第5巻 第5話 火消し桶の底
煙の匂いを、セラ・ヴィンゼルは井戸より先に感じた。
北水路の番所へ向かう途中、乾いた布が焦げるような匂いが風に混じった。見回りの兵が指さした先で、染め物屋の裏口から灰色の煙が上がっている。屋根まで届く火ではない。けれど、通りに面した建物は壁を分けて続いている。小さい火ほど、逃げ遅れた人が中にいるかどうかを先に見なければならない。
セラは走りながら、二人の兵へ手を振った。
「一人は裏口から人を出せ。もう一人は隣の店の火鉢を外へ。水を探す前に、燃えるものを離せ」
染め物屋の主人が、戸口で両手を振っていた。作業台の脇に積んだ麻布へ、油灯が倒れたらしい。布の端が赤く縮み、壁際の染料箱へ火が移ろうとしている。主人は水桶を探して振り返ったが、店の隅にあるはずの桶は空だった。
「火の見の桶も空です」
駆けつけた若い兵が言った。
セラは一瞬だけ歯を食いしばった。昨日までなら、通りの二つの桶を運べばいい。今は北の井戸が止まり、消火桶の水まで料理や洗濯へ使われたと聞いている。水を取ってこい、と命じても、どこから取るかを言わなければ、誰かが治癒院の樽へ走る。
「砂を持て。染料箱を通りへ出すな、壁際から離して積め。濡れ布があるなら、どこの水か聞いてから使う」
兵たちは動いた。主人の妻が、洗い桶の底に残った水を抱えて出てきた。
「これは昨日の北の水だけど、火には使えるでしょう」
セラは桶を見た。水は透明だった。使えば火は弱まるかもしれない。だが、その桶は台所の脇に置かれ、子どもが手を洗い、布をすすいだ水でもある。北水路と症状の関係はまだ分からない。分からないからといって、燃えている布の前で水を選び続けることもできない。
「火の外側の布を湿らせる。手や顔には触れさせない。使った人の名と刻を、あとで残してくれ」
主人の妻は一度だけ頷き、桶を兵へ渡した。セラは水を安全だと言ったのではない。火を広げないための使い方を、今ここで一つ決めただけだった。
砂が燃える布へかけられ、兵が火のついていない麻布を通りの反対側へ運ぶ。濡れ布を壁の下へ当てると、火は染料箱の手前で勢いを落とした。煙の向こうで、裏口から年配の染め職人が支えられて出てくる。咳はしているが、歩ける。セラは彼を道の端に座らせ、兵へ治癒院へ知らせるよう命じた。
その兵が動きかけて、足を止めた。
「治癒院の水は、足りるんですか」
問いは命令より速く、集まった人々に広がった。誰も声を上げなかった。水がないから火を消せなかった、という話だけではない。火傷した者が出れば、傷を洗い、薬を溶き、熱を下げる水もいる。
セラは主人の妻へ、家の中にまだ誰がいるかを確認した。子どもは隣家へ出ていた。寝込んでいる者はいない。確認を終えてから、彼女は兵へ言った。
「治癒院には、煙を吸った人が一人、歩けると伝える。水を取りに走るな。今あるものを使い切る必要はない」
小火が収まる頃、リナが水番所から駆けてきた。腰の帳面を抱え、息を切らしている。
「東の泉の荷車は、番所に戻りました。でも、樽は残り四つです」
「北の井戸は」
「まだ閉めています。原因だとは決めていない。でも、今は飲水にも洗浄にも回さない方がいいと思います」
リナは、言葉の最後を小さくした。自分が水を止める側に立つ重さを、昨日から誰より知っている顔だった。
「四つを全部、ここへ持ってくる必要はない」
セラは答えた。
「必要な量を決める。火を消す水、治療に要る水、飲む水。誰か一人の判断で箱に鍵をかけない」
染め物屋の前に、番所の長机を運ばせた。火の後始末で通りがざわつく中、セラはそこへリナ、治癒院から来たイレナ、染め物屋の主人、火の見の老人を呼んだ。兵には人払いと、隣家の火鉢の確認を任せる。警備隊の規律だけで決めれば速い。だが、速く決めて、必要なところを見落とせば、次の火では誰も従わなくなる。
「まず、火です」
火の見の老人が、煤のついた手で通りを示した。
「今夜、各通りに満たす桶は無理だ。なら、火の見櫓と市場の角に、最低でも二桶ずつ残す。走って運べる距離に置かないと、樽一つがあっても間に合わない」
「二桶で足りますか」
セラが問うと、老人は首を振った。
「足りない火はある。だが、ゼロよりは、延焼を止める場所を作れる」
次にイレナが、紙へ目を落とした。
