第4巻 第35話 旧館への往復
サナの呼吸が戻り、旧登録が寝台、暖房、呼鈴、夜間補助を受け取っていることを、当直医とイレナはもう一度確かめた。四秒の遅れは試行中止の記録へ残し、次の全面移行には進まない。
休憩を終えた交代夜勤者が軽症病棟とサナの部屋を引き受けたあと、イレナ、ミナ、患者席は、ナディアには全面移行ではなく、名前と夜間補助を六分だけ並べて読む別の試行を行うと確認した。
ミナは、旧館の隔離室へ入る前に、新館の端末を床へ置いた。
端末を先に持ち込めば、機械が部屋を受け取ったように見える。その順番を避けたかった。今夜つなぐのは、旧館を新館へ吸い込むための線ではない。ナディアが両方の場所にいることを、本人の前で確かめるための短い橋だった。
隔離室には、夜の熱が残っていた。旧館の暖房は低く唸り、窓には厚い布が下ろされている。寝台のナディアは人形を胸へ抱え、入ってきたミナを見ても、すぐには顔を上げなかった。
ローデが先に、寝台から離れた壁際へ立った。
「今夜は、部屋を変えない」
彼はナディアへ言った。
「新しいところの灯りを、ここから見えるようにするだけだ。嫌なら止める」
ナディアの指が、人形の布を握り直した。
「湯は」
「いつもの温度だ」
ローデは卓上の湯差しを指した。
「人形は寝台の内側。窓は閉めたまま。イレナさんが夜の間、ここにいる」
ナディアは湯差しを見てから、人形を少しだけ内側へ寄せた。その動きが、ローデにはいつもの返事だったらしい。けれどミナは、返事と同意を同じものにしなかった。
「ナディアさん」
ミナは端末を起こさずに呼ぶ。
「私はミナです。新館の灯りを、この部屋につなぐ準備をします。今は、札も寝台も動かしません。嫌になったら、手を上げるか、ローデさんへ言ってください。言えなくても、人形を胸から離せなくなったら、イレナさんが止めます」
ナディアの視線が、ミナの手元の白い札へ落ちた。
「白いのは、外」
「新館の札です。でも、外へ出る札ではありません」
「外は、寒い」
「今夜は、外へ出ません」
ミナは同じ言葉を繰り返した。説明が通じたと急いで決めないために、端末をまだ閉じたままにする。ナディアはしばらく沈黙し、それから人形の片手を白い札へ向けた。触れはしない。
「灯りだけ」
「灯りだけです」
ミナは頷いた。
隔離室の外、以前は物品置場だった小部屋に、今夜の患者席が作られていた。移行を待つ患者、家族、夜勤者がそこに座る。中の様子は見えないが、扉の上の小さな硝子窓と、声だけが通じる。サナも椅子に座り、膝の上の鈴を握っていた。彼女の呼吸は戻ったが、今夜の移行席ではない。止める人の一人として、ここに来ている。
イレナが扉の際で、停止条件を読み上げた。
「ナディアさんの接続は、六分が上限です。旧館の熱が一度でも落ちたら停止。人形が寝台の内側から動いたら停止。湯の温度を確かめられない時は開始しない。新館で名前を呼んでも、ナディアさんが嫌だと言うか、反応が消えたら停止。夜勤はここを離れません」
ローデが続けた。
「旧館の札は消さない。新館に名前が出ても、ここの呼鈴はつながったままだ。戻す時は、まず旧館の熱と寝台を確認してから白い札を伏せる」
ミナは最後に、自分の分を読む。
「接続中、新旧の記録差が三秒を超えるか、脈、室温、呼鈴のどれかが片側で読めなくなれば、まず新館の受信を止め、旧館側の応答を確認します。旧館側がすべて正常な間だけ、六分の上限内で本人確認を続ける。旧館側の応答が一つでも消えるか、六分に達したら、確認が終わっていなくても安全解除します。私の端末からは、移転完了を押せません。今夜できるのは、名前と夜間補助を一時的に並べて読むことだけです」
「止めるのは、誰ですか」
サナが硝子窓の外から訊いた。
ミナは、端末を見ずに答えた。
「ナディアさん。イレナさん。ローデさん。患者席。私です。誰か一人が言えば止めます」
「私も?」
サナの声は小さかった。
「サナさんもです。前の部屋で使った権限を、ここでは置きません」
サナは鈴の紐を掌へ巻いた。ミナはそれを確認してから、端末の二つの札を開いた。
青い札には、旧分類の文字が並ぶ。外部非接触。隔離継続。夜間補助。そこには患者名がなく、夜勤者が声をかけるための余地すら薄い。白い札には、ミナが昨日から用意した空欄がある。名前。呼び方。熱。人形。湯。誰が見守るか。空欄のままでは、どちらの札もナディアを受け取れない。
「ナディアさん」
ミナはもう一度呼んだ。
「この白い札に、書いていい名前はありますか」
ナディアは人形の髪を撫でた。
「私は」
声が途切れる。イレナは促さない。ローデも、昔の記録にあった名を代わりに言わない。
「ナディア」
やがて彼女が言った。
ミナは、端末へゆっくり入力した。
「ナディア。呼んでよいですか」
「ここなら」
「ここで呼びます」
入力欄の横に、白い灯りが一つ生まれた。新館の側で初めて、分類ではなく名前が読める。ミナはそれを完成とは呼ばない。名前が出ただけで、部屋の熱も、長い夜も、ナディアの恐れも受け取ったことにはならない。
