第5巻 第4話 飲むなと言えない町
北水路の井戸を止める、と言うのは簡単だった。
リナ・セイルは、番所の前に並んだ桶を見ながら、その言葉を何度も飲み込んだ。苦みの記録は増えている。治癒院では腹を押さえる者が増え、洗濯場では水を飲まない清掃員まで震えた。けれど、浄化灯は青く、測定石は規定内だった。水が原因だと言い切る紙は、まだ一枚もない。
だからこそ、止めると言うなら、止めた後の水も示さなければならない。
朝の水番所には、炊事場の使い、治癒院の運び手、洗濯場の女、家畜市の世話人が集まっていた。いつもなら、それぞれが札のついた桶を持って黙って列に並ぶ。今日は誰も桶を地面へ置かない。自分の番が来なくなるかもしれない者の持ち方だった。
ドロアが番所の扉から出てきた。夜番の帳面を持ち、井戸の弁を指した。
「半刻だけ閉める。井戸の底と、汲み口の管を見直す」
「半刻で済みますか」
炊事場の使いが聞いた。
「済むとは言わない。半刻で、次に何が足りなくなるかを見る」
ドロアの声は硬かった。リナはその言い方に救われる思いがした。安全のため、と言って桶を遠ざけるのはたやすい。けれど、遠ざけた水がどこで必要になるかを、今から見なければならない。
彼女は帳面を開き、列の人々へ言った。
「止めているあいだ、何に使う水が足りなくなるか、先に教えてください。飲む水だけじゃなくて」
炊事場の使いが、桶の蓋を押さえた。
「粥を炊く。パンの生地をこねる。野菜を洗う。鍋をすすぐ。水がなければ、朝に残った鍋をそのまま昼に使うしかない」
「何人分ですか」
「数えたことはない。宿舎と病棟と、見回りの者まで来る」
リナは人数の代わりに、釜の大きさと、今残っている水の桶数を書いた。曖昧なままでは、誰かが多く困っていることを、あとで小さく扱ってしまう。
洗濯場の女は、腕に抱えた包帯の束を見せた。
「洗う水がないなら、すすげない。汚れを落としたつもりで灰汁だけ残した布を、治癒院へ戻すのかい」
「昨日の分は」
「干してある。今日の分を止めれば、明日の替えが減る」
水は、今朝の腹痛だけに繋がっていなかった。明日の包帯にも繋がっている。リナは洗濯の欄に、包帯、手ぬぐい、寝具と書き、最初に不足する刻を尋ねた。女は、昼の鐘までだと言った。
家畜市の世話人は、列の後ろから肩をすぼめた。
「馬と山羊にも水がいる。飲ませなければ、荷車を引く馬が先にへばる」
「別の井戸は」
「東の泉は遠い。空桶で行って、戻るまでに半刻。荷車の馬に飲ませる水を運ぶのに、また荷車がいる」
彼は笑おうとして失敗した。町を回すための水を運ぶために、町を回すものが止まる。その話は、帳面に書くと短いのに、目の前では誰も短く受け取れなかった。
井戸の弁が閉じる音がした。石の下で水が引く、鈍い音だった。
列にいた人々はすぐには散らなかった。誰も、水が止まったという事実だけでは、自分の次の仕事を決められない。リナは炊事場の使いへ、東の泉から来た小さな樽を二つ示した。
「これは朝のうちに運べた分です。まず治癒院の薬湯と、今日の粥に使ってください」
「洗濯は」
「今は、包帯のすすぎだけ。寝具は後に回す」
言った途端、洗濯場の女の目が曇った。リナは、後に回す、と口にした自分の声を覚えておこうと思った。何を守るために何を遅らせたのかは、頼んだ側が忘れてはいけない。
家畜市の世話人には、東の泉へ向かう荷車の順番を渡した。馬の飲み水を全部賄える量ではない。子を連れた山羊と、治癒院へ荷を運ぶ二頭を先にする。それ以外の馬は、日陰へ移して待たせる。リナはその札を書きながら、自分が水番の帳面ではなく、町の一日の順番を書いていることに気づいた。
「苦いと訴えたのは、私です」
世話人が札を受け取る手を止めた。
「だから、足りないと言う人を、ただ待たせたくない。足りないなら、どこへ運ぶかまで一緒に決めます」
それは約束というより、引き受けるための言葉だった。苦みが水のせいでなかったとしても、止めたことで困った人が出る。その困りごとを、間違いだったからと帳面から消すわけにはいかない。
リナは町を歩いた。
炊事場では、釜の底に残った水を使う順番が変わっていた。料理人は野菜を一度に洗わず、泥の少ないものから選んでいる。いつもなら捨てる最初のすすぎ水を、床掃除用の桶へ回そうとして、手を止めた。
「清掃には使えないのか」
