第4巻 第38話 最後の本人確認
朝の光が旧館の窓布越しに差しても、マレクはすぐに閉鎖の札を持ち込まなかった。
夜間の手動補助がゼロだったことは、院長として喜ぶべき数字だった。けれど、その数字だけを根拠にして旧館の鍵を回せば、完成宣言を急いだ時と同じになる。患者の眠りが続いた夜と、患者が自分の場所を選べることは、別に確かめなければならない。
ナディアの隔離室には、いつもの湯差しと人形があった。新館へ運ぶ小箱は、まだ空のまま寝台の脇に置かれている。ローデが扉のそばに立ち、イレナとミナは少し離れた位置で待つ。サナは患者席の椅子に座っていた。
マレクは署名板を机に置いたが、ナディアの前へは出さなかった。
「ナディアさん」
彼は椅子を低くして呼んだ。
「今朝は、書類に名前を書いてもらうために来たのではありません。新しい場所で、何と呼ばれたいか。何を一緒に持っていきたいか。ここに残すものがあるか。それを、分かる形で聞きに来ました」
ナディアは人形の髪を撫で、すぐには返さなかった。
「新しい場所は、白い灯り」
「そうです。白い灯りのある病室です」
「外じゃない」
「外ではありません。旧館の暖房と呼鈴を、移った瞬間に切ることもしません」
マレクは、昨夜の接続記録を思い出した。新館へ名前が出ても、旧館の熱が下がれば患者席が止めた。彼はその判断を、自分の承認の外に置いたまま朝を迎えた。院長が自分で止めなかったことを、初めは責任を手放したように感じた。しかし今は、患者の生活を一人の責任に回収しないための形だったと分かる。
「私は、ナディア」
ナディアは言った。
「白いところでも?」
「白いところでも」
ミナが、白札の名前欄をそっと見せた。そこには昨夜入力した名がある。その下には、旧分類の文字が残っていた。外部非接触。隔離継続。夜間補助。
「ここに、古い呼び方があります」
マレクは文字を指しながら言った。
「『外部非接触』です。これはナディアさんの名前ではない。新しい病室で、これで呼ばれるのは嫌ですか」
ナディアの目が細くなった。
「それは、寒い」
「分かりました。呼び名にはしません」
「消す?」
「今すぐ、記録の全部を消しません」
マレクは答えた。
「この呼び方が、なぜここに書かれたかは、まだ調べ終えていないからです。消すと、同じ呼び方で困った人がいた時に探せなくなる。でも、ナディアさんへ声をかける時、薬を渡す時、寝台を決める時には使いません。古い記録として分けて残します」
ナディアはしばらく文字を見たあと、人形の手でその欄を隠した。
「名前は、ナディア」
「はい」
マレクは新館の欄へ、呼称を「ナディア」と記した。分類の出どころ、いつ誰が書いたのか、ほかの古い分類とつながるのかは、院長の机へ戻して調べるべきことだった。患者の前で、その分からなさを新たな隔離理由にはしない。
「残す物を、見せてもらえますか」
ナディアは人形を抱き、湯差しを見た。次に、窓布の端を見た。
「これ」
人形を上げる。
「一緒」
「一緒に行きます」
「湯の、青い蓋」
ローデが湯差しを持ち上げた。
「この蓋か」
ナディアは頷いた。
「新しいところにも、同じ湯差しを持っていけますか」
マレクが訊くと、ナディアはすぐ首を横に振った。
「湯差しは、ここ」
「ここに残す」
「ローデが、朝に湯を入れる」
ローデは息を吸ってから言った。
「閉じても、朝の湯を勝手に消さない。新しい病室に、同じ青い蓋の湯差しを用意する。こっちの湯差しは、今日すぐ片付けない」
マレクは頷いた。移転とは、物を一度に運ぶことではない。ナディアが朝の湯をどこで確かめるかを、今日の言葉で決めることだ。
「窓布は」
ナディアが言う。
「新しいところ、薄い?」
「薄い布があります。今と同じ暗さにできるか、移る前に見ます」
「見てから」
「見てから、移るかをもう一度聞きます」
マレクは、小箱の紙へ「人形」「青い蓋」「窓布の暗さを本人確認」と書いた。看護者が読める行にし、患者の返事を「移転同意」と一語へ置き換えなかった。
サナが椅子から言った。
「旧登録は、いつ解除するんですか」
マレクは答える前に、ナディアへ顔を向ける。
「この旧館の札には、ナディアさんの名前が今、つながっています。新しい病室へ移り、そこで名前を呼ばれ、湯と人形と窓の暗さを確かめたあとに、旧館の札を外せます。外していいかを、その時にもう一度聞きます」
「今は?」
「今は外しません」
ナディアは人形を胸へ寄せた。
「今は、ここ」
「今は、ここです」
マレクは記録へ書く。旧登録解除、本人確認後。彼にとっては遅い手続きだった。財政係は旧館を閉じた日を求め、行政は重複登録の解消日を待っている。だが、患者の前にある「今は、ここ」を書かずに日付だけを入れれば、また帳簿が患者より早くなる。
署名板の上には、解除同意の欄があった。患者名、説明を受けた印、家族または職員の立会い。マレクはその紙を裏返した。
