第4巻 第37話 眠れる夜
鐘が鳴り終わってから、移行席の紙は壁へ残された。
今夜これ以上、寝台を移さない。ナディアの接続は保留のまま、旧館の熱と夜間補助を続ける。ハルムは娘と話せる明日の時刻まで待つ。ミレナは孫の名を確かめる席を明るい時間に持つ。アデルの登録は動かさず、治療だけを途切れさせない。
進めないことを決めたあと、夜は急に静かになった。
サナはその静けさが、前の夜なら怖かったと思う。何も鳴らないのは、誰も見ていないからかもしれない。眠れば脈が見失われる。呼鈴が鳴らなければ、旧館に残る誰かを忘れる。そう考えて、眠気を追い払ってきた。
けれど今夜は、イレナが寝台の脇へ一枚の引継ぎ札を置いた。
「サナさん。これから、私は二刻休みます」
「眠るんですか」
「眠ります。隣の部屋で。鈴はメルクさんが受けます」
イレナは廊下に立つ交代の看護者を示した。メルクはサナの寝台の高さに合わせて膝を折り、札を声に出して読む。
「サナ・リュベルさん。旧館登録で夜間補助を継続。新館側は試行中止の記録を残す。息が浅い、胸が白くなる、叔母様と話したい時に通話できない、で停止。鈴一回はそばへ来る。二回は旧館復帰の準備。今夜は再移行をしない」
「薬は」
サナが訊く。
「白札の薬は今夜すでに受けた。青札の追加はなし。次の薬時刻は朝。飲んだことと、飲まなかったことは、どちらもここへ書く」
メルクは札の空欄を指した。イレナが休む間に、患者の夜が前の看護者の頭の中だけへ戻らないように、必要な言葉が残されている。
「私が眠ったら、息が浅いか分からない」
「分からなくていいように、呼吸の紋を見ます」
メルクは答えた。
「でも、紋だけで決めません。目が覚めた時に苦しかったら、あとからでも聞かせてください」
サナは、それなら眠ってもよいと思った。眠っている間の自分を誰かが勝手に説明し切るのではなく、目が覚めた自分の言葉が記録の続きを持てる。
イレナはサナの返事を待った。
「今から休みます。もし起きていたいなら、それも書きます」
「眠ってみます」
「分かりました」
それは治療の命令ではなく、今夜の選択として書かれた。
廊下の向こうでは、夜勤の交代が同じように始まっていた。ベルクは薬庫の鍵を次の係へ渡す前に、二色の札を机へ並べた。白札を渡した患者、青札を残した患者、どちらも渡していない患者。数だけでなく、なぜその夜に渡さないかを読む。
「ナディアさんには、今夜、新館の薬は出さない」
ベルクが言う。
「旧館の分だけを、旧館の時刻で渡す。白札へ名前が出ていても、薬の場所まで勝手に移さない」
受け取る薬庫係は、青札の名を復唱した。
「ナディアさん。旧館の湯を確かめてから。人形が寝台の内側にあることを夜勤が見る」
ローデは隔離室の前で、交代の管理係へ暖房の音を聞かせた。送風口の布が落ちたこと、止めた接続、今夜は再開しないこと。道具の不具合を一度直したからといって、患者が怖がった時間までなかったことにはしない。
「この音が変わったら、先に暖房を見る。新館へつなぎ直そうとしない」
「分かりました」
交代の管理係は、布の位置と受話器の呼び方を自分で確かめた。
サナは寝台から、引継ぎの声が次の部屋へ進んでいくのを聞いた。ハルムには、娘へつながる時刻まで無理に起こさないこと。手が冷えた時は木笛ではなく鈴を握れるかを見ること。ミレナには、孫の名を寝ている隣人への問いに使わないこと。アデルには、返事を待って治療を遅らせないこと。
条件は患者を眠らせないための理由ではなかった。眠っている間に、夜勤者が何を見て、何をしないかを決めるためのものだった。
サナは鈴を右手へ寄せ、目を閉じた。
最初に目が覚めた時、窓の外はまだ暗かった。胸に白いものはなく、口の中が少し乾いている。呼ぶほどではないが、眠れないほどでもない。枕元にはメルクが置いた小さな水差しと、時刻を記した紙があった。
二十三時四十分。呼吸紋、安定。薬、追加なし。手動補助、なし。
紙の最後の一行を、サナは何度も見た。誰かが手で脈を数え続けていない。誰かが眠気をこらえて自分の胸元を見張っていない。それでも、自分は起きられた。
廊下で足音が止まる。
「起きていますか」
メルクの声だった。
「少しだけ」
「苦しいですか」
「苦しくない。水を飲みたい」
メルクは入ってきて、水差しを渡す前に訊いた。
