第4巻 第40話 澄んだ水の苦味
旧館の扉を閉めてから十日目、サナは新館の家族控室で水差しを見ていた。
水は澄んでいる。窓から差す光を、底の白い布まで通している。前なら、それを見て安心したかもしれない。けれど口に含んだ時、舌の奥に残る苦味は、透明さと別のことを言っていた。
サナは飲み込まず、卓上の小さな紙へ時刻を書いた。
朝、二口。苦い。腹はまだ痛くない。薬湯ではない。
その紙を折ってから、振り返りの席へ入った。
席には、患者、家族、夜勤者、薬庫、設備、受付がいた。十日前まで、旧館を閉めるための確認をしていた人たちである。今日の紙には「完了」とは書かれていない。夜勤負荷、補助金、旧館患者、二重照合、補償、次の見直し日と並んでいる。
「まず、できなかったことから読みます」
マレクが言った。
院長席の前には、完成式の返礼費を夜勤と旧館保守へ回した記録、支援金の返還額、外来を延期した患者の連絡表が置かれていた。返還を決めた時、数字を示すだけでは足りないとサナは思った。今日の紙には、誰が何を失ったかも書かれている。
「返還対象額の支払いは、まだ終わっていません」
マレクは続けた。
「完成条件を満たしていなかった期間の分は返します。返還のために、夜勤手当や薬庫の予備を削りません。完成式の残額と外来の縮小で埋める案を選びました。ただし、延期した外来の患者には、受診枠と交通費の補助を渡し切れていない」
受付係が、連絡表を持ち上げた。
「連絡がついた方には次の受診日を渡せました。つながらない方が七人います。来なかった、ではなく、まだ届いていない人です」
「七人を、来月の数字にしないでください」
サナは言った。
受付係は頷く。
「訪ねる順番と、近い診療所へ預ける連絡を、明日までに決めます。遅れた分は、患者さんがもう一度来る負担として残るので、交通費の補助も同じ紙に載せます」
マレクは、その言葉の横に院長印を押した。補助金を返すことが、外来を遅らせた人への補償を後回しにする理由にはならない。自分が急いだ完成宣言の費用を、来なかったことにされた患者へ渡す形にもしてはいけない。
次にイレナが、夜勤の紙を開いた。
「手動補助ゼロの夜は、七夜続きました」
少しだけ、部屋の空気がゆるむ。
「でも、夜勤負荷がゼロになったわけではありません。腹痛で交代した二人、連続勤務を避けるために予定を変えた四人、引継ぎを覚える時間を取った臨時の一人がいます。全員の追加勤務と、休息を取れなかった時間を記録しました」
彼女は、夜勤者の名前が並ぶ別紙を置いた。そこには「善意の残業」と書かれていない。手動補助、旧館保守、家族連絡、引継ぎ研修。それぞれに時刻と支払う手当がある。
「この分を、次の手当で払います」
マレクが言う。
「払えないなら、夜勤を増やしたとは言いません」
「お金だけでは足りません」
イレナは言った。
「二夜続けて入らない条件、休んだあとの引継ぎ、腹痛があれば途中でも交代すること。これを夜勤表の外に追い出さないでください」
「固定します」
ミナが端末の画面を皆へ向けた。新しい夜勤表には、患者ごとの停止条件の下に、担当者の休息時刻と交代者が並んでいる。誰かが不足欄を空白のままにすると、移行や追加受入れの札は完了にならない。
「機械が休ませるわけではない」
ミナは言った。
「でも、休む人の欄を消して進めることは、できなくしました」
サナはその画面を見た。前は、患者の鈴と夜勤者の疲れが別の紙にあった。今は同じ行にある。イレナが眠れた夜を、サナは忘れないと思った。
「補償の欄も、ここにあります」
マレクが、夜勤紙の裏を示した。
腹痛で途中交代した二人には、その夜の手当と休息の時間を支払う。外来を延期された人には、次の受診枠だけでなく、増えた往復の交通費を治癒院が負担する。旧館にいた期間のナディアには、新館の個室費用を上乗せしない。記録から名前が落ちていたことを、患者の負担へ換えない。
「足りない分は、どこから」
サナの叔母が訊く。
「完成式の残金と、院長裁量で残していた予備からです」
マレクは答えた。
「支援金を返すために、補償を次の季節へ送らない。足りなければ、私は外来縮小の影響を行政へ説明します」
サナは、その言葉が自分たちへの詫びだけにならないように聞いた。外来が減れば、困る人がまた出る。その人たちの受診枠と連絡も、予算の外へは出せない。
レントは患者表を三行だけ開いた。サナ、ナディア、アデル。彼が指したのは、異常があった患者を見せるためではない。
「二重照合の未達は、なくなっていません」
彼は言った。
「今の仕組みは、鈴、薬、連絡、夜勤交代を同じ行に置きました。でも、アデルさんのように本人がその場で答えられない時、誰の確認をどこまで待つかは、毎回同じにはなりません。ナディアさんの古い分類の由来も、まだ分かりません」
