第5巻 第6話 水車が足りない
東の泉の水車は、朝から止まらずに回っていた。
レントは、泉の脇の木台に立ち、濡れた羽根が水をすくい上げるのを見た。水車が一回まわるたび、桶半分ほどの水が樋へ落ちる。樋の先には、荷車へ積むための大樽が二つ置かれていた。見た目には、泉は尽きない。水車も、きしみながらだが働いている。
それでも、町へ運べる水は増えなかった。
樋から落ちる水を樽へ移す若い男が、腕で額を拭った。
「二つ目が満ちるまで、あと少しです」
彼の言う少しは、砂時計の半分だった。満ちた樽は一人で動かせない。荷車の荷台へ滑らせ、縄で留め、坂を下り、番所で下ろして、空樽をまたここへ戻す。そのあいだ水車が何度回っても、町へ向かう荷車がなければ、水は泉の脇の樽で待つだけだ。
荷車の御者トアは、片方の車輪へ手を当てていた。昨日、泉と町を二往復した車輪だ。泥を噛んだ軸へ油を差しながら、レントを見上げる。
「樽を一つ増やせば、もっと早くなると思って来たんですか」
「思っていました」
レントは正直に答えた。
地図の上では、東の泉から番所まで一本の道だった。荷車一台に樽二つ。泉で満たす刻、町まで下る刻、空樽を戻す刻を書けば、次に来る水の刻が出せるように見えた。
けれど荷車のそばに立つと、地図にはない時間がいくつもあった。樽を縄で縛る時間。坂で馬を休ませる時間。番所で荷を下ろす間、御者が次の行き先を聞く時間。車輪に石が噛めば、担ぎ手が荷台を持ち上げる時間。水車は水を上げるが、樽を道路へ運んではくれない。
「増やせるのは、樽じゃなくて車です」
トアは言った。
「でも、水を積める車はこの一台だ。荷物車は荷台が浅い。麦を運ぶ車は、今朝から西区の店が借りてる」
レントは泉の下流側を見た。細い水路のそばに、小さな揚水輪がもう一つある。畑へ水を上げるためのものだという。水番のリナが、その輪を指した。
「こっちを使えば、樽を満たすのは早くなります。でも、畑の溝が空きます」
「今日一日なら」
「今日一日で、冬菜の根がすぐ枯れるわけではないです。でも、水を止めた畑の人には、明日も待てと言うことになります」
リナは、泉の水が足りないとは言わなかった。足りないのは、水を汲む力と、運ぶ手と、誰へ先に渡すかを決める時間だった。昨日、北の井戸を止めた彼女は、いまも帳面の端に、東の泉の桶札を結んでいる。
レントは、荷車の荷台へ白い木札を置いた。治癒院、火の見、炊事、西区。昨日セラが分けた行き先だ。札は四枚だが、いま荷台に積める樽は二つだけだった。
「最初の二つは、治癒院へ」
リナが言った。即座に、泉で水を汲んでいた年配の女性が顔を上げた。彼女は西区の粥売りの店の者で、肩に担ぎ棒をかけている。
「西区の朝の釜は、もう空だよ」
「分かっています」
リナの声は小さくならなかった。
「治癒院の薬湯と、熱のある人の分が先です」
「西区に熱のある子がいないって、誰が言った」
女は担ぎ棒を下ろさなかった。怒鳴る声ではない。朝から店の戸を開けず、空の釜を見ている人の声だった。
レントは、治癒院へ向かう荷車の札を見た。優先と書けば、優先されなかった側の事情が消える。西区の水は、粥を炊くだけではない。店の裏には、薬を飲むために湯を待つ老人がいるかもしれない。井戸を止めてから、どの家が何を残しているかを、町の中心にいる自分たちは全部知っているわけではない。
「西区へ、今すぐ担げる水はありますか」
レントが訊くと、女は泉の横に並んだ小桶を見た。
「四人いれば、二桶ずつは持てる。けど、往復したら腕が終わる。坂を上って、番所を回って、西へ行くんだ。粥を炊くころには昼だよ」
「番所を回らず、西区へ直接行く道は」
「荷車ならある。担ぎ手なら、川沿いのぬかるみを通るしかない」
リナが地面へ棒で道を描いた。泉から町の番所へ下る道。そこから西区へ折れる石畳。もう一つは、泉から川沿いへ降り、洗い場の裏を抜ける細道だ。細道は荷車が通れない。担ぎ手なら近いが、滑れば桶を落とす。昨日まで北の水で洗っていた洗い場の脇を通るから、使う桶も分けなければならない。
「荷車を治癒院へ出せば、次に泉へ戻るまで、西区は待つ」
レントは言った。
「担ぎ手を西区へ出せば、泉で樽を荷台へ上げる人が減る」
トアが車輪から手を離した。
「俺一人で樽は積めない。馬を繋いで、縄を締めてる間に、二人がいないと動かない」
