第4巻 第39話 旧館の扉
レントが旧館の西側の扉へ着いた時、鍵はまだかかっていなかった。
ローデは扉の前で、鍵束を机に置いている。マレクは閉鎖札を持ち、イレナは夜勤表を開き、ミナは新館の端末を抱えていた。誰も「もう空だ」とは言わない。
レントは閉鎖札の裏を確かめた。ナディアが新館で眠ると選んだ時刻と、旧札を外した時刻は別々に記され、閉鎖の日付欄だけが空いていた。二つの選択を一つの完了印へ戻していないことを見てから、確認表を開いた。
ナディアが新館で眠ることと旧札を外すことを別々に選び、旧館の最後の寝台は今朝になって空いた。
それでも空いた寝台だけでは、旧館を閉じる理由にならない。
レントは扉の横の板へ、新しい確認表を留めた。病室番号の列ではない。患者の名前から始まる表だ。
「一人ずつ読みます」
彼は言った。
「新館にいること。新館で本人確認をしたこと。旧館の登録が解除されていること。戻す必要が生じた時に、新館側でどこまで戻せるか。薬、呼鈴、夜間補助、家族連絡。全部が同じ行にあります」
マレクが頷く。
「建物の閉鎖確認ではなく、患者の夜が旧館なしで続く確認だ」
「はい。空床と登録解除を、また同じ欄にしないための表です」
レントは最初にサナの行を読む。旧館の登録は、試行中止の記録を残して解除済み。新館の夜間補助は、眠っている間も呼吸紋と鈴で受ける。息が浅い、胸が白くなる、通話ができない時の停止条件は、次の夜勤表にも写されている。戻す必要があれば、旧館へ再び寝台を作るのではない。新館の予備寝台と復帰札を使い、患者と夜勤者が止める。
「『戻す』の意味を、旧館へ戻すことだけにしない」
イレナが言う。
「新館の中で補助を変える。薬の札を戻す。家族へ連絡する。患者が眠れる場所を守る。その順に戻せるようにしています」
レントは表へ、その言葉を追記した。復帰可能とは、前の建物を残しておくことではない。患者が危険になった時、どの手順を解いて、どの生活を残すかが分かることだ。
ナディアの行では、ローデが手を止めた。
「旧札は、解除した」
彼は言った。
「だが、古い分類帳は残してある。鍵をかける前に、あの帳面まで片付けるんじゃない」
ミナが新館端末の表示を開く。そこには名前、呼び方、青い蓋、窓布、湯、夜間補助、鈴の位置が並んでいる。古い分類は患者を呼ぶ欄から外され、照会保留の記録として別に残っていた。
「新館での本人確認、済み」
ミナが読む。
「呼称、ナディア。本人が鈴を鳴らし、戻る条件を説明できた。旧館の寝台、暖房、呼鈴は停止済み。新館の予備補助と連絡先、確認済み」
「それで、旧館を閉じても、ナディアは戻れますか」
レントが訊く。
ナディアは新館の寝台にいる。けれど今日は、扉のそばの車椅子でこの場に来ていた。人形を抱え、青い蓋を指で押さえている。
「白いところから、ここへ戻らなくても」
ナディアは言った。
「鈴は、白いところにある」
「はい」
レントは答える。
「戻す手は、白いところに置きました」
ナディアはそれで満足したように、車椅子の肘掛けへ手を戻した。
次に、ベルクが薬庫の二つの棚札を持ってきた。一方は旧館の患者名簿、もう一方は新館の夜間分包棚だ。旧館札は全て、患者名と時刻を照合して「移管済み」か「不要確認済み」と記されている。
「空になった棚を見ても、薬が移ったかは分かりません」
ベルクは言う。
「新館側で受け取った薬と、受け取らないと決めた薬を照合しました。二重に渡す余地がないことと、渡さない理由が残っていることを確認しました」
レントは薬庫の札を、患者表の行へ重ねた。患者名が合い、薬の時刻が合い、夜勤の確認印が合う。それでも最後に、本人の欄が空でないかを見る。アデルの欄には、本人の署名はない。代わりに、今夜の治療を止めないこと、姉が生活歴を渡す範囲、代理同意を急がないことが書かれている。
「空欄を埋めない」
レントは言った。
「返事ができない人の欄を、閉鎖のために丸にしない」
マレクは表へ印をつけなかった。代わりに、夜勤表のアデルの行を指した。
「この患者の完了は、旧館を閉じることではない。今夜も治療が続くことだ」
ローデは旧館の各室を最後に見て回った。空になった寝台の下、湯差しの跡、呼鈴の紐、窓布。清掃済みの札が掛かっていても、患者の行が解除されているかをレントが表で確かめる。寝台を空ける者と登録を外す者と、扉を閉じる者が、互いの仕事を終えたことにしない。
