溜めた水と、橋の下流から運んだ水を、用途を限って渡していた。
けれど、腹を痛めた人だけを追っていても、昨日から増えた手の震えは説明できない。
洗い場の裏手で、包帯をすすいでいたマラが、濡れた指を握ったり開いたりしていた。彼女は水を飲んでいない。朝の粥も、東の泉の水で炊いたものだと、昨日の帳面にある。
「いつからですか」
リナが訊くと、マラは手を布へ押し当てた。
「昨日の昼から。冷えたせいかと思ったけど、夜に針へ糸を通せなかった」
「今日、この桶を使ったのは何刻から」
「朝二刻。寝具を先にすすいで、そのあと包帯」
リナは、マラの答えをすぐに症状の欄へ書かなかった。桶の札を裏返す。昨日、橋の下で採った水を運んだミラの印があり、その下に洗濯場用、朝一刻半とある。今日の雨水ではない。マラが包帯をすすぐ前には、宿屋の寝具が二籠、同じ水へ浸けられていた。
「寝具をすすいだ方にも、同じことを訊いていいですか」
マラは頷き、隣の石槽を指した。年若い洗濯係のナジが、両腕を肘まで濡らして布を絞っている。彼の手は赤くなっていたが、震えてはいない。
「痒くはないですか」
リナが訊く。
「冷たいから赤いだけです。朝は平気でした」
「腹の具合は」
「何でもない。昼も食べました」
ナジは少しむっとした顔をした。具合の悪い者に数えられるのが嫌なのではない。水を止めている町で、洗濯まで止める口実にされるのが怖いのだろう。リナは帳面に、朝二刻から寝具二籠、橋下流の水、手の赤みあり・震えなし、腹痛なし、と書いた。
「何もないことも書くんですか」
ナジが不思議そうに覗き込む。
「同じ水で、何もない人がいたなら、あとで必要になるから」
「俺が丈夫だってことじゃなくて」
「丈夫だったかどうかも、分けて見ます。どの水を、どれくらい、何を洗うために使ったかを」
リナは答えた。苦味を感じた自分の舌だけなら、帳面に書けるのは自分の朝だけだ。誰がどの時刻にどの水へ手を入れたかを並べなければ、マラの震えもナジの赤みも、冷えや石鹸や寝不足と区別できない。
桶洗いをしていた年配の女、フロウにも聞いた。彼女は洗い場の水で木桶の外側をこすったが、手袋を使っていた。症状はない。飲み水は家から持って来た東の泉の分で、朝から昼まで、手袋の内側は乾いていたという。
「じゃあ、桶洗いは関係ないってことかい」
フロウが言った。
「まだ分かりません」
リナは手袋の縁を指した。
「同じ桶でも、手袋の外と内で触れ方が違う。あなたが平気だったことも、マラさんが震えたことも、どちらも残します」
フロウは自分の手袋を外さず、しばらく桶を見た。
「なら、私の水仕事だけ、別の印にしておくよ。次に来た者が、素手かどうか聞かなくて済むように」
彼女は桶札の端へ、革手袋の形をした小さな印を書いた。リナはその隣に、朝一刻半から昼二刻、桶外側二十個、橋下流の水、手袋使用、症状なし、と写した。次に同じ桶を使う人が、手袋の有無まで戻って確かめられるように。
洗い場の奥には、雨水をためた低い石槽がある。昨日の夜からの雨を屋根の樋で集めたもので、橋下流の水とは混ぜていない。そこでは宿屋の下働き、ユイが食器を洗っていた。両手は水に浸かっているが、赤みも震えもない。彼女は朝から同じ仕事をしており、飲み水は家から持ってきた湯冷ましだけだという。
「石鹸は、マラさんと同じですか」
リナが訊くと、ユイは木箱から灰色の塊を見せた。洗い場で共通に使う灰石鹸だった。
「桶は違う。こっちは雨の水だもの。ぬるくないけど、食器に使えるなら、寝具にも回したらどう」
その提案に、マラが少し顔を上げた。だがリナは、すぐに石槽の水を寝具へ回すとは言わなかった。屋根の雨水には、鳥の羽や煤が入ることがある。皮膚の震えを避けるために、包帯を別の汚れで濡らしてよいわけではない。
「今日の分は、食器だけにします。包帯へ使えるかは、治癒院と決めてから」
「また待つのかい」
ユイは責める声ではなく言った。待つ人が増えていることを、彼女も洗った皿の数で知っている。
「待たせるなら、何を待つかを書きます」
リナは雨水の欄へ、朝一刻から昼二刻、食器洗い、灰石鹸、素手、症状なし、と書いた。その横に、包帯へ未使用、治癒院確認待ち、と加える。水が違えば、何も起きなかったことも同じ線には置けない。それでも、同じ石鹸で、同じように手を浸けていた人がいることは残せる。
