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俺に魔法は使えない。でも、なぜ王国の結界が落ちたのかは説明できる  作者: pj.masta


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第5巻 第10話 川を上る

朝の北水路は、町へ入る手前ではまだ細かった。


 レントは橋の欄干に手を置き、水面を見た。水は透明で、石の間の白い砂まで見える。東の空が明るくなる前、最初の荷車が水を汲みに来る前の刻だ。ここで採った水と、昼の洗い場の水と、上流の川の水を同じ袋へ入れてしまえば、また「北水路の水」としか言えなくなる。


 リナは、昨日の許可証を革紐で束ねて持っていた。


 「黒嶺の近くまで行けば、何か分かると思う」


 「許可証にない場所へは入らない」


 レントは言った。


 リナの顔が硬くなった。上流へ行きたいと言ったのに、また帳面で止められると思ったのだろう。レントは橋の下の流れを指した。


 「入らない代わりに、川を上って見ます。鉱山の門や排水溝へ近づかなくても、水がどこで変わるかを見る場所はある。許可の外へ一人で行くより、戻れる線を決めてから歩きたい」


 「私は、行ってもいいんですか」


 「許可証の同行人数に入り、水番所へ行程を届けて、記録役を担うなら」


 レントは答えた。


 「ただし、あなたが見た苦みを証明するためだけの同行にはしない。採水の刻、場所、桶の用途、立ち会った人を残す。水番所には三地点と帰着予定の鐘を残し、鐘を過ぎたら捜索を頼む。川へは入らず、岸から採る。鉱山の境の札を越えない。私か、同行した人のどちらかが戻ると言ったら、その場で戻る」


 リナは川を見たまま頷いた。自分の感覚を信じてほしいという思いは、まだ彼女の中にある。だが記録を一人で抱えれば、また「水番の娘が言っただけ」になることも分かっている。


 「記録は二冊にします」


 彼女は言った。


 「私が場所と水の見え方を書く。レントさんは、誰が立ち会って、何に使う水かを書く。帰ったら、水番所と治癒院へ一冊ずつ置く」


 レントは頷いた。二冊が同じことを書いているかは、あとで比べられる。違っていたら、どちらかを消すのではなく、見た場所へ戻れる。


 最初の採水地点は、町へ入る橋の下にした。下流側の利用を知るためである。朝番の水運びをしていたミラという女性が、空の桶を抱えて止まった。


 「立ち会うって、何をするの」


 「水を汲んだ刻と場所を見てもらう」


 リナが答えた。


 「あとで、違う水を入れたと言われないように」


 ミラは橋の石へ桶を置いた。


 「私の桶は、治癒院の洗浄室へ行く。飲む水じゃない」


 その一言を、レントは紙へ書いた。下流の水を一つ採っただけでは、何の水か分からない。洗浄室へ行く桶と、炊事へ行く桶では、同じ川の水でも触れる人が違う。リナは小瓶へ水を移し、朝一刻、町はずれの橋、洗浄室用の桶と記した。ミラは自分の名の横へ、小さな印を押した。


 次の地点まで、川沿いの道を歩いた。町の石畳が終わると、道は畑の脇へ細くなる。水は時々、地面の下へ隠れ、別の場所で石の管から顔を出した。リナは、北水路の弁と町の桶だけを見ていたときより、川がずっと多くの手に触れていることを知るように見えた。


 中流の採水地点は、洗い場より上で、畑へ分かれる小さな堰のそばにした。朝の水はここで畑の溝と町の水路へ分かれる。畑番の老人が、鍬を肩にして待っていた。フェルドが水路調査をすることを知らせた札を、今朝、村の掲示板で読んだという。


 「鉱山を見に来たんじゃないのか」


 老人が訊く。


 「水を見に来ました」


 レントは答えた。


 「鉱山が原因かは、まだ分かりません」


 老人は、堰の板を少し持ち上げた。畑へ流れる水は細く、町へ向かう方が太い。


 「昼になると、ここは水がぬるくなる。畑へ回す量を増やすと、町の水は遅くなる。どちらの水を採る」


 「両方を、刻を分けて採ります」


 レントは言った。


 午前のうちに、町へ向かう流れから一瓶、畑へ向かう溝から一瓶を採った。小瓶の口へ布を当て、木の栓をし、採った場所の石の形まで紙へ残す。畑番は自分の名を書けなかったので、鍬の柄にある欠けを印として紙へ写した。立会人が文字を書けないなら、立会いがないことにはならない。


 昼の鐘のあと、同じ堰へ戻ると、朝より水位が少し下がっていた。町の水路を止めているぶん、いつもの量が流れていないのだろう。レントは、朝と昼の二つの瓶を並べた。見た目だけでは違いが分からない。水面に浮くものもない。だから、透明であることも、透明だったと書いた。