ローデが湯差しの蓋を外した。ナディアは湯気へ手をかざし、少しして頷く。
「湯、よし」
イレナが、その言葉を記録した。
「開始前確認。湯の温度、本人確認済み。人形、寝台の内側。旧館の暖房、継続。夜勤、配置済み」
ミナは指先を端末の縁へ置く。
「接続を始めます。六分を越えたら、理由がなくても解きます。ナディアさん、今から白い灯りが点きます。怖かったら、目を閉じなくていい。止めて、と言ってください」
ナディアは、端末ではなくローデを見た。
「ローデは、いる」
「いる」
「イレナも」
「いるよ」
「じゃあ、灯り」
ミナは接続板を押した。
白い灯りが一度点き、すぐ青い灯りと並んだ。端末の上には二本の線が走る。旧館の寝台温度、三十六・八。新館の受信温度、三十六・八。呼鈴、旧館有効、新館待機。脈はゆっくりだったが、二つの線は同じ速さで動いている。
「一分」
イレナが告げる。
ミナは時間を数える役をイレナへ預け、三つの復帰札を卓上へ並べた。熱が落ちた時は暖房の札、呼鈴が消えた時は旧館呼鈴の札、名前の読取りが途切れた時は白札を伏せる札。どれか一つを使っても、残りまで切れないように、紐は別々の端末へ繋いである。
「ミナさん、上限より前に止めても、復帰できますか」
患者席からハルムが訊いた。
「できます」
ミナは答えた。
「上限は、我慢してよい時間ではありません。端末が壊れる前に、必ず解く時間です。患者が嫌だと言った時は、その前で止めます」
「戻したあと、ここがなくなるんじゃないか」
ローデが、ナディアの旧館札を見て言った。
「なくしません。復帰札を使う前に、旧館が応答するかを確認する。応答が消えたら白札を安全解除し、ここで手動補助へ切り替えて夜を守ります」
機械の安全上限と、人が戻れる上限は同じではない。ミナはそれを端末の設定から外して、声に出した。白い灯りが六分だけ保つことよりも、ナディアが灯りを見たあと、いつもの湯と人形のある場所へ戻れることの方が大事だった。
ナディアは光を見るたび、人形を胸へ引き寄せた。ミナは接続の値と、ナディアの指の力を交互に見た。端末は人形の位置を読まない。だから、数値が整っているほど、自分の目を信じなければならない。
「寒い?」
イレナが訊く。
「違う。白いの、遠い」
「遠いなら、ここへ近づけない。止める?」
ナディアはすぐには答えない。ミナの端末に、遅れが一秒半と出た。上限の三秒より小さい。だが、上限に達するまで待つことは、続ける理由にはならない。
「患者席、何か見えますか」
ミナは硝子窓の方へ訊いた。
サナが答えた。
「ナディアさんが、白い灯りを見るたびに人形を強く持っています」
「私も見ています」
イレナが言った。
ローデは寝台へ半歩近づいた。
「ナディア、灯りはここに置くか。消すか」
「消さない」
ナディアは言った。しかし、その次に湯差しへ手を伸ばし、蓋を開けようとして指を止めた。いつもの湯の温度を、今は確かめられない。イレナがすぐに温度計を差し出すが、ナディアは受け取らなかった。
「手が、ない」
「分かりました」
イレナは温度を伝えなかった。職員が先に数字を言えば、確認したことに見せかけることができる。
ミナの端末で、新館側の呼鈴表示が一度だけ消えた。旧館側の呼鈴は有効のままだ。数値の差は二秒。まだ上限ではない。それでも、ナディアの条件の一つが崩れた。
サナの鈴が、硝子窓の外で一度鳴った。
ミナは接続板から手を離した。
「患者席から停止です。接続を保留します」
「止めます」
イレナも言った。
ナディアの視線が、白い灯りと人形の間を往復する。ミナは札を伏せる前に、彼女へ訊く。
「ナディアさん。白い灯りを消します。ここへ戻ります。聞こえますか」
ナディアは、人形を寝台の内側へ置いたまま、ミナの手を見た。
「ナディアは、ここ」
「ここにいます」
「名前も」
「名前も、ここにあります」
ミナはこの返事を、接続を終える許可だとは扱わない。白い札に名前を残すのか、今夜は伏せるのか。そこは、返事だけでは足りない。旧館で呼ばれた時にナディアが自分の名を受け取れること、新館側で同じ名を呼んでも怖くならないこと、その両方を確かめる必要がある。
ローデが、旧館の呼鈴を軽く鳴らした。
「ナディア」
寝台のナディアは、ローデの方を向いた。
「いる」
ミナは白い札へ、接続中止ではなく「本人確認継続」と記す。旧館の札は起きたまま、新館の札は伏せない。二つの灯りをただ切れば、今夜ナディアが言った名前まで、また分類の奥へ落ちてしまう。
「旧館の応答が続き、六分の上限内である限り、接続解除は本人確認後とします。どちらかが崩れれば、確認が終わっていなくても安全解除します」
ミナは皆に告げた。
「旧館で呼んだ名と、新館で呼ぶ名を、ナディアさん自身が受け取れること。湯と人形と熱が、どちらの記録にも残ること。それを夜勤と患者席で確認してから、白い札を閉じます」
イレナは時計から目を離さず、経過を読み上げ続けた。本人確認を待つ間も、六分の計時は止まらない。
患者席の鈴も、ローデの旧館札も、その確認が済むまで、誰にも取り上げられない手の届くところに残された。
夜は続く。