水を担ぐ人は、ただ水を運ぶ人ではない。荷車を動かす人でもある。レントは、担ぎ手の名前を紙へ書きかけて止めた。紙の上で西区へ四人送れば、泉の大樽は待つ。荷車に二人残せば、西区の小桶は増えない。どちらも、誰かの空の釜を先へ送ることになる。
そのとき、治癒院から来た使いが、坂を息を切らして下りてきた。肩から下げた札には、イレナの字で「薬湯、服薬、火傷の洗い」とある。
「朝の分は、あとどれだけで来ますか」
トアは樽を見た。
「積めれば、番所まで一刻。そこから治癒院まで半刻」
使いは札を握った。
「待てない人がいる、とは言わないでくれとイレナさんは言いました。西区も待ってるからって。でも、薬を水なしで飲めない人が七人いる」
レントは、その七人を西区の空腹より重いとは思わなかった。重さを比べるための秤が、ここにはない。ただ、薬を飲む刻は過ぎれば戻らない。粥を炊く刻も過ぎれば、その朝の客は帰る。どちらも、荷車が一台しかないことから生まれた困りごとだった。
「治癒院へ一樽。もう一樽は、番所で西区の担ぎ手へ渡す」
レントは言った。
「火の見の二桶は動かさない。荷車は番所で止まらず、治癒院へ一樽を下ろしたら、空樽を持って泉へ戻る。西区は番所から担ぐ。泉から西区まで全員を歩かせない」
女は唇を結んだ。
「番所からなら、少しは近い。でも、いつ着く」
「今は、約束できない」
レントは答えた。
「着く刻を、ここで決めたくない。荷車が戻る刻と、担ぎ手が番所にいる刻を、途中で確かめます。遅れたら、先に知らせます」
言い終えてから、約束を避けたようにも思えた。しかし、道の泥も、馬の脚も、担ぎ手の肩も見ずに「朝のうちに着く」と言う方が、もっとひどい。女はしばらくレントを見たあと、担ぎ棒を肩へ戻した。
「知らせるなら、店の戸まで来て。空の釜を見せに、またここへ来させないで」
「行きます」
リナが、桶札の裏へ西区の店の印を書いた。荷車が番所へ着いたとき、誰が受け、誰が西へ担ぐかを、次の人が探さなくて済むようにするためだった。
水車の脇では、羽根のあいだに細い草が絡み始めていた。さっきから樋を見ていた少女が、長い柄で草を引き抜く。名はナギといい、泉の番をしている父の代わりに、朝だけ揚水輪を見ているという。
「担ぎに行ける?」
レントが聞くと、ナギは水車を見た。
「行ける。でも、ここを見ないと、水が横へこぼれる。羽根に草が詰まると、樽一つ分をためる間に二度は止まる」
彼女は、さっき樋からあふれた水を指した。泉に戻るだけの水でも、今は待っている桶の前では失われた一杯に見える。担ぎ手を一人増やすために水車番を出せば、荷車が戻ったときに積む水が遅れる。水車の速度と、担ぎ手の数は、別々に増やせなかった。
トアは荷台の縄を締めながら言った。
「西へ行く人を増やすなら、泉から番所へ下ろす荷車を、次は一人で動かすことになる。馬は引けても、樽は上がらない」
レントは、担ぎ棒を持つ女の隣にいた三人を見た。一人は洗濯場で包帯をすすぐ予定の男で、手の甲にはまだ赤い痕がある。一人は家畜市へ戻る途中の少年で、馬の水を待たせている。残る一人だけが、西区まで続けて歩けると言った。誰かを水運びへ回せば、別の場所で布が洗えず、馬が荷を引けず、次の樽が遅れる。
数えるために集めた人を、数字としてだけ並べることはできなかった。レントは西区へ出す担ぎ手を三人にせず、番所から合流する二人を待つ案を選んだ。その待ち時間が、西区の釜をさらに冷ますことも分かっていた。
水車の羽根が、また一つ音を立てた。樋から落ちる水は変わらず澄んでいる。トアと二人の担ぎ手が、満ちた樽を荷台へ滑らせた。縄がきしみ、馬が首を振る。治癒院の札と、西区の札が、同じ荷台の端で揺れた。
荷車が坂を下りたあと、泉には空樽と、次の水を待つ人が残った。リナは揚水輪の前で、畑の溝を止めるかどうかを畑番へ聞きに行く。レントは西区の担ぎ手と一緒に、番所までの刻を歩いて確かめることにした。
番所へ着くころには、朝の鐘は遠く過ぎていた。治癒院へ向かう荷車は、空樽を積んで泉へ引き返すところだった。西区へ回す一樽は、まだ番所の石畳の上にある。担ぎ手の一人が、肩の革を結び直している。もう一人は、薬庫の荷運びから戻るのを待っていた。
西区の水は、まだここから人の肩へ移り、石畳を越えなければならない。朝に必要だった一樽が、西区へ届く前に、半日遅れていた。