 《連環視》を使うと、堰の板から畑の溝、町の水車、洗い場の桶へ、淡い線がいくつも見えた。線は水が人の暮らしへ届く道を教える。だが、上流のどこから何が混じるかを、光は教えない。レントは線を指ささず、紙の上の地点を一つ増やしただけだった。


 畑番の老人は、二つの瓶を見比べた。


 「朝と昼で、水が違うかどうかは、これから見るのか」


 「見ます。ただ、今日の二本だけでは決めません」


 レントは答えた。


 「明日も同じ刻に採る人が必要です。私たちが山へ行く日だけ、ここを見ても足りない」


 老人は、堰の板に手を置いた。


 「朝は俺がいる。昼は孫が来る。畑に水を回す役だから、流れが細くなれば気づく」


 「名前と、見た刻だけでいいです。水を悪いと決める必要はありません」


 リナが、明日の紙へ朝と昼の欄を作った。老人は自分の名のかわりに鍬の欠けを描いたが、孫の印には小さな穂の形を選んだ。立会人を増やすことは、責任を押しつけることではない。いつもの流れを知る人が、変わらなかったことも残せるようにすることだった。


 堰の脇には、畑へ出す水をためる浅い桶があった。昼の仕事を終えた少女が、その桶で手をすすごうとして、リナの帳面を見た。


 「これは飲む水じゃないよ」


 「分かっています」


 リナは言った。


 「飲まない水だから、書かないわけじゃない。どこで何に使ったかが、あとで必要になるかもしれないから」


 少女は手を引いた。


 「使っちゃだめなの」


 「今は、止めるとは言わない」


 レントが代わりに答えた。


 「今日ここで見るのは、使う人を困らせるためじゃない。もし止める必要が出たとき、畑も町も同じように困ることを忘れないためです」


 少女は桶の縁を見た。大人の話を全部は分からない顔だったが、手を洗う水が、帳面の外のものではないと聞いている。


 レントは採水地点の紙へ、利用の欄をもう一つ加えた。飲水、調理、洗浄、畑。水が何に使われるかを先に書かなければ、次に選ぶ停止や代替の順番が、また治癒院だけで終わってしまう。


 リナは上流へ歩き出す前に、橋の下で封じた瓶の紐を確かめた。栓に触れていないこと、瓶が割れていないこと、朝の札が残っていることを二人で見た。水を口にして確かめたい衝動が、彼女の手を一度だけ止めた。しかし彼女は瓶を開けず、帳面へ「味の確認なし」と書き足した。


 「一人で苦いと言ったことを、また一人で増やさない」


 リナは小さく言った。


 レントは、返事の代わりに上流の道を指した。次に何を見ても、それはリナ一人の感覚でも、レント一人の線でもない。刻と場所と、川のそばにいた人の言葉から、もう一度確かめるものになる。


 上流の地点は、町の管が始まる前の川べりにした。そこから先は林が深くなり、黒嶺へ向かう道と分かれる。許可証にある水路の外縁までで、鉱山の境札はまだ見えない。それでもリナは、さらに先の谷を見ていた。


 「ここより上を見なければ、途中で変わったのか分からない」


 「今日は、ここまでです」


 レントは言った。


 「ここで何も見えなかったとしても、次に行く場所を決めるための記録になる。許可の外を見たくなったら、先に誰が戻れるかと、誰が町へ知らせるかを決める」


 リナは唇を結んだが、帳面を閉じなかった。


 上流の立会いには、薪を運ぶ夫婦が応じた。二人は川べりの道で荷車を止め、リナが採水するあいだ待っている。妻は、昨日から町の水を使えず、家で薬を飲む分を東の泉から買っていると言った。


 「上の水がきれいなら、町の人はすぐ飲めるのかい」


 「まだ分かりません」


 レントは答えた。


 「採った場所と、使う場所が違う。ここで見えないものが、町へ下りる途中で変わることもあります」


 妻は少し残念そうにしたが、瓶の栓を押さえるリナの手を見ていた。


 「分からないなら、分からないと書いておいて。あとで、上はきれいだったから大丈夫だって言われても困る」


 リナは、その言葉を帳面に写した。上流・昼三刻・町の管の始まり前。透明、臭気なし、味の確認なし。薪運びの夫婦立会い。水がきれいに見えることを、安全の札にしないための記録だった。


 帰りは、朝に採った橋、中流の堰、上流の川べりを、逆の順に見た。水は同じように流れている。だが時刻が変われば、畑の堰も、町へ向かう量も、洗い場へ来る人も変わる。レントは、明日も同じ刻に同じ地点を見られるよう、道の曲がり角と橋の傷を紙へ描いた。


 中流の堰へ戻ったとき、畑番の老人が鍬を置いて川を指していた。


 「朝にはいなかった」


 堰の下の浅瀬に、小さな銀色の魚が何匹も寄っていた。流れの中央ではなく、草の生えた岸際へ腹を寄せ、尾だけを弱く動かしている。上流では見なかった。町へ入る橋の下でも見なかった。


 中流だけで、魚が岸へ寄っていた。

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