第5巻 第1話 透明な桶
水は、透明だった。
サナ・リュベルは、朝の光に透かして、病室の水差しを見た。底に沙もない。壁に油膜もない。窓のへりに残った雪の白さが、水の向こうでまっすぐに揺れている。
それで、最初の一口を疑わなかった。
苦みは、飲み込んださきでようやく残った。薬草のような匂いはなく、鏡の裏に舌を押しつけたみたいな、薄く冷たい苦みだった。サナはコップを口から離し、もう一度水を見た。透明なものは、自分の舌の方を疑わせる。
「薬を飲む前なのに、なんだか苦い」
声に出すと、向かいの寝台の木工職人が、朝のパンを持ったまま顔を上げた。しばらくすると、自分の水差しから一口飲んで、眉をしかめる。
「これか。木の粉を吸ったあとみたいだな」
「コップを新しくしたからじゃないんですか」
年配の女性が言った。彼女は夜のあいだに水差しを空にしたらしく、いまは看護者が置いた新しいものが枕元にあった。その女性も、飲む前からコップの縁を指でなぞっている。
「昨日も苦いと思ったから、洗ったの。けれど、今日も同じ」
サナは水差しの根元へ手を伸ばした。いつもなら冷たいことで、寝起きの口の中が少し楽になる。今日はその冷たさが、胸の中まで降りていくようで、その先で腹がごく弱く痛んだ。
痛みは強くなかった。だから、サナは最初は飲み込んだ水のせいとは思わなかった。朝は薬を飲み、窓を開けただけでも胸が重くなる日がある。そのために、寝台の横には日々の変化を書く小さな紙が置かれている。肩の冷え、息の浅さ、眠りの間と、今はそこへ腹の痛みも追加すべきかと思った。
そのとき、コップを持つ手がふるえた。
水をこぼすほどではない。けれど、コップの縁が歯に触れたとき、かすかな音がした。サナは反射的に、両手でコップを包んだ。右手の指が冷えているのかと思ったが、指先はあたたかい。
「サナさん」
イレナが仕切り布の向こうから来た。朝番の白い上着の襟に、洗浄室の水しぶきが細く残っている。ここ数日、イレナの目の下には、夜よりも朝の方が濃い影があった。
「息が苦しいですか」
「そうじゃない。お腹が痛い。それと、手が、ちょっと」
サナは両手を出した。ふるえはさっきより小さくなっていた。見ても分からないほどの動きになると、自分が大げさに怖がっているだけみたいに思える。
イレナはすぐに手首に指を置かなかった。先に、水差しとコップを見た。それからサナの腹の上へ薄い布を当て、痛みの場所を聞いた。
「いつから」
「水を飲んでから。けど、いつもの水だと思う」
「いつもの水です。そのことと、原因は別です。まずは飲んだ刻と、痛みが来た刻を残しましょう」
イレナはサナの紙の余白へ、朝の一刻目と書いた。その横に、「透明、苦み」と記し、その下に「腹、右手のふるえ」と続けた。書きながら、イレナの筆先が一度止まった。
「昨日、薬庫のベルクさんも、腹を押さえていた。洗浄室のマラも。今日の朝、水を運んだ子が、コップを落としたと言っています」
「みんな、同じ病気なの」
「まだ分かりません。飲み水が同じとも、まだ決まっていない。薬も、寝ない日も、洗浄の水もあります」
サナは、イレナの言い方に少しだけ安心した。原因を一つの名前で呼びたがる人の声を、この治癒院ではたくさん聞いてきた。けれど、「まだ」と言われることは、ここでは何もしないという意味ではなかった。
朝の配薬が始まるまでに、腹を押さえる人は三人になった。一人は水を飲んだあとで、もう一人は薬湯の後だった。その違いを聞いているあいだに、サナの腹の痛みは引いたが、手のふるえはスープの皿を持ち上げるとまた戻った。
サナはスープを飲まずに置いた。そのことに気づいた木工職人が、パンを二つに割って、片方を寝台の端へ置いた。
「飲まないのか」
「飲みたい。けど、飲んだ後にまた手がふるえたら、どう書けばいいか分からない」
「飲みたくないなら、書かなくていい」
木工職人の言い方は、説明する人のものではなかった。黙ってパンを割り、飲み物のない朝にどう食べるかを考える人の言い方だった。
サナは、スープの表面に浮いた油の輪を見た。水だけが苦いとは、まだ言えない。スープにも水は入っている。薬湯にも、食器を洗った水にも。そのことを思いついたとき、透明な水差しが、病室の外まで広がっているみたいに思えた。
