第十六話 老技師の署名
保守工房の扉は開いていた。
中にガルドはいない。
作業台には、磨きかけの金属環と、畳まれた布だけが残されていた。
「工具袋もありません」
ミナが壁の掛け金を見る。
「逃げたのか」
セラが低く言う。
「どこへ?」
「町の外へ出るなら門の記録が残る。塔へ戻った可能性は」
伝令を走らせる。
北塔にも南塔にもいない。
宿にも帰っていない。
蓮人は工房を見回した。
部品棚。
洗い砂。
水差し。
壁に掛けられた古い工具。
ガルドが毎日触っていたものから、淡い線が伸びている。
線は扉の外へ向かう。
蓮人は目を閉じた。
見えるからといって、足跡を追えるわけではない。ガルドの行き先を知っているのではない。自分が知っている関係が、視界へ出ているだけだ。
工具袋と関係のある場所。
水輪。
補助流路。
解雇された二人。
「呼び戻す予定の職人は、どこにいます?」
「一人は西の水車小屋。もう一人は北の旧採石場で働いているはずです」
「ガルドさんは、誰から先に会うと思いますか」
ミナは少し考えた。
「旧採石場のリクさんです。ガルドさんの弟子でした」
守備隊の馬を借り、三人は北へ向かった。旧採石場は町から半刻ほどの距離にある。切り出しを終えた石壁の下で、数人の職人が荷車を修理していた。
ガルドは、若い男と向かい合っていた。足元には、半年前にリクが置いていった工具箱があった。保守工房の焼き印の上から、採石場の番号が刻まれている。
「返しに来た」
「首の日には、結界庁の物だから渡せないと言っただろ」
「主任が見てた」
「だから黙った。今日も、俺を働かせるために持ってきた」
リクは箱を開けなかった。道具を返すことは、奪われた仕事と信頼を返すことではない。
「戻らねえ」
若い男――リクの声が聞こえた。
「三日だけだ」
「三日働いて、また都合よく切るんだろ」
「今度は違う」
「何が違う。親方は半年前もそう言った」
ガルドは答えられなかった。
蓮人たちに気づくと、顔を背ける。
「探しに来たか」
「はい」
「署名を見つけたんだろ」
「それもあります」
「言い訳はしねえ。管を付けた。安全だと署名した。俺の仕事だ」
「では、なぜ逃げたんです」
ガルドが蓮人をにらむ。
「逃げちゃいねえ」
「工房に何も言わず、工具を持って町の外へ出た」
「こいつを呼びに来ただけだ」
「署名が見つかる前に?」
沈黙。
リクが二人を見比べる。
「何の署名だ」
「お前には関係ねえ」
「またそれか」
若い職人は笑った。
「危ない仕事は全部自分で抱えて、俺たちには関係ないと言う。だから俺たちは何も知らないまま首になった」
ガルドの拳が震えた。
「知ってりゃ、お前らも署名させられた」
「断る」
「だから首になったんだ!」
採石場に声が響く。
「二人とも断った。残った俺まで断れば、北塔を見る奴がいなくなる。水輪は一月もたず止まる。代官庁は王都の業者を呼ぶと言ったが、来るまで冬を越せねえ。俺が残るしかなかった」
「署名の日、何を言われたんです」
ミナが尋ねる。
「拒めば保守工房との契約を切る。俺だけじゃない。掃除係も運搬の若いのも全員だ。最初の紙には危険だと書き添えた。主任が破って、次は署名欄しか見せなかった」
「それでも署名した」
「翌朝も水輪を回すためにな」
リクが工具箱を蹴り返した。
「俺は妹の薬代を払えなくなった。ハンスは住む場所まで失った。親方だけ工房に残って、俺たちを守ったことになるのか」
「なら、どうすりゃよかった」
「一緒に止めればよかった!」
止めれば冬の結界が危うい。残れば隠蔽を支える。ガルドは一人で選び、その代償を弟子へ説明しなかった。
ガルドは息を荒らしていた。
「管を付けりゃ警報は減る。異常が消えるわけじゃねえ。そんなことはわかってた。だから手帳へ残した。水輪も見続けた。何かあれば俺が補助流路を開ければいいと思った」
「あなたがいる間は」
蓮人が言った。
「そうだ」
「寝ている間は」
「呼ばれりゃ行く」
「倒れたら」
「まだ倒れてねえ」
「今回、結界が落ちたときは」
ガルドは答えなかった。
結界消失時、彼は工房で清掃済みの部品を洗い直していた。警報は鳴らず、北塔へ駆けつけるのが遅れた。自分一人で支える仕組みは、自分が異常に気づけなければ動かない。
「署名した責任はあります」
蓮人は言った。
ミナが不安そうにこちらを見る。慰めるだけでは、同じことが起きる。
「警報を隠す工事だと知っていた。記録を自分の手帳に閉じ、ミナさんや守備隊へ渡さなかった。その責任は、残るためだったという理由では消えません」
「わかってる」
