第十七話 首にされた三人
西の水車小屋にいたもう一人の元職人は、町へ戻ることを拒んだ。
「俺は二度、首になりたくない」
名をハンスといった。
三十歳前後。水車の軸受けを外し、削れ方を確かめている最中だった。ガルドとリクが訪ねても、手を止めなかった。
小屋の隅では妻が粉袋を縫い、幼い息子が白い粉を吸って咳をしていた。北塔を首になったあと、三人は保守工房の住み込み部屋も失い、水車小屋の物置を借りている。
「三日抜ければ、この部屋は代わりの職人へ渡る」
妻は針を止めずに言った。
「町を救ったあと寝る場所がなくなる仕事を、引き受けろとは言わないでください」
「三日だけだ」
ガルドが言う。
「その三日のあと、誰が俺の仕事を返してくれる」
「代官庁へ延長を求める」
「求めて、断られたら?」
「そのときは」
「また水車小屋へ戻れってか。ここの親方は、俺が抜ける三日間を別の職人で埋める。戻る場所が残る保証はない」
正しい指摘だった。
緊急時だから協力してほしい。言う側には短い依頼でも、受ける側は現在の生活を賭ける。
「水車小屋側の損失も契約へ入れます」
蓮人が言った。
「代替職人の賃金、作業遅延の補償、戻ったあとの雇用保証」
「誰が払う」
「北塔の緊急保守費として代官庁へ請求します」
「認めなければ?」
「あなたは戻らない。それを条件に書きます」
ガルドが振り向いた。
「人が足りねえんだぞ」
「だからといって、ハンスさん一人に損失を押しつけられません」
「塔が落ちたら町全体が困る」
「町全体が困る仕事なら、費用も町全体で負担すべきです」
ハンスが初めて手を止めた。
「余所者。あんた、誰なんだ」
「肩書はまだありません」
「金を出す権限も?」
「ありません」
「何もないじゃねえか」
「なので、条件が通るまで作業を始めないでください」
ハンスは呆れたように笑った。
「急いでるんじゃないのか」
「急いでいます。だから、あとで揉めて止まる条件を先に片づけます」
一行は水車小屋の親方も交え、その場で必要条件を並べた。
三日間の代替職人。
遅れた製粉作業への補償。
北塔作業中に負傷した場合の治療費。危険を感じた職人が作業を止める権利。手順変更は全員へ説明し、記録すること。
蓮人には文字が書けない。ノアへ伝声石で読み上げ、代官庁で契約案にしてもらう。
「作業停止権など認められん」
伝声石の向こうから、結界庁主任の声がした。
「保守責任者はガルドだ。職人はその指示に従えばよい」
ハンスは無言で水車の軸へ戻ろうとした。
「待ってください」
蓮人は主任へ言う。
「半年前、リクさんとハンスさんが上書き管の工事を危険だと報告した。二人の報告は、どこに記録されていますか」
「正式な報告ではない」
「なぜ?」
「保守責任者を通していない」
「保守責任者は、工事を命じられた側です。そこへしか報告できないなら、異論は記録へ届きません」
ガルドが顔をしかめる。
自分が報告を止めたと責められたように感じたのだろう。
「親方が握りつぶしたんじゃねえ」
リクが言った。
「俺たちが直接、主任へ言った。主任が親方を通せと言った。その翌日、契約違反で首になった」
「契約違反の理由は?」
「指揮系統を乱した」
異常を報告した。
決められた順番ではなかった。だから報告内容ではなく、報告方法を理由に排除された。
「今回の契約には、現場職人から守備隊と書記官へ直接報告できる経路を入れます」
「結界庁を無視するつもりか」
「結界庁にも同時に届くようにする。無視ではなく、誰か一人で止められない形です」
「認めん」
「ではハンスさんは戻りません。リクさんも契約前なので、戻らない選択ができます。ガルドさん一人で三日以内に、上書き管撤去、水輪点検、出口測定、補助流路訓練を行うことになります」
伝声石の向こうで沈黙が続いた。ガルドは蓮人をにらんでいた。
「俺にはできねえと言いたいのか」
「できるかもしれません。でも、やらせません」
「なぜだ」
「あなた一人でできてしまうことが、ここまで人を減らした原因だからです」
ガルドの顔から怒りが消えた。
「……好きにしろ」
主任は最終的に、停止権ではなく「安全確認のための一時中断権」という文言で認めた。報告先は結界庁、守備隊、臨時調査班の三者同時。
言葉は回りくどい。
使える権利になった。
夕方、ノアが契約書を水車小屋へ持ってきた。認められた補償は要求どおりではない。製粉遅延は半額、七日分の雇用保証は「最大七日」に削られていた。