「自分で飲めますか」
「飲める」
サナが一口飲み、頷くのを見てから、メルクは紙へ「覚醒、本人申告で呼吸苦なし。飲水可」と書いた。すぐに寝台の脇を離れる。
「もう、見ていなくていいんですか」
「必要なら、鈴が鳴ります」
「鳴らない時は」
「定刻に来ます。ずっと見続けることと、来ないことの間に、夜勤があります」
サナはその言葉を聞いて、少し笑った。以前の夜は、その間がなかった。患者が眠れば、誰かが手動補助へ回り、次の患者の鈴が遅れる。夜勤者が倒れてから、ようやく交代を考える。今夜、メルクは次の巡回へ行き、イレナは隣室で休んでいる。
一刻後、イレナが戻ってきた。髪を結び直し、洗った手の匂いがした。彼女はメルクの札を読み、サナへ直接訊く。
「眠れましたか」
「少し起きた。でも、また眠れそう」
「手動補助は使っていません」
「イレナさんは休めた?」
「眠れました」
イレナは迷わず答えた。
それがサナには、どの正常表示よりも確かなことに思えた。夜勤者が「大丈夫です」と立ったまま言うのではなく、実際に横になり、次の人へ札を渡して戻ってきた。
イレナは新しい紙を開く。
「一時の引継ぎです。ナディアさんは旧館で眠っています。呼鈴と暖房は正常。湯は夜半に一度確かめ、本人が頷いた。ハルムさんも眠っています。手の冷えはなし。ミレナさんは孫の名を寝言で呼んだが、起こして確認はしていません。アデルさんは治療を続け、呼吸は安定」
「全員、眠ってるんですか」
「今、移行表にいる人は」
「怖くない?」
イレナは少し考えた。
「怖さが消えたわけではありません。朝まで何も起きないと、約束もできない。でも、起きた時に誰が起き続けるかを、一人にしない夜にはなりました」
サナは、鈴を卓上へ戻した。届かないところへ置いたのではない。今は眠るために、手から少し離しただけだった。
イレナが次の巡回へ向かう前、サナは止めた。
「私のところだけ、何度も来ないで」
イレナは振り返る。
「苦しいですか」
「違う。私が起きていると、みんなが起きているような気がする」
イレナは札を見た。サナの次の定刻確認は一刻後で、呼吸紋は安定している。以前なら、患者がこう言っても、念のために誰かが寝台のそばへ残っただろう。
「定刻までは来ません」
イレナは言った。
「ただし、紋が止めると言ったら来ます。サナさんが鈴を鳴らしたら来ます。どちらもないなら、私は次の部屋へ行きます」
「次の部屋は、誰」
「アデルさん。薬を渡す時刻です。返事ができなくても、今夜の薬を遅らせない」
サナは頷いた。自分だけが見守られることが、ほかの患者から夜勤を奪うなら、それもまた眠れない理由になる。夜勤が巡回へ行くことを、自分の安全の外側に置かなくてよくなった。
廊下の遠くで、薬庫の声が小さく交わされた。アデルの薬を確認する復唱、旧館のナディアには追加を渡さない復唱、朝の分と混ぜないための鍵の音。手動補助の紋を触る音は、どこからも聞こえない。
やがて、もう一度だけ足音が戻った。定刻の確認だった。メルクは扉を少し開け、眠っているサナを起こさず、呼吸紋と鈴の位置だけを確認した。サナは目を開けなかったが、誰かが手で胸を数えていないことは分かった。紙の上には後で、「零時四十分、睡眠継続。呼吸紋安定。鈴、手の届く位置」と書かれる。
隔離室でも同じだった。ナディアが眠る前に、自分で湯の温度を確かめ、人形を内側へ置いた。ローデはそれを引継ぎ札へ残し、交代の管理係は暖房の音を一度聞いただけで廊下へ戻った。旧館の戸口に誰かが座り込み、眠っている患者を見張り続ける夜にはしなかった。
それから彼女は、夢を見た。白い灯りと青い灯りが同じ廊下に並んでいる夢だった。どちらかの灯りへ急いで行かなくても、そこに名前があった。夢の中でも、誰かが「戻す」と言えば、扉は閉じずに待っていた。
朝の最初の光で目を覚ますと、窓の布の端が明るくなっていた。イレナとメルクが、交代の札を並べている。ベルクが薬庫の帳面を閉じ、ローデは旧館から届いた暖房の記録を机へ置く。
「夜間の手動補助」
イレナが、朝番の前で読んだ。
「ゼロ」
その数字は、誰かの手が要らなかったという意味ではない。患者が眠り、呼吸を記し、薬を渡し分け、鈴を届くところに置き、夜勤者が眠って交代できた。その全てを重ねた夜の、最後の記録だった。