「だから、院長の机へ戻さない」
サナが言う。
「患者席で、見ます」
「はい」
レントは頷いた。
彼は仕組みを完成として見せるのではなく、次に使った夜勤者と患者が直せるよう、端に「未確認」と「次の確認日」の欄を増やした。ミナがその欄を端末にも映す。イレナは、次の夜勤の引継ぎで患者席から一人だけ読む役を頼むことにした。制度は、レントが発見して説明した時ではなく、次の人が困った時に止められる形で残る。
ナディアは、旧館の帳面の写しを受け取らなかった。代わりにローデへ言った。
「読める人と、一緒」
「一緒に読む」
ローデは答えた。
帳面を渡すだけでは補償にならない。読めない記録を患者の手へ置いて、理解したことにしない。ローデは週に一度、新館の窓布と湯を見に行く役を選び、その時にナディアが望めば帳面の言葉を一つずつ読むと書いた。
ローデは、旧館の保守記録を机の端へ置いた。
「旧館患者は、いなくなった」
彼は言った。
「だからといって、旧館で起きたことまで空床にはしない」
ナディアは、新館の窓際で人形を膝に置いていた。青い蓋の湯差しが卓上にあり、窓布は半分まで下ろされている。
「ナディアさんは、今朝も新館で名前を呼ばれ、湯を確かめた」
ローデは続ける。
「旧分類帳は施錠して残す。誰かをまた『外部非接触』と呼ぶためじゃない。なぜその言葉が人の名を消したのかを、後で調べるためだ」
ナディアは帳面ではなく、青い蓋へ触れた。
「これは、新しいところ」
「そうだ」
「湯は、苦い?」
ローデの手が止まった。
サナも、自分の紙を握り直した。
「今朝、少し」
ナディアは言う。
「水は、透明」
「私もです」
サナは席から答えた。
部屋の外で、薬庫のベルクが足を止めた。彼は自分の水筒を持っている。
「私は、夜の終わりからです。薬湯とは違う苦さでした」
イレナが、すぐに患者へ水を回すようなことはしなかった。誰かへ「同じ味がするか」と試させない。苦いと申告した人の水だけを、卓上の位置と時刻で分けて残す。
「飲まなくていいです」
彼女は言った。
「今、苦いと思った人は、飲んだ量と時刻、腹の具合だけを言ってください。分からない人は、分からないで大丈夫です」
腹痛で交代した二人の夜勤者が、控室の隅にいた。一人は夕食後の汁物も苦く感じたと言い、もう一人は水筒の水だけだったと首を振る。サナの叔母は、面会控室の水差しを朝に一口飲んだが、苦味は分からなかったと話す。全員を同じ症状へまとめられない。
レントは、水差しを集めようとしなかった。患者と職員が使ったものを取り上げれば、今夜の飲水まで奪うことになる。
「水差しは、そのまま置いてください」
彼は言った。
「誰がいつ、どの水差しから、どれだけ飲んだか。水だけか、薬湯や汁物もか。症状があったか。まず、それを別々に残します。今は、味を確かめるために誰かが飲む必要はありません」
ミナは新館の給水札を、患者ごとの記録とは別の卓上に並べた。新館病室、職員控室、家族控室。水差しは違うが、朝の補充で同じ配水口から満たされた印がある。
「共通なのは、今のところここまでです」
ミナが言う。
「同じ水だから苦い、とも、ここが原因だとも言えません。薬湯、食事、容器、体調、夜勤の疲れもあります」
「それでも、同じ印は残す」
サナは言った。
「私たちが苦いと言ったことも」
「残します」
ミナは答えた。
マレクは、返還の帳面を閉じた。補助金、夜勤、外来、旧館、二重照合。今日までの問題を一枚の完了報告にしてしまえば、目の前の水の苦味も、別の欄へ追い出される。
「治癒院の移行は、ここで一区切りにします」
彼は言った。
「ただし、未達は残します。外来延期の補償は届くまで終えない。夜勤手当と休息の確認は毎月患者席へ出す。旧分類の由来は調査を続ける。患者単位の二重照合は、使われた夜勤表を見て直す」
「私たちは、席を残しますか」
サナが訊く。
「残します」
「患者だけの席じゃない。夜勤、薬庫、家族、設備も」
イレナが言った。
ナディアは、卓上の水差しを見た。人形の手で青い蓋を押さえ、湯差しの方へ顔を向ける。
「湯は、まだ大丈夫」
ベルクが頷いた。
「水と湯は、同じにしません」
それは小さな言葉だったが、サナには次の夜を守る約束のように聞こえた。分からない苦味を、分からないまま飲ませない。薬湯も水も食事も、困った人の言葉も、一つの透明な札にまとめない。
会議が終わるころ、レントは新しい記録紙を壁へ留めた。苦味の申告、飲んだもの、時刻、腹の具合、使った水差し、連絡先。空欄が多い紙だった。
サナは自分の紙をその隣へ置いた。
朝、二口。苦い。腹はまだ痛くない。薬湯ではない。
澄んだ水は、何も答えなかった。




