第5巻 第2話 青い浄化灯
水番所の浄化灯は、朝から青かった。
リナ・セイルは、灯の下に置いた受け皿をのぞいた。流れ込む水は澄んでいる。灯芯のまわりに濁りはなく、青い光は水面までまっすぐ落ちていた。灯が白く曇れば、砂をかき出し、流れが弱ければ弁を開ける。水番になってから教わった判断は、どれもこの青を頼りにしている。
けれど、今朝の水には苦みがあった。
リナは水番所の入り口にある柄杓で、毎朝の見回り分を一口だけ確かめた。金気でも、腐った藻でもない。冷たく、薄く、舌の奥に残る。昨日の終わりにも似たものを感じて、寝る前まで口をすすいだ。それでも朝になれば消えるだろうと思っていた。
消えていなかった。
彼女は柄杓を伏せ、壁に吊った記録板を下ろした。北水路では、弁の開閉、灯の色、桶の数を毎日書く。苦みを書く欄はない。余白に「朝一刻、番所入口、飲用確認、苦み」と書き、筆を止めた。
飲用確認、と書いた字が、急に自分を責めるように見えた。苦いと感じたのは自分の舌だけだ。眠りが浅かった。昨夜は冷えた川風の中で、弁の鎖を直した。冷えた朝には、舌の感覚だって当てにならないかもしれない。
リナは余白の下に、もう一行足した。
「透明。浄化灯、青。浮遊物なし」
都合の悪い方だけを書いて、苦みを大きく見せることはしたくなかった。けれど、苦みを消してしまえば、明日また同じものを感じたとき、今日の自分が何を見たのか分からなくなる。
水番所の奥から、年上の水番のドロアが出てきた。革の手袋を片方だけつけ、夜番の帳面を脇にはさんでいる。
「早いな。井戸の方でも見回りか」
「その前に、北水路を見ます。水が少し苦いんです」
ドロアは受け皿へ目を落とし、浄化灯を見た。それから、リナの顔を見た。
「灯は青い」
「分かっています」
「水も澄んでいる」
「それも書きました」
「この灯は、流れと濁りを見る。苦みまで見ているわけじゃない」
言い返すつもりはなかったのに、声が先に硬くなった。ドロアは眉を上げたが、柄杓を取り上げはしなかった。
「なら、苦いと書け。どこで、いつ、何の桶だったかもな。『北水路が悪い』とだけ書かれると、弁を見に行く者が困る」
リナは頷いた。言われたことはもっともだった。水は同じ北水路から来ても、町では別々の桶に分かれる。治癒院へ行く水、炊事場へ行く水、洗い場へ行く水。苦みを感じた場所と、水が使われた場所を一つにしてしまえば、かえって分からなくなる。
彼女は小さな記録帳を腰の袋へ入れ、木の札を三枚取った。札には「治癒院」「炊事」「洗濯」と焼き印がある。桶の持ち手に結び、汲んだ時刻と場所を戻ったときの帳面へ写すためのものだった。
最初の汲み口は、番所から石段を二つ下りたところにある。朝の炊事用の桶がすでに並んでいた。パン屋の使いが、桶の蓋を持ったまま待っている。
「遅いと、釜が冷める」
「一つだけ、時刻を書かせて」
リナは責められないように短く言い、桶の縁へ札を掛けた。朝一刻半、北水路・第一汲み口、炊事。水面は鏡のようだった。彼女は指先を濡らし、唇へ当てた。さっきと同じ苦みがあるような気もする。けれど、パン屋の使いに飲ませるわけにはいかない。自分だけの感覚を、他人の朝食の遅れに替えることもできなかった。
「何か詰まってるのか」
「まだ、分からない。灯は青いです」
使いは不満そうに鼻を鳴らしたが、桶を持って行った。リナはその背中を見送り、帳面には「苦み、本人のみ。水色・灯色、異常なし」と書いた。本人のみ、という字は小さくした。
第二の汲み口は、洗い場の裏にある。布を運ぶ女たちが、桶を二つずつ抱えて並んでいた。洗い場では水が布の汚れを落とすだけではない。治癒院から戻った手ぬぐいも、包帯もここを通る。水を止めれば、昨日の布を今日の人へ回すことになる。
リナは洗い場用の桶に札を結び、流れからすくった水を小さな透明瓶へ移した。瓶の底に砂は見えない。口を近づけても藻の匂いはない。隣で桶を洗っていた女が、その手元を見て言った。
「水番さん、今日は長いね」
「少し記録を増やしてます」
「洗い水まで止める気?」
「止めるとは言ってない。止めるなら、先に言う」
リナは返してから、帳面に「朝二刻、洗い場裏、洗濯。臭気なし。苦み、判定しにくい」と書いた。さっきより苦みが薄いのか、自分の舌が慣れたのか、冷たい風で感覚が鈍ったのか。分からないものを、苦いとだけ書くのは違う気がした。