さらに、昼の鐘が鳴る前に橋下流の水を使い終えた荷運びの男へ会った。彼は桶を十個、肩へ担いで洗い場へ運んだが、水へ手を入れたのは栓を抜くときだけだった。手の赤みも腹痛もない。リナは、運んだだけ、接触は栓のまわり、朝一刻半から二刻、と書く。水に近くいたことと、水を使ったことを一つにすれば、また何も見えなくなる。
帳面の頁には、震えた手、赤い手、何もない手が並んだ。リナは、そのどれにも丸をつけなかった。昼までの記録だけでは、石鹸でも、冷えでも、水でも、まだ決められない。
昼を過ぎると、治癒院からイレナが包帯の籠を持って来た。昨日までなら看護者が洗浄室で済ませていた作業だが、水を分けたため、すすぎだけを洗い場で頼むことになった。
「包帯は、何人分ですか」
リナが訊く。
「火傷の人が三人。腹痛の人が四人。手の震えで器を落とした人が一人」
イレナは籠を石台へ置いた。
「でも、包帯の人の症状を、この水のせいにはしないで。火傷の痛みで手が震える人もいるし、腹痛の人は昨日の食事も違う」
リナは驚いて顔を上げた。イレナは眠っていない目をしていたが、患者をひとまとめの証拠にはしたくないのだろう。
「分けます。包帯をすすいだ人と、包帯を使う人も」
マラが包帯へ手を伸ばしかけて、止めた。指の震えは朝より強い。イレナはそれを見て、籠を取り上げた。
「今日は私がやる」
「だめです。あなたも昨日、洗浄室で水を使ったでしょう」
リナの声が思ったより大きくなった。
イレナは少しだけ眉を上げた。
「私は手袋をしていた」
「それも書きます。でも、看護の手が震えたら困る。今は、使った人を増やさない方がいいです」
言い切ってから、リナは自分が水番として作業を止めたことに気づいた。昨日なら、危ないと言うだけで済ませたかもしれない。今日は、代わりを決めずに止めれば、火傷の包帯が遅れる。
「ナジさん、包帯のすすぎはできますか。手袋を二重にして、石槽を分けます。マラさんは札を見て、誰の包帯がどの石槽に入ったか書いてください」
ナジは頷いた。朝から平気だったからではなく、二重の手袋と別の石槽なら引き受けられる、と自分で言った。フロウは洗った桶を一つ、包帯専用に回す。イレナは籠から火傷用の包帯を先に出し、腹痛の患者の分は後にする順番を決めた。
リナは、その場の作業を帳面へ四つに分けた。昼二刻半、包帯すすぎ、橋下流の水、二重手袋、担当ナジ。昼二刻半、包帯の仕分け、乾いた石台、担当マラ、手の震えあり。昼二刻半、患者へ使用、火傷三人。腹痛四人は待機。紙に書けば、待たせた人の痛みが軽くなるわけではない。けれど、誰が何を決めたのかを曖昧にしたまま、次の班へ渡すこともできなかった。
夕方近く、リナは水番所へ戻る前に、もう一度洗い場の桶を見た。
雨の翌日の川は、朝より水量が落ちている。橋下流の水を使う者は減らしたはずなのに、石槽の底には薄い泡が残っていた。マラは作業を離れ、乾いた布で帳面を押さえている。ナジの手はまだ赤いが、震えはない。フロウは革手袋のまま、空の桶を積んでいた。
「今、水を味見するのはやめてください」
リナは誰より先に自分へ言い聞かせるよう、ミラと、もう一人の水運びへ告げた。二人は夕方、橋下流の水を洗い場へ運ぶ途中、蓋を締め直したときに飛沫が唇へかかったという。どちらもすぐ吐き出し、東の泉の水で口をすすいでいた。
ミラは朝にも同じ道、同じ桶で水を運んでいる。
「朝は何も残らなかった。夕方のは、口をすすいでも苦い」
もう一人も、冷たい金気が舌の奥へ残ったと話した。リナは二人に確かめ直させず、夕刻一つ前、橋下流、洗い場への運搬、蓋の締め直し、口元への飛沫、と接触の条件を並べた。朝の同じ運搬では申告なし。夕方は二件。青い浄化灯は、朝と同じ色で水面を照らしている。
彼女は帳面に、味が強い、とだけは書かなかった。二人の言葉と時刻を分け、明日も同じ刻に申告があるかを聞けるようにした。自分の口で結論を増やさず、すでに起きた接触を次の比較へ渡すためだった。
水番所の戸を閉める前、リナはその行へ短く印をつけた。
夕方の水でだけ、二人が強い苦味を訴えた。