隔離室では、ローデが窓布を丁寧に畳んだ。
「これも新館に写しがある」
「持っていきますか」
「一枚は記録に残す。新しい部屋の布が薄くなった時、ナディアが何を嫌がったかを、誰かの記憶にしないために」
レントは布の端に、患者名と「本人確認済みの暗さ」と記した札をつけた。物品を保存するためだけでない。生活の条件を、建物の外へ渡すためだった。
夕方、夜勤の交代時刻になった。
イレナは新館の詰所で、旧館から持ち出した最後の引継ぎ板を机へ置く。板には、夜勤者の名ではなく、患者ごとの鈴、薬、呼吸、家族連絡、停止条件が書かれていた。交代する看護者は一人ずつ、自分が受け取る行を読み、次の休息時刻を言う。
「サナさん。鈴の位置を確認。朝の薬はベルクさんと照合。叔母様への電話は本人の希望で」
「ナディアさん。湯の温度、青い蓋、窓布、鈴。旧分類を呼称に使わない」
「アデルさん。治療継続。代理同意の空欄は急いで埋めない」
声が引継ぎ板を渡っていく。レントは、その途中でイレナが自分の次の休息時刻を読み上げたのを聞いた。以前なら、手動補助を引き受けた者の休息は、余った時間に取るものだった。今は患者表と同じ欄に、休む人の名がある。
「これが、閉鎖後も動きますか」
レントが訊く。
「朝まで、来週も、その次の人にも」
イレナは答える。
「一度書いて終わりなら、旧館の扉を閉めた時に一緒に消えます」
ミナが、端末の更新板を置いた。
「患者単位の照合を、新館の夜勤画面へ固定しました。新しい患者を受ける時も、建物番号より先に、本人確認と復帰札と連絡条件を作らないと登録を完了できません」
レントはその設定を見て、すぐに信用しなかった。画面に表示されることと、夜勤者が使えることは違う。
「今夜、使ってください。使えなければ、扉は閉めません」
夜勤者は頷いた。
ローデが鍵束を持ち、再び西側の扉へ戻る。最後に扉の向こうを見ても、寝台は空で、暖房は止まり、呼鈴も静かだった。だがその静けさは、患者が消えた静けさではない。患者の夜が新館の表と人の手へ移ったあとの静けさだった。
マレクは鍵を差し込む前に、ナディアへ訊いた。
「この扉を、今日は閉めます」
ナディアは人形を抱えたまま、新館の鈴を軽く鳴らした。
「白いところで、聞こえる」
詰所からイレナが答える。
「聞こえます」
ナディアはそれから、扉ではなく自分の車椅子の前を見た。
「閉めて」
ローデが鍵を回した。扉の内側で、古い留め金が一度だけ鳴る。
その音を聞いたあと、レントは新館の詰所へ戻った。夜勤の画面には、各患者の行が並ぶ。呼吸、薬、鈴、連絡、休息。旧館の番号は、もう患者の居場所を決めない。
交代を終えたばかりの看護者が、水差しを卓上へ置いて、腹を押さえた。
「少し、痛い」
その隣で、別の夜勤者も顔をしかめた。
「私も。夕方から」
イレナは二人の休息欄を見た。眠れている。手動補助もしていない。食事の時刻も、作業の場所も同じではない。
「記録に残します」
彼女は言った。
「今夜は無理をしない。水、薬湯、食事、触れたものを分けて聞きます。原因は、まだ決めません」
二人は、腹痛を隠して交代を済ませようとはしなかった。夜勤表に新しく作った休息確認の欄には、眠れたかだけでなく、休んだ後に働けるか、自分の身体に変化がないかを書く行がある。手動補助がゼロでも、働く人の身体まで自動で安全になるわけではないと、イレナは朝の引継ぎで加えた欄だった。
「私は薬湯を飲んだあと」
一人が言う。
「私は飲んでいない。夕食の汁物は同じだったかもしれない」
「同じだったかもしれない、まで書きます」
イレナは答えた。
ベルクが薬庫から出てきて、二人の薬の受渡し時刻を帳面で確かめる。どちらにも新しい薬の追加はない。ローデは旧館の水桶を今日使っていないことを確認する。サナは自分の水差しと薬湯を別々に置くよう、患者席から言った。
「誰かが痛いと言った時も、全部を一つにしないで」
それは診断ではなく、今夜の扱いを決める言葉だった。イレナは二人を休ませ、別の看護者へ交代を頼んだ。痛みを我慢して穴を埋めることは、旧館で繰り返した夜勤には戻らないための最初の停止条件だった。
レントは水差しの透明さを見たが、何も言わなかった。旧館の扉を閉めた夜、新しい治癒院の中で、別の問いが静かに始まっていた。