「治癒院は、薬湯と服薬用、それから火傷の洗いに使う分がいる。飲水を一人ずつ満たせば、釜が空になります。熱のある人と、薬を飲めない人を先にするしかない」
「数字にできますか」
「今夜までなら、できます。ただ、明日の朝も同じ量が来るとは書けません」
リナが帳面を開いた。
「東の泉からは、荷車一台で樽二つが限界です。坂で馬に飲ませる分もいる。井戸を閉めたままなら、荷車の往復を増やしても、町の桶を全部は満たせません」
染め物屋の主人は、焼けた麻布の端を見たまま言った。
「店の水は後でいい。だが、隣の炊事場が止まれば、うちの職人も食べられない」
それは自分の店を守るためだけの言葉ではなかった。染め場の布は、宿舎の寝具にも、治癒院の包帯にもなる。水を減らせば、別の場所の仕事が遅れる。
長机の外で聞いていた女が、一歩前へ出た。染め物屋の向かいで粥を売っている店の者だという。腕には、洗い終えていない椀を抱えていた。
「うちには、店で食べる人のほかに、家で待ってる子がいる。飲む水だけなら半杯で我慢させても、椀を洗わなければ次の人に出せない。洗う水は、飲む水じゃないから後でいいって言われるのかい」
セラはすぐには答えなかった。警備隊の帳簿なら、飲水は飲水、洗浄は洗浄と分ければ済む。けれど、椀が洗えなければ、粥を渡すこと自体が止まる。止まった粥は、飲水を半杯ずつ増やすより先に、人の腹を空かせるかもしれない。
「後でいいとは言いません」
セラは女へ向き直った。
「ただ、今は全部に足りない。炊事の水には、食べる分と椀を次に使えるようにする分を入れます。その代わり、床を流す水や、店先を洗う水は明日まで待ってください。困ることを、なかったことにはしない」
女は椀を抱えたまま、しばらくセラを見た。
「待てと言われるなら、いつまでかを書いておくれ」
「書きます」
リナが、すぐに帳面へ新しい欄を作った。炊事の下に、食べる、器具、床と三つに分ける。セラはそれを見て、最小量は水の量だけではないと知った。何を明日まで延ばすかを、名前のない一言にしてはいけない。
洗濯場から来たマラも、長机の端へ立った。
「包帯だけでなく、火の煙を吸った人の口元を拭く布も要る。昨日の北の水で洗った布を使うなら、どの人に使ったか残させて」
イレナは頷いた。
「治癒院で受けます。濡らす水と、拭く布を一緒の欄にしない。症状の紙と照らせるように」
それを聞いて、セラは火を消した後にも水の仕事が続くのだと思った。火の現場で終わった命令は、治療の現場では役に立たない。住民が何に使うかを聞き、水番が運び、治癒院が受け取るまでを、同じ表で見られるようにして初めて、最低量に意味が出る。
セラは、長机の上に三本の線を引いた。火、治療、飲水。その下に、今夜までに必要な桶の数を、本人たちの口から書き込んでいく。洗濯と炊事は、その三本の線の外ではない。飲水の中には粥を炊く水があり、治療の中には包帯をすすぐ水がある。けれど、全部を同じ樽から出せば、誰も残りを数えられない。
「樽を分けます」
セラは言った。
「一つは火の見と市場の角へ。これは火か、火を防ぐ布にしか使わない。二つ目は治癒院へ。薬湯、服薬、火傷の手当て、必要な包帯のすすぎまで。三つ目と四つ目は炊事と、家で薬を飲む人へ。配る刻と持ち出す人の名を、リナが書く」
「家畜は」
火の見の老人が聞いた。
「東の泉へ向かう荷車の馬を先に。ほかは、家畜市の世話人と日陰と飼料の順を決める。人の水を減らして、馬だけ満たすとは言わない。ただ、荷車が動かなければ、明日の樽も来ない」
リナは頷き、帳面の新しい頁を開いた。さっきまで苦みを書いていた手が、今は樽の行き先を書く。イレナは治癒院へ戻る前に、火傷の職人を見に行くと告げた。主人の妻は、使った北の水の桶を番所の脇へ置き、刻と用途を札へ書いた。
決めた後も、町の水が増えたわけではない。市場の角へ運ばれた火消し桶は、二つだけだった。治癒院の樽には布がかけられ、誰でも汲める場所から外された。炊事場では、明日の朝の粥を薄くする相談が始まっている。
夕方、セラは番所の樽を数えた。火に使った分、治癒院へ渡した分、炊事場へ運んだ分。リナの帳面と数は合っていた。合っていることに安堵しかけて、セラは手を止めた。数が合うだけでは、明日の朝に水があることにはならない。
東の泉から運べる代替水は、最低量に切り詰めても一日分しかなかった。