彼女は瓶の栓をした。異常がないと感じた水も、今日の記録に残す。それは苦みを信じないためではなく、苦みがどこにでもあるわけではないかもしれないためだった。
治癒院用の桶は、番所の正面で汲む決まりになっている。運び手が来る前に、リナは水路脇の格子を持ち上げた。枯れ葉は少し溜まっていたが、流れを塞ぐほどではない。石の継ぎ目から泡が上がることもない。上流から落ちる水は、朝の光を受けて、青い灯よりも無愛想に光っていた。
運び手の少年が、空の桶を二つ引いて来た。
「今日は、治癒院の人が急かしてる」
「どうして」
「腹が痛い人がいるって。水差しを替えるんだってさ」
リナの手が、格子の縁で止まった。番所の苦みと、治癒院の腹痛を、すぐに一本の線で結んではいけない。腹が痛む人はいくらでもいる。けれど、聞かなかったことにもできなかった。
「何人って聞いた?」
「知らない。桶を早くって言われただけ」
リナは少年の桶へ治癒院の札を結んだ。朝二刻半、番所正面、治癒院。次に、桶の蓋の内側へ小さな墨印をつけた。誰のところへ行ったかは、戻ってきたときに運び手へ聞けばいい。自分の目で見ていない腹痛まで、帳面に原因のように書くことはできない。
少年が去ると、リナはすぐには番所へ戻らなかった。水路に沿って、もう一つ先の分け板まで歩く。ここでは北水路の水が、町の共同炊事場と市場の手洗い場へ分かれていく。分け板の前には、朝に汲まれたままの小桶が一つ残っていた。縁の札には、昨日の番が書いた「市場・手洗い」の文字がある。
リナはその水を、さっきのように舌へ当てなかった。冷えた朝に何度も確かめれば、自分の感覚を自分で変えてしまう。代わりに、時刻と場所と桶の用途を記した。朝二刻三分、市場手前の分け板、手洗い。透明。臭気なし。味の確認はせず。
味を確かめなかったことを書くのは、少し逃げのように思えた。それでも、確かめていないのに「苦くない」と書くよりはましだった。リナは水路の流れを見た。分け板の向こうでは、店の者が野菜についた土を落としている。ここで止めれば、朝市の手も、食べ物を洗う水も止まる。苦みを訴えたからといって、ただちに一つの弁を閉める理由にはならない。
番所へ戻る途中、ドロアが石段の上で待っていた。リナの帳面を見て、短く息を吐く。
「ずいぶん書いたな」
「苦みが出た場所だけじゃ、比べられないから」
「出なかった場所もか」
「出なかったかどうかも、まだ分かりません。味を見ていない桶もあります。でも、見ていないなら、見ていないって残します」
ドロアはしばらく何も言わなかった。それから、帳面の端を指で叩いた。
「明日の番が読める書き方にしろ。おまえが苦いと思ったことじゃなく、次の者が同じ場所を見られる書き方に」
それは褒め言葉ではなかったが、リナには叱られたようにも聞こえなかった。彼女は「場所の石段の数も足します」と答えた。苦みを信じてもらうためだけの記録ではなく、苦みが違ったとしても使える記録にしなければならない。
リナは浄化灯の台へ戻った。灯の下には、測定石を沈める浅い枠がある。石は手のひらほどの灰色で、流れの中の細かな魔力の揺れを受けると、色の縁から知らせる。基準を外れれば黄に、もっと強ければ赤に寄る。それが水番の習いだった。
リナは石を布で拭い、受け皿の水へ沈めた。刻を数えるあいだ、記録帳の余白に、今までの三つの桶を書き並べる。炊事、洗濯、治癒院。苦みは確かだったのか。洗い場では曖昧だった。炊事場では自分しか感じていない。治癒院の桶は、まだ誰も飲んでいない。
だから、石が何を示しても、今日の帳面から苦みを消さない。石が基準外でも、自分の舌だけで水路全部を決めない。どちらも残して、明日、別の時刻にもう一度見る。そうしなければ、自分が正しかったことだけを集める帳面になる。
リナは帳面の端に、灯を見た刻と石を沈めた刻を並べて書いた。どちらも朝二刻を過ぎたところだった。次に同じ水を確かめる者がいるなら、同じ頃の光と、同じ頃の冷たさも必要になる。桶の用途だけでなく、確かめた順番まで残しておきたかった。
青い浄化灯の光が、水の中の石へ静かに落ちた。リナは手を引かず、色が定まるまで待った。
測定石も、規定内を示していた。




