第5巻 第11話 魚の腹
ミナが中流の堰へ着いたとき、草の根元にはまだ、銀色の腹がいくつも見えていた。
前日の夕方に岸へ寄っていた小魚は、夜のあいだに三匹が浅瀬で動かなくなっていた。残った魚も、流れの中央へ戻ろうとしては石に腹を擦り、また草の陰へ寄る。水は濁っていない。川底の小石も、魚の目も見えるほどだった。
「触らないで待ってくださって、助かりました」
ミナは堰の脇にいた畑番の老人へ頭を下げた。肩から下げた革箱を地面へ置き、蓋の内側に挟んだ白布を一枚ずつ広げる。布の上には、栓つきの細瓶、平たい銀の皿、木のへら、封をする蜜蝋が並んでいた。
老人は鍬を杖のように握っている。
「死んだ魚を拾うだけで、何が分かる」
「分かることと、分からないことを分けます」
ミナは答えた。
「魚の腹に残ったものと、苔に付いたものと、水に溶けているものは、同じ袋へ入れません。どれか一つだけが反応しても、水が悪いとも、鉱山のものだとも決められないからです」
リナは昨夜からの帳面を胸に抱え、川の上流と下流を見比べていた。彼女が水番所で使う測定石は、今朝も青のままだったという。青いことを隠したくない、と先に言ったのは彼女だった。
「瓶は、昨日決めた場所で採ります」
レントが地図の紙を押さえた。
「魚はこの岸だけ。苔は、魚に触れていない石から。水は流れの中央から。採る順番も書きましょう」
ミナは頷いた。術式で残留を読むとき、先に手袋で魚を触ってから水を採れば、手袋についたものまで水の結果へ混じる。石の皿を水で洗うことさえ、今の川ではできない。彼女は革箱から未使用の薄手袋を三組取り出し、誰の手がどの試料に触れたかも帳面の端へ書いた。
最初に採ったのは水だった。
ミナは堰の板から三歩下流、流れが二つに分かれ直す前の中央へ、長い柄のついた瓶を沈めた。水面だけをすくわないよう、瓶の口を下へ向けてから中ほどで返す。瓶が満ちると、栓をして、封をする前にリナへ渡した。
「昼二刻。中流の堰、町水路側の流れの中央。透明、臭気なし。容器は細瓶の三番」
リナが読み上げる。レントは別の紙へ同じ言葉を書いた。
「立会いは、畑番のハグさんと、薪運びのミラさん」
橋で会った水運びのミラは、今日は治癒院へ空の桶を返す途中だった。昨日の記録の続きになるなら、と立ち止まってくれた。ハグは文字の代わりに鍬の柄の欠けを印にする。ミラは自分の名をゆっくり書き、その横へ「瓶を川へ沈めるところを見た」と添えた。
ミナは蜜蝋を栓の周りへ垂らし、冷えないうちに小さな銅印を押した。欠ければ、誰かが開けたと分かる印だった。封印番号は七。リナが帳面に書き、レントが番号を復唱する。三人の言葉がそろってから、ミナは瓶を白布の左端へ置いた。
次に、苔を採った。
魚が寄った草のすぐ下ではなく、堰の上の石を選んだ。石は流れの半ばにあり、苔の緑は薄く、指で触れれば剥がれそうだった。ミナは水を切るための網をかけ、木のへらで苔だけを銀皿へ落とす。
「同じ岸の苔じゃないのか」
ハグが言った。
「魚を置いた草の根には、今朝から人の足も、鳥も触れています」
ミナはへらを伏せ、老人を見た。
「そこから採れば、川で付いたものと、岸で付いたものを分けられません。この石なら、昨日から誰も踏んでいないと、ハグさんが言えますか」
ハグは石の周りを見た。自分の畑へ引く溝は反対側にあり、夜の雨もまだ降っていない。
「ああ。そこへは入らん。水が低い時だけ、子どもが貝を拾うが、今朝はまだ来ていない」
その言葉も記録された。昼二刻半。中流の堰、町水路側、堰上の平たい石。苔、銀皿二番。採取者ミナ。立会いハグ、ミラ、リナ、レント。苔が緑であることも、石に油のような膜が見えないことも書いた。見えないことは、なかったこととは違う。それでも見えたものだけを、先に残す。
最後に魚を採るとき、ミナは新しい手袋へ替えた。
動かなくなった三匹のうち、一番小さい一匹を選んだ。腹が上を向き、鰓の内側だけがわずかに暗い。水面に浮いていたのではなく、草の根へ腹を寄せたまま死んでいた。ミナは木の箸で尾を持ち上げ、銀皿三番へ移した。腹を切る前に、リナが瓶の番号と同じように、魚の長さを帳面へ記す。
「指二本半。左の鰓に黒ずみ。外側に傷なし」
「時刻は」
レントが確認する。
「昼三刻前」
