第4巻 第36話 レントは外で待つ
レントは、旧館と新館をつなぐ渡り廊下の外にいた。
夜の冷えが石畳から上がり、彼の足元には入口の灯りが細く伸びている。扉は閉められていない。呼べば聞こえる距離だった。それでも、移行席の輪の中には入らなかった。
「決める場に、私がいると」
夕方、レントはサナへそう言った。
「記録の穴を見つけた人の言葉が、正しい順番に見えてしまう。今夜は、患者さんと夜勤者が決めた順番を、私が説明しないで見ます」
サナは最初、それが遠ざかることのように思った。危ない時にいなくなるのではないか。何かを見落としても、外で待っていると言われるのではないか。
けれどレントは、扉の鍵を持って出たわけではなかった。呼鈴が鳴れば戻る。記録の確認が要れば答える。ただ、患者の代わりに「進める」と言わない。それだけだった。
今、移行席にはサナ、ハルム、ミレナ、アデルの姉、イレナ、ミナ、ローデ、受付係が座っている。ナディアは隔離室の寝台にいるため、壁の受話器と硝子窓の向こうから席へつながっていた。誰か一人の椅子が上座に置かれることはない。
ミナが、昨夜の接続記録を机へ広げた。
「ナディアさんの白札は、まだ閉じていません。旧館の札も起きています。二つを切る前に、本人確認を二回に分けます。一回目は旧館で名前を受け取れること。二回目は新館の灯りと名前を、本人がこの部屋で受け取れること」
「今夜、続けますか」
イレナが訊いた。
返事は、誰もすぐに出さなかった。続けることは、昨日の作業を失敗でなかったことにするための言葉ではない。ナディアが今日も同じ灯りを見られるか、夜勤が戻す手を持っているかを、もう一度確かめる必要がある。
サナは硝子窓へ近づいた。
「ナディアさん。昨日の白い灯りを、今夜も見ますか」
寝台のナディアは、人形を寝台の内側へ置いていた。ローデが湯差しを確かめ、イレナが窓の布を少しだけ開ける。ナディアは白い端末を見ず、先に湯の湯気へ手をかざした。
「ローデが、いるなら」
「いる」
「イレナも」
「います」
「サナは?」
サナは一瞬、答え方を迷った。自分がここにいることを約束しても、ナディアのために自分の移行を止め続ける人になってはいけない。
「今夜は、ここにいます。私が外せない時は、患者席の人が代わりに鈴を持ちます」
ハルムが、机上の赤い紐を手に取った。
「俺が持つ」
「私も」
ミレナが言う。
イレナは二人の間に、鈴を一つずつ置いた。
「誰かが鳴らせば停止です。鳴らした人が理由を説明するまで待ちません。あとで聞きます」
アデルの姉が、その言葉を帳面へ写した。患者席には、移行する患者だけではなく、今夜移行しない人もいる。止めることが誰かの順番を奪うのではなく、次の夜へ順番を残す行為だと、皆が少しずつ知り始めていた。
「ナディアさんの接続は、四分にします」
ミナが言った。
「昨日の六分より短く。三秒の記録差ではなく、二秒で停止。湯の確認ができない、人形が内側から動く、呼ばれて返事がない、患者席の鈴が鳴る。このどれでも、白札を保留にして旧館を継続します」
「戻した時、白札の名前は消えますか」
ローデが訊く。
「消えません。『ナディア』は、新館でも旧館でも読めるように残す。ただし、移転完了にはしない。名前だけを先に運んで、本人を置き去りにしないためです」
それは技術の説明だったが、サナには、昨夜自分が旧館へ戻った時のことと重なった。戻ると決めても、自分の言葉まで消えなかった。記録の中で失敗とされなかったから、今夜こうして別の人の鈴を持てる。
接続が始まった。
旧館の青い灯りと新館の白い灯りが、窓際の壁に小さく並ぶ。ミナは端末の線を追い、ローデは湯差しと暖房の音を聞き、イレナはナディアの指先を見る。サナたちは硝子窓の外で、誰かの判断を待つだけではなかった。赤い紐は各々の膝にあり、停止条件の紙は皆が読める高さに貼られている。
「ナディアさん」
イレナが呼ぶ。
「ここはどこですか」
ナディアはすぐに答えなかった。人形の髪を撫で、窓の布と端末の白い灯りを見た。
「旧館」
「そうです。白い灯りは」
「新しい、名前のところ」
サナは息を止めた。昨日は「灯りだけ」と言った人が、今は白い灯りを名前のところと呼んだ。けれど、それを進める印にしてはいけない。サナは自分の膝の鈴を握るだけにした。
「ナディアさん。白いところで、何と呼ばれますか」
ミナが訊く。
「ナディア」
端末の白い欄に、その名が映る。旧館の壁の受話器からも、同じ名を復唱する音がする。
「ナディア。旧館夜間補助、継続」
二つの場所で名前が同じように呼ばれても、ナディアの肩は強ばらなかった。ローデが湯差しを傾けると、ナディアは自分で湯の温度を確かめ、頷く。
「二分」
イレナが告げる。
その時、旧館の暖房が一度、低く咳をした。
ミナの端末で温度の線がわずかに下がる。三十六・八から三十六・六。安全上限ではない。だが、ローデの顔色が変わった。