前に治癒院の手順が切り替わった夜も、理由が届くより先に、寝台のものだけが変わった。今度は、水を止めるなら、何が代わりになるかも知りたかった。
「イレナさん。今日の水、どこから来てるの」
「北水路です。治癒院の水差しも、薬湯の釜も、洗浄室も、地下の同じ管から取っています」
「北水路の水だけを、使わないとは言えないの」
「そう言うと、今日の食事も、薬も、洗った布も止まる。代わりの水がどこにあるか、まだ誰も知らない」
イレナは言った後、すぐに水差しを下げなかった。サナの紙に、「水差し、薬湯、スープ」と三つ書いた。水を止めるのではなく、まず、どこから汲んだかを残すために。
昼前、ベルクが薬庫から来た。こめかみを押さえていたが、サナの前ではそれを隠そうとした。イレナが紙を見せると、彼はまず、水差しの水を傾けては見なかった。薬草の瓶を一つずつ開け、朝に配った薬の量と、昨日の仕入れを確かめた。
「薬の種類はそろっていない。けれど、腹の痛い人は、この階だけでも四人いる。洗浄室のマラも、薬庫の近くにいた私も」
「でも、そのみんなが水を飲んだわけじゃない」
サナは言った。そう言ってから、自分の声が、原因を決めたがっているみたに聞こえて、口をつぐんだ。
ベルクは首を振った。「飲む以外にも、水は使う。けれど、それでも、今の紙だけじゃ足りない。飲まなかった人のことも聞かないと」
その言葉のあと、ベルクは仕切り布の向こうの寝台へ行った。朝から水を口にしていない人を、順に探すためだった。
サナも紙を見た。自分の欄には、水を飲んだ刻がある。木工職人は朝のパンと一緒に飲んだ。年配の女性は、まだコップへ口をつけていない。では、彼女の腹が痛くなったら、何を同じにしたことになるのだろう。寝台の脇の手ぬぐいは洗浄室から来ている。夜に飲んだ薬湯は、もう空の器だけが残っている。水は、口から入るものだけではなかった。
「わたしのふるえも、残して」
イレナが顔を上げた。
「残しています」
「小さいからって、消さないで。次に来た人が、怖くて言わなかったら、分からなくなる」
言ってから、サナは頬が熱くなるのを感じた。自分が怖いと認めたようだった。しかし、イレナは筆を置かずに、ふるえの横へ「皿を持つと戻る」と書き足した。
「消しません。水を飲めた人も、飲めなかった人も、同じように聞きます」
年配の女性が、そのやりとりを聞いていた。
「私は、薬を飲む水がいるの」
彼女は小さな包みを開いた。昼の前に飲むよう言われている錠剤が、布の上に二つ並んでいる。水を避けるなら薬も遅れる。けれど、苦みのある水で飲むのもためらわれる。その二つの間に、指が止まっていた。
イレナは錠剤を見て、すぐに飲むなとも、飲めとも言わなかった。薬の名と、いつも飲む刻を紙に移した。
「ベルクさんに、代わりの飲み方があるか聞きます。今は、これをここに置いてください」
「洗浄室の布はどうする」
木工職人が尋ねた。自分の寝台の足元に積まれた、替えの包帯を見ている。洗った布が来なければ、手当ては続かない。水差しを遠ざければ済む話ではないのだと、誰もが同じものを見ながら考えていた。
イレナは廊下へ出て、洗浄室へ走る使いを呼んだ。新しい水を汲む者には、桶の印と汲んだ刻を必ず書くように。すでに病室へ入った水差しは、捨てずに寝台ごとの場所へ置いたままにするように。声は静かだったが、指示を受けた使いは一度聞き返した。
「捨てないんですか」
「今は、誰がどの水に触れたかを失くさない方が大事です」
使いが去ると、病室には急に水の音が増えた。誰かがコップを置く音、桶の柄が壁に当たる音、釜のふたを持ち上げる音。いつもなら朝の支度に紛れていた音が、今日は一つずつ、次に口へ入るものを知らせていた。
サナはパンを少しだけかじった。喉が乾いたが、水差しには手を伸ばさない。窓際の雪が溶ければ、水はどこへ行くのだろう、と考えた。考えても腹の痛みは戻らなかった。ただ、透明な水が、病室の中で初めて重いものに見えた。誰かが桶を持ち上げるたび、その重さが食事にも、薬にも、手当てにも移っていくようだった。それは、今はまだ誰にもひとつの名前をつけられない重さのままだった。
窓の外で、水を運ぶ荷車の鉄輪が石畳を鳴らした。サナはその音に合わせて、水差しの底に残った水を見た。透明で、苦い。そして、今朝、病室へ配られた水差しは、一つ残らず、地下の同じ北水路に繋がっていた。