ミナは腹を小さく開いた。白い身の下にある臓の色は、彼女が川魚で見慣れた赤茶より鈍い。けれど、その色を見ただけで毒だと言う気はなかった。餌が変わっても、冷えが続いても、魚の腹は変わる。彼女は臓を取らず、腹の内側へ薄い検知紙を一枚触れさせた。
皿の縁には、魚の腹、採取地点中流堰、採取時刻昼三刻前、と細い墨で書く。あとで水の紙と並べたとき、色だけを見て取り違えないためだった。ミナは紙を一度外し、同じ皿へ別の紙を重ねない。反応が出なかった紙も、出た紙の横へ残す。都合のいい一枚だけを持ち帰れば、調べたことではなく、選んだことになってしまう。これは答えではなく、次に比べるための一枚だった。箱へ戻す前に、ミナは番号を声に出してリナと照合した。
検知紙には、残留した魔力の揺れを拾うための細い術式が織り込まれている。術者が魔力を流せば、色ではなく、紙の端に淡い筋が浮く。何の術式か、どこから来たかまで教える紙ではない。使われた場所の魔力、浄化灯の余り、土に染みた古い流れにも反応する。
ミナは自分の魔力を、ごく細く紙へ通した。
紙の端に、灰青の線が出た。
リナが息をのむ。
「出ましたか」
「残っています」
ミナはすぐに言い直した。
「でも、何が残っているかは、まだ分かりません。魚の腹だけが反応したなら、魚がここへ来る前に食べたものかもしれない。苔と水にも同じような筋が出るか、上流と下流で違うかを比べないと」
苔の皿へ検知紙を触れさせる。こちらにも、魚より薄い灰青の筋が出た。水の細瓶は、封印を開けずに読むため、栓へ小さな環を掛けた。術式は瓶の内側を直接見ない。水面近くに残った揺れだけを、環の表へ移す。
しばらく待っても、環の表は白いままだった。
「水には、出ないのか」
ミラの声には、安心したい気持ちが混じっていた。
ミナは環を外さず、首を振った。
「この量、この刻、この場所の水面近くでは、私は反応を読めませんでした。水に何もない、とは書きません。魚と苔へ出た筋が、水を通って来たのか、底の石から移ったのかも、まだ分かりません」
リナは帳面へ「水、陰性」と書きかけ、手を止めた。ミナが見守ると、彼女はその二字に線を引き、「環による残留反応なし。封印番号七。判定者ミナ」と書き直した。自分の帳面でさえ、早い言葉が人を急がせることを、リナは知り始めていた。
午後、ミナは同じ器具を持って、町へ入る橋の下と、町の管が始まる前の上流へ回った。各地点で水、石の苔、見つかった小魚の鱗を別の皿へ採った。橋の下では苔にも紙は白いまま。上流では水も苔も魚の鱗も、反応を返さなかった。中流の堰だけで、魚の腹と苔に灰青の筋が残る。
けれど、その結果を手にしたミナは、黒嶺の方角を指さなかった。
「中流で付いた、とも言えません」
水番所へ戻る道で、彼女はレントへ言った。
「上から流れてきたものが、堰で苔に留まったのかもしれない。中流の土から出たのかもしれない。魚はもっと上で食べて、ここで弱っただけかもしれません。明日、同じ刻に同じものを採ります。違う天気の日も必要です」
その夜、町を囲む山から雨が来た。
屋根を打つ音が長く続き、北水路の止め板の隙間からも、茶色い水が少しずつ落ちた。朝には川が昨日よりふくらみ、堰の板に枝が引っかかっていた。リナは水番所の記録を濡らさないよう油布で包み、ミナは新しい細瓶と、乾いた検知紙を三組持って中流へ向かった。
前日と同じ、昼二刻。
同じ堰。町水路側の中央。立会いはハグとミラ。雨で水位が指二本ぶん上がっていることも、流れが速く、昨日の魚が一匹も見えないことも、先に帳面へ書いた。
水を採り、石の苔を採る。昨日、灰青の筋が出た石は水の下に沈んでいたため、すぐ隣の石を選んだ。ミナはその違いを隠さず、同一石ではないと明記した。
検知紙へ魔力を通す。
苔の皿は白いままだった。
水の環も、白いままだった。
リナは何も書かず、ミナの顔を見た。昨日なら、反応が消えたことを安心と呼びたかったかもしれない。だが、雨のあとだけ反応が消えるなら、川が安全になったのではなく、薄まって見えなくなっただけかもしれない。
ミナは白い紙を、濡れない布の上へ置いた。
「雨の翌日の同じ刻には、反応を読めなかった」
それだけを、彼女は言った。
川は昨日より明るく、速く、何もなかったように流れていた。