「この音は、送風が詰まりかけた時のだ」
彼は壁の受話器へ手を伸ばす。
「旧館、隔離室の暖房確認。今すぐ」
ナディアは咳のような音を聞くと、人形を胸へ抱き戻した。まだ寝台の内側にはある。湯差しも倒れていない。ミナの端末は、新館の受信温度を正常と表示している。数字だけを見れば、接続は続けられる。
「止める?」
サナは低く訊いた。
「温度は上限内です」
ミナが答える。しかし、続けるとは言わない。
イレナはナディアへ近づいた。
「暖房の音が変わりました。白い灯りは消しますか」
ナディアは人形を抱いたまま、湯差しの方を見た。
「湯、まだ?」
ローデは手の甲を湯気へかざした。温度は保たれている。けれど、ナディアは自分で確かめようと手を伸ばし、途中で止めた。端末の白い灯りが、また一度だけ細くなる。
ハルムの赤い紐が鳴った。
「止める」
彼は言った。
「この人は、湯を確かめられない」
イレナはすぐに復唱した。
「患者席から停止。接続を保留。ナディアさんのそばに残る。ミナさん、白札を保留。ローデさん、旧館の暖房を確認。受付、今夜の接続は止めたと記録。家族席はそのまま待機」
ミナは接続板から指を離した。白い札の文字は消さず、「本人確認済み・接続保留」と表示を変える。旧館の青い灯りは、暖房と呼鈴を受け取ったままだ。
「ナディアさん」
サナは硝子窓の外から呼ぶ。
「白い灯りを止めました。今、いるのはどこですか」
ナディアは、ローデが持ち直した湯差しへ手をかざす。湯気を確かめてから、短く答えた。
「旧館。ナディアは、ここ」
「聞こえました」
サナは言った。
その返事は、接続を続ける許可ではない。戻れたことを、患者の口から確かめたものだった。
暖房の確認を終えたローデが、受話器から顔を上げる。
「送風口の布が少し落ちていた。今は戻した。だが、今夜はもう接続しない」
「そうしましょう」
ミナはすぐに言った。
「機械の値が戻っても、患者席の停止は取り消しません」
ハルムは赤い紐を机へ戻さなかった。自分が鈴を鳴らしたために、誰かが責めるのを待っているように見えた。サナは彼の隣へ座る。
「止めてくれて、よかったです」
「俺は、機械のことは分からない」
「湯を確かめられないことは、分かりました」
「分かる人が、他にいるだろう」
「いても、今、言ったのはハルムさんです」
サナは言った。
「止める理由を、詳しい人だけの言葉にしたら、また私たちは待つだけになる」
ハルムは少し考え、赤い紐を自分の膝に置いた。
「娘がいない時間に移る、という俺の紙も」
「今夜は、ハルムさんが決めます」
「まだ決めない」
「それも、決めたことです」
ハルムの娘が、移行表の自分の連絡欄を指した。
「父の番を、明日に回すなら。私は明日の夜は来られません」
「電話なら」
「二十二時半までなら出られます。出られない時は、父に待たせないでください。旧館に残ると決めたら、私へ連絡だけください」
イレナは、その言葉をそのまま書いた。家族が来られないことを、移行を急ぐ理由にも、誰かを責める理由にもしない。連絡が通らない夜に何をするかを、本人と家族が先に置く。
ミレナの孫も、祖母の鈴を持ち上げた。
「明日、祖母が私の名前を三回迷ったら、戻すんですよね」
「はい」
「二回言えたら、進める?」
「二回言えても、ミレナさんが嫌だと言えば進めません」
ミレナは自分の椅子で鼻を鳴らした。
「私は、嫌なら言うよ」
「言ってください」
患者席の笑いは小さかった。異常を待つ部屋で笑えることが、今夜の成功を意味するわけではない。それでも、誰かの条件を読み上げる声が恐ろしい宣告だけにならなかった。
ミナは端末の保留表示を指した。
「ナディアさんの接続を止めた時刻、理由、旧館の応答、患者席の停止者を残しました。次に接続を考える人は、今日の数値だけで決めません。湯を確かめられなかったことも、ハルムさんが鈴を鳴らしたことも見ます」
「その人は、レントじゃなくてもいいんですね」
サナが言うと、ミナは頷いた。
「夜勤と患者席と、設備を見る人がそろっていればいい。分からないことをレントさんに訊くのは構いません。でも、決めるためにここを空ける必要はありません」
渡り廊下の外で、レントの影が動いた。彼は入ってこない。扉の硝子越しに、患者席に残った赤い紐を見ているだけだった。
誰もレントの判断を待たなかった。ミナは接続保留の記録を読み上げ、イレナはナディアの夜間補助を夜勤表へ戻し、アデルの姉は家族連絡欄へ「中止後も旧館継続」と書いた。サナは受話器を取り、ナディアへもう一度だけ名を呼ぶ。
「ナディアさん」
「いる」
その声が旧館の受話器と新館の白札の両方へ届いた時、移行席の誰もが、続けることは進むことだけではないと知った。
深夜を知らせる最後の夜間鐘が、旧館の廊下で鳴った。