「最大を決めるのは」
「代官庁です」
「ならゼロにもできる」
ハンスは署名欄から手を離す。ノアはその場で、「復職が確認される日まで、七日を上限として実費を支給」と直し、水車小屋の親方にも受領印を求めた。
ハンスは一行ずつ読んだ。
「三日後、継続雇用しない場合は、元の仕事へ戻るまでの七日分を補償」
「はい」
「水車小屋の遅延も」
「親方と確認済みです」
「危険なら止めていい」
「止めた理由は記録してください。正しかったかどうかは、そのあと皆で確認します」
ハンスは署名した。
「勘違いするな。町のためじゃない」
「何のためでも構いません」
「俺が危ないと言ったことを、なかったことにさせないためだ」
理由は違っても、同じ作業へ参加できる。
リクはなお「ガルドの指示へ従う」という行を拒んだ。ガルドも責任者不在では作業にならないと譲らない。最後に、「ガルドが作業順を決め、危険申告時は三者確認まで中断」と書いた。
和解したのではない。止める権利を紙で挟み、同じ現場へ立てる距離を作っただけだった。
翌朝の準備では、その距離がすぐ試された。ハンスが古い接合具の錆を見て中断を宣言する。ガルドは布で拭けば使えると反発したが、契約どおりミナと守備隊員を呼んだ。
錆の下には細い亀裂があった。磨けば見えなくなる傷だった。
「止めて正解だった、と言えよ」
ハンスが言う。
「見つけたのは正しい。言い方は気に入らん」
「それでいい」
褒められるためではなく、止めた事実を消されないために戻ったのだ。
代替部品を探す間、ハンスは水車小屋へ伝令を出した。製粉の遅れを妻へ知らせ、何時までに戻れなければ代替職人を雇うかを確認する。北塔だけを見て家族の生活を再び見失わない。その連絡時間も、作業記録へ残した。
新しい接合具が届くと、リクが寸法を測り、ハンスが記録し、ガルドは最後まで工具へ触れなかった。三人で働けたのは、仲直りしたからではない。触れてよい手と、止められる声を先に決めたからだった。
昼休み、ハンスの妻が届けた包みには、一人分のパンしかなかった。
「分けないのか」
「家族が俺に食わせるために作った」
ハンスは一人で食べた。何でも分ければ仲間へ戻れるわけではない。失った生活の境界を守ることも、働く条件だった。
食後、余った布だけを工具拭きへ置く。ガルドは黙って使い、洗って同じ場所へ返した。
夕方、水車小屋から伝令が来た。代替職人が軸の締め方を誤り、製粉が半刻止まったという。
「戻る」
ハンスが工具を置く。
「北塔の接合は」
「契約に、水車側で重大停止があれば戻れると書いた」
ガルドは止めかけ、ノアの文書を見て黙った。町を守る仕事は北塔だけではない。粉が挽けなければ、明日のパンが消える。
ハンスは水車小屋へ走り、軸を直して二刻後に戻った。その間、北塔では接合具の確認を進めず待った。
「俺なしでやればよかっただろ」
「確認者が欠けた」
リクが答える。
「急ぐから条件を破る、をやめる契約だ」
待った二刻は遅延として記録された。ハンスが悪いのでも、水車小屋が邪魔なのでもない。二つの生活設備へ同じ職人を当てなければならない、人員不足の時間だった。
作業再開後、三人は一度で接合を終えた。待たされたガルドも手を出さなかった。
翌朝、ハンスは妻がまとめた帳面を北塔へ持ってきた。製粉の遅れと代替職人の賃金が記され、余白には「町のためだから、ただにしろと言われないか」と細い文字で書かれている。
「言わせないために持ってきた」
ハンスは家の損失を北塔の作業記録へ添えた。遅れた注文二件、追加職人一人、壊しかけた軸受け一個。ガルドは不満そうに数字を見たが、外せとは言わない。
保守費は部品と日当だけではない。代わりに止まった水車、待たされた粉屋、その家族の寝床まで含む。
「町が払わなければ?」
「その拒否も記録します」
ハンスは次の作業日へ自分の名を書いた。その横へ、水車小屋の親方も確認者として署名した。北塔側だけで完了を宣言せず、戻る仕事が残っている側にも判断を渡す。
リクは二つの署名を見て、「前は首の通知しか届かなかった」と言った。誰も返せる言葉を持たず、その一行もノアが経緯欄へ残した。
首にされた二人が戻った。
作業台には、ガルド、リク、ハンスの名が並ぶ。その上にノアが書き足した「危険申告時は三者確認まで中断」の一行だけ、乾ききらない墨が光っていた。