「この欄に今、印をつけなくていいです」
ナディアは紙の端を見た。
「書かない?」
「書ける時に書くことはできます。でも、書けないからと言って、ナディアさんが何も決めていないことにはしません」
マレクは、三枚の小さな札を並べた。一枚には旧館の窓布、一枚には白い病室の灯り、一枚には二つの間に描かれた往復の矢印がある。
「今日は、どれを選びますか。ここで休む。白い病室を見に行く。見て、戻る。分からなければ、選ばない」
ナディアは最初の二枚を交互に見た。ローデが何か言いかけたが、サナが小さく手を上げて待つように示す。長くそばにいた人の記憶は大切でも、今、札を動かす手を代わりに決めない。
ナディアは往復の矢印の札を、人形の膝へ置いた。
「見て、戻る」
「そうします」
マレクは書記へ、言葉と札の両方を残すよう頼んだ。後で誰かが「移行に同意した」と一行だけを抜き出せないように。「白い病室を見て、戻れることを確認する」という今日の選択を、そのまま残す。
旧分類の帳面には、さらに古い欄があった。分類の根拠、照会元、解除条件。その多くが薄い墨で消され、照会元だけが不明と記されている。マレクはそれをナディアへ読ませなかった。読めない帳面を読ませて、理解の印を求めることは確認ではない。
「この帳面は、私たちが調べます」
マレクは言った。
「ナディアさんが今、答える必要はありません。ここに何が書かれたのか、ほかに同じ扱いを受けた人がいるのか。調べたことは、ナディアさんにも、患者席にも返します」
ミナが帳面の写しへ、消去ではなく「呼称使用停止」と記した。古い分類を残すことと、その分類で人を呼び続けることは違う。まだ分からない線を、今ここで都合よく閉じないことも、マレクが受け取るべき責任だった。
「ナディアさん」
マレクは続けた。
「白い灯りの病室を、今朝、見に行きますか。行かないなら、今日はここで休みます」
ナディアは窓布を見た。ローデを見た。イレナを見たあと、サナの膝の上の鈴を見た。
「見に行く。戻れる?」
「戻れます」
「鈴は」
サナが、自分の鈴とは別の小さな鈴を卓上から取った。
「これはナディアさんの分です。白い病室でも、戻したい時に鳴らせます」
ナディアはすぐには受け取らなかった。イレナが紐を寝台の内側へ置く。ナディアは人形を抱いた片手ではなく、空いた手で紐を一度引いた。小さな音がした。
「鳴った」
「聞こえました」
イレナが答える。
鳴らせること、聞かれること、戻れることを、マレクは確認欄へ分けて記した。
小箱には人形を入れず、ナディアの手へ残した。青い蓋はローデが布に包み、新館で同じ形の湯差しに合わせるために持つ。旧館の湯差しは、湯気の抜けるまま卓上に置いた。
一行は新館の病室まで連なって移動した。ナディアは約束どおり、最初は見て戻るだけにした。白い病室の卓上には青い蓋の湯差しがあり、窓布はローデが旧館と同じ暗さまで下ろした。イレナが寝台の内側へ鈴を置く。
「ナディアさん」
ミナが白札の前で呼んだ。
「ナディア」
ナディアは答え、人形を寝台の内側へ置いた。青い蓋に触れ、窓布を見上げ、自分で鈴を一度鳴らす。詰所からイレナの声が返るのを聞いてから、往復の札を持って旧館へ戻った。
旧館の寝台へ腰を下ろすと、マレクは急かさずに訊いた。
「今夜は、どちらで眠りますか」
ナディアは人形を抱き直し、白い病室の札を選んだ。
「白いところへ行く」
二度目に新館へ入ったあとも、ミナは旧札へ手を伸ばさなかった。ナディアが青い蓋、窓布、鈴、白札の名前をもう一度確かめるまで待つ。
「今夜は、どこで眠りますか」
「ここで眠る」
「旧館の札を外しても、名前はナディアのままです。外していいですか」
「いい。ナディアは、ここ」
ミナは旧札を解除し、新館の白札だけで名を呼んだ。ナディアが返事をし、鈴を鳴らす。旧館の札を外す選択と、新館で眠る選択は、別々の行に残された。
ナディアを新館へ残し、マレクたちが旧館へ戻ると、ローデが呼んだ。
「院長」
彼の掌には古い鍵があった。隔離室だけでなく、旧館の夜間設備室と西側の扉を開ける鍵だ。長い間、ローデが持ち、誰にも渡さなかった鍵だった。
「これは、閉めるためだけの鍵じゃない」
ローデは言った。
「残った人のところへ戻るためにも使った。今、ナディアは新しい部屋で眠ると決め、旧札も外した。だから鍵を渡す」
「私に、閉鎖を急がせないために」
マレクが言うと、ローデは首を振る。
「急がせるな、じゃない。戻る道も、院長が持て」
マレクは鍵を受け取った。冷たい金属は、閉じる権限だけでなく、閉鎖までの確認を最後まで引き受ける責任として、掌に重かった。
彼は鍵を握ったまま、閉鎖の日付を書くための紙を机の上へ置いた。日付を入れるのは、旧館の各室と新館の夜勤表を照合したあとだった。