「でも、あなた一人の責任でもない。拒否した人を解雇した。予算を削った。警報件数だけで評価した。正式記録から現場の観察を消した。それらも全部、今回の障害につながっています」
「だから何だ。全員が少しずつ悪かったことにして、誰も責任を取らねえのか」
「逆です」
蓮人は命令書の写しを差し出した。
「関わった全員の判断を残します。誰か一人へ押しつけて終わらせないために」
ガルドは紙を受け取らなかった。
「俺に何をしろ」
「町へ戻って、第三の管を安全に外す方法を教えてください。それから、補助流路の操作をリクさんたちへ渡す」
「こいつらが戻るとは言ってねえ」
蓮人はリクを見る。
「三日間の臨時雇用ではなく、作業内容と危険、終了条件、支払いを文書にします。上書き管を外したあとも、恒久修理まで必要なら延長する。ガルドさんの指示へ絶対服従ではなく、危険だと思えば作業を止められる条件を入れます」
「代官が認めるか」
リクが問う。
「認めさせる材料は、これから作ります」
「まだないのかよ」
「嘘をついても、現場ではばれますから」
リクはしばらく蓮人を見た。
やがて、ガルドへ向き直る。
「俺は親方を助けるためには戻らない」
「頼んでねえ」
「町の水輪を直すために戻る。今度は全部教えろ。俺たちが間違ってたら、そう言え。でも、危ない理由を隠して命令するな」
ガルドは顔をしかめた。
「注文の多い弟子だ」
「首になったから、もう弟子じゃない」
「なら自分の工具を持て。俺のを当てにするな」
それが、ガルドなりの承諾だった。
リクは工具箱を拾ったが、帰路でガルドの隣には立たなかった。協力は戻った。信頼は戻っていない。
町へ入る前、雨が降り始めた。ガルドは一枚しかない油布を工具箱へかけ、リクの肩は濡れたままにした。以前なら弟子へ渡したのだろうが、いまは気遣いさえ命令のように受け取られる。
「妹の薬は」
ガルドが前を向いたまま尋ねる。
「今月分は採石場の親方に借りた」
「返す」
「いらない」
「俺のせいだ」
「金を返せば、あの日に戻れると思うな」
会話はそこで切れた。蓮人は仲裁しなかった。解決を急げば、リクが怒る時間まで奪う。
北門でリクは工具箱を開け、一本ずつ錆を確かめた。ガルドが磨いた跡のあるものと、半年触れられていないものが混ざっている。
「親方。明日の作業で俺が弁を閉める」
「まだ早い」
「だから横で見ろ。危なければ止めろ。ただし代わりに手を出すな」
ガルドはすぐに答えなかった。
「一回だけだ」
「一回目をやらなきゃ二回目はない」
引継ぎの最初の条件が、雨の北門で決まった。翌朝、リクは約束どおり補助弁の前へ立った。ガルドは背後で腕を組み、右へ四分の一、戻り音を待つ、振動が二度なら閉じ直す、と口だけで伝える。
一度目、リクは半分近く回した。ガルドの手が動きかける。
「触るな」
リクは弁を元へ戻し、圧が変わらないことをミナに確認してからやり直した。
「いまの間違いも書け」
「恥じゃねえのか」
「隠した方が、次の奴も間違う」
二度目は四分の一で止まった。ガルドは「できた」と言わず、次の操作をリクへ尋ねた。
「戻り音を百まで聞く。二度鳴りなしなら確認者を呼ぶ」
「それでいい」
許したのではなく、任せた。リクも礼を言わなかった。
訓練後、ガルドは手帳の該当頁を切り取ろうとしてやめた。原本を渡せば自分の手元からなくなる。写しを作れば、書き間違えるかもしれない。
「ノアに読ませて三部作りますか」
「大げさだ」
「一冊しかない方が大げさな危険です」
リクが手帳を取らずに言う。
「俺が写す。親方は読み上げろ。ハンスが現物と照らす」
ガルドは渋々、油染みの頁を開いた。音を表す独自の記号、季節で変わる弁の重さ、冬だけ行う暖管の順序。説明するたび、弟子たちが「なぜ」を挟む。
半分も終わらないうちに夕鐘が鳴った。
「明日も続きだ」
リクは写しを自分の工具箱へ入れず、工房の共用棚へ置いた。誰の所有物でもなく、次の当番が読める場所だった。
ガルドは棚を一段下げた。背の低い若手でも、踏み台なしに取れる高さだった。
手帳は胸元へ戻したが、写しが棚にあることを二度確かめた。不安は消えず、それでも隠し場所へ戻さなかった。
四人で町へ戻る。
採石場を出る前、ガルドは蓮人へ言った。
「俺の署名は消すな」
「消しません」
「脅されたとも書くな」
「事実では?」
「言い訳に見える。命令を受けた。危険を知って署名した。手帳に残した。それを全部書け」
「解雇された二人のことも書きます」
「好きにしろ」
ガルドは手帳を閉じなかった。署名のあるページを、蓮人とミナの間へ置いたまま、次の紙を取りに立った。