「使えるかどうか、まだ分からない」
リナは答えた。言葉が冷たく聞こえたので、すぐに続ける。
「北の水を使った場所と、症状が出た場所を今、比べています。使うなら、どこで何に使ったかを残してください」
料理人は頷き、床布ではなく、空いた鍋の脇に小さな札を置いた。水を使わないことも、水を少なく使うことも、誰か一人の我慢だけで済ませると、後からどこで抜けたか分からなくなる。
治癒院では、薬湯の釜に東の泉の水が注がれていた。イレナはその前で、患者の紙と新しい桶札を並べている。
「これで足りますか」
リナが聞くと、イレナは釜を見た。
「昼までなら。夕方の分は、まだ決められない」
「水差しは」
「一人に満たす量は無理です。薬を飲む人と、熱がある人から」
誰の水を減らすかを、イレナは患者の前で言わなかった。紙に症状と刻を書き、看護者と小声で順番を決めている。リナは、井戸の前で渡した札より重い順番が、ここにもあるのだと思った。
薬庫では、ベルクが小さなすり鉢を並べていた。粉にした薬を飲める形にするには、水か薄い湯がいる。水が足りなければ、粉のまま渡すことになるが、喉の弱い患者にはそれも難しい。棚には洗い終えたはずの小瓶が伏せられ、次に使う前にはもう一度すすぐ必要がある。
「薬を作る水は、どれだけ要りますか」
リナが聞くと、ベルクはすり鉢の底を見た。
「量だけなら、桶一つも要らない。だが、薬一服ずつの小さな水が、何人分も重なる。洗う水まで削ると、前の薬が瓶に残る」
「東の泉の水を、薬庫にも回します」
「回すなら、薬湯の釜と同じ札にしないでくれ。どちらへ何を使ったか、後で混ざる」
リナは、治癒院という一つの欄を、薬湯、服薬、器具すすぎに分けた。苦みを見つけたときは、同じ北水路という言葉だけで足りると思っていた。止めるための帳面には、同じ言葉では何も配れない。
帰り際、薬庫の戸口で年配の男性が空の小壺を抱えていた。家で飲む咳止めを受け取りに来たが、水を節約しているから、粉薬は持ち帰っても飲ませられないとベルクへ話している。リナはその声を聞き、家の中の水まで帳面にないことを知った。炊事場の釜も、治癒院の水差しも見た。それでも、戸口の向こうで薬を飲むための半杯までは数えていなかった。
「東の泉の荷車が戻ったら、小壺へ移せる分を聞きます」
言ってから、リナはできる量かどうかを確かめていないことに気づいた。だが、言わなければ、その半杯は誰の順番にも入らない。彼女は番所へ戻る道で、帳面の余白に「家で服薬する者」と書き、数を聞くための印をつけた。
洗濯場は、湯気が薄かった。女たちは包帯だけをすすぎ、寝具を積んだままにしている。マラは空になった大桶を指で叩いた。
「これが尽きたら、清掃の布も洗えない」
「清掃の布は、どこに行くの」
「病棟、宿舎、廊下。汚れたまま使うわけにも、濡らさず拭くわけにもいかない」
飲水を止めるつもりで始めたことが、床や包帯へ戻ってくる。リナは洗濯の記録の横へ、清掃と書き足した。昨日までなら、そこへ水番が口を出す必要はなかった。今日は、書かなければ、水が消えた後に誰が困るか見えなかった。
昼を過ぎる頃、東の泉から戻った荷車が、番所の前で止まった。樽は一つしか載っていない。もう一つは途中の坂で、家畜市の馬へ回したと御者が言った。馬が座り込めば、治癒院へ薬も包帯も運べなくなるからだ。
リナは責めなかった。責められる順番ではない。代わりに、残った樽をどこへ置くか、炊事場、治癒院、洗濯場の者と決めた。全員が足りないと言うとき、最初に声の大きい者へ渡せば、次の人は水を取りに来なくなる。
夕方、井戸の点検は終わらなかった。管の継ぎ目にも、底の砂にも、目で見て分かる傷みはない。ドロアは弁の前で、夜まで閉めておくと告げた。
リナは町の端まで歩いた。日が傾くと、家々の前に置かれた桶の底が見えるようになる。料理に回した桶、洗濯を後にした桶、馬へ運んだ桶。どれも、朝より軽かった。
火の見櫓の下で、見張りの老人が、並んだ消火桶をのぞき込んでいた。
「水番さん」
老人は、何も責めずに一つの桶を指した。
桶の底は、乾いていた。隣も、その隣も同じだった。北の井戸が止まり、東の泉の水は薬と粥と包帯へ回った。残った者は、火を消すための水まで、今日を越えるために使っていた。
消火桶まで空になっていた。




